ピンポーン。


いつもなら、一度鳴らせば出て来てくれる。
だけど、今日は何の音沙汰もない。


ピンポーン。


迷った挙句、もう一度鳴らしてみる。
しかし、やはり反応はない。

確かに今日約束をしていた。
朝もメールのやりとりをした。
だけど、誰も出て来ない。


…いない?


雪菜は蔵馬の部屋の前で小首を傾げた。











My Dozing Sweetheart











約束した時間に彼がいなかったことは、今まで一度もない。
訪ねに行けば必ず出迎えてくれるし、待ち合わせをすれば必ず先に来ている。

今日に限って、何かあったのだろうか?
そう思って、雪菜はバッグから携帯を取り出した。
ディスプレイを確認するが、なんの連絡も入っていない。


電話してみようか。
でも、そこまでするほどのことじゃないかもしれない。
もしかしたら、ちょっとコンビニに行っているだけかもしれないし。
どこかに出掛けていて、帰ってくる途中なのかもしれないし。


第一、この部屋に入れないわけではない。


蔵馬がいなくてもこの部屋に入れる術を、雪菜は持っていた。
たぶん、部屋の前で待っていたら、きっと気を遣わせてしまう。





雪菜は自分が持っているバッグの中を覗き込んだ。
ピンクのクマのキーホルダーの先についている、ふたつの鍵。
ひとつは桑原家の鍵。
そして、もうひとつは、この部屋の鍵だった。

今まで積極的に使おうとはしてこなかった。
渡されたものの、使う機会はほとんどなく、
会えないときに見つめる用として、手許にあるようなものだった。

雪菜は意を決してバッグから鍵を取り出す。
そして、目の前の扉を開けた。


「…おじゃまします」


もちろん声は返って来ない。
雪菜はいつも履いているスリッパを履き、部屋の奥へと進んだ。





「……!」


思わず声が出そうになるのを、すんでのところで堪える。
出迎えてくれないのも、携帯に連絡が入っていないのも、すべて理解できた。

目に映ったのは、読みかけの本とともにラグマットに横たわる彼の姿だった。
左腕を枕にして、身体を横に向けている。
肩の規則正しい動きが、彼が心地よく眠っていることを物語っていた。

珍しい光景だ。
雪菜はそう思った。
彼のこんな無防備な姿を見ることは滅多にない。

雪菜は少し近づいた。
たぶん、彼なら気配を感じてそろそろ起きるはずだ。
こんなに近いのだから、気づかないはずがない。


「………?」


しかし、彼が目を覚ます気配はなかった。

雪菜は、スリッパを脱いでラグマットに上がった。
そして、寝ている蔵馬の傍へと行く。
何も反応はない。
聞こえてくるのは規則正しい寝息だけだ。


「…寝て、るんですか…?」


呼びかけてもなんの反応も返って来ない。
綺麗な瞳は閉じられたままだった。


「…また、からかってます…?」


そう言って、雪菜は蔵馬の傍にしゃがみ込んだ。
顔を覗き込んでみるが、やはり何も反応は返って来ない。
わざと、ではないのかも。
雪菜はそう考えながら、余計にどきどきしてきた。


どうしよう。
起こすべき?
でも、気持ちよさそうに眠っているし…。


別に今日は何か予定があるわけではなかった。
ただ、午後からふたりで会って、のんびりしようと、そう話していただけだった。
だから、急いで起こす必要などなくて。

もう少しだけ、この寝顔を見ていたくなった。





ラグマットの上に座り込む。
こんなに近くにいても気づかないなんて。
よっぽど疲れているのだろうか。

雪菜はそっと、顔にかかった蔵馬の髪を指で払った。
整った顔はこちらを向いているのに、その瞳はこちらを見てはいない。
長い睫毛が、頬に影を作っている。

綺麗だと雪菜は思った。

そして、愛しい、そう思った。





ラグマットの上に置かれた彼の右手に手を伸ばす。
細長く綺麗な指は、なんの抵抗もしなかった。
そっと握ると、彼の温もりが伝わってくる。

あたたかい、彼の手だ。
いつも頭を撫でてくれる優しい手。

しばらくその手を握って、しかし、しばらくして雪菜は我に返った。
なにをしているのかと。
急に恥ずかしくなる。
慌ててその手を離そうとした。

しかし、できなくなった。
わずかに身じろいだ彼が、その手を握り返したのだ。


「…!」


鼓動が、高鳴る。

けれど、彼は瞳をつぶったまま、目を覚まさなかった。








*








いい匂いがする。
そう思いながら蔵馬は目を開けた。
そして、すぐにその香りの正体を理解した。

眼前に、白い肌とアクアマリンの髪。
微かに香る甘いパフューム。
今日会う約束をしていた彼女が、自分の隣で眠っていた。

しっかりと繋いでいる手に、蔵馬は苦笑した。
寝ながら自分は何やってるんだ、と。

繋いだ手はそのままに、蔵馬はそっと上体を起こした。


「…ごめんね」


せっかく来てくれたのに。
本を読んでうとうとして、この始末だ。

一瞬目が覚めたのは覚えている。
たぶん、彼女が部屋に入ってきた瞬間。
近づいてきたのが彼女だとわかった瞬間、気を抜いてしまった。
彼女は安全だと判断した脳が、再び眠りにつくことを選んでしまったのである。
本当は、起きなければならなかったはずなのに。


「…安心しすぎたみたい」


そう彼女に投げかけたが、当然返事は返って来なかった。

隣で眠る彼女は、リボンのついたアイボリーのブラウスにミントグリーンのワンピースを着ていた。
裾から見える細くて白い脚がなんとも悩ましい。
ハーフアップにされた長い綺麗な髪が、無造作に広がっている。
前髪の隙間からのぞく白いおでこが愛らしかった。
起き上った彼女の全体像を見られたら、もっと可愛いだろうに。

そこまで考えて、俺は変態か、と心の中でつっこんだ。
寝起きだからそんな風に思うのだと、蔵馬は自分を納得させた。





部屋に入ってきっと彼女は驚いただろう。
そして、困らせてしまったはずだ。
だけど、こうして並んで寝ころんでいると、それも悪くないと思ってしまう。

目覚めたときに、すぐ傍に彼女がいてくれたことが嬉しかった。
いつもの遠慮がちな彼女ではなくて、こんなに近くにいようとしてくれた彼女の行動が嬉しかった。
そう思いながら、蔵馬は未だ繋がれた手を見た。
こうなっていたせいかもしれないけど。

覚えていないが、きっと自分から握ったのだろう。
無意識にもほどがある。
握られた手に途惑って、離せないままこうなったのかもしれない。

でも、それでもいい。
解かないでいてくれたのなら。


「…たまにはこういうのもいいね」


ふたりで、のんびりと。
こうやって過ごすのもいいかもしれない。

傍にいてくれる彼女が愛おしい。
だから、もっと近くにいたくて。
彼女にもっと触れたいと思う。





たとえば、この手を離して。
その身体を引きよせたら。

彼女は目を覚ましてしまうだろうか。
怒るだろうか。
それとも、照れて笑ってくれるだろうか。





少しだけ思案して、けれど一度浮かんだ考えはそう簡単には消えなかった。

起きてしまったら、いつもどおりに飄々と笑えばいい。
抗議の視線にも耐えてみせよう。
もし、笑ってくれたなら、ぎゅっと抱きしめて幸せを噛みしめるんだ。







蔵馬は繋いでいた手をそっと離して、眠り続ける愛しい姫君をその腕の中へと抱きよせた。















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抱きよせたあとの雪菜ちゃんの反応も書きたかった気もしますが、ここで終わりです。笑。
まさかの起きないっていう選択肢もありますが、それはそれで蔵馬さんはいい思いをするのではないかと。笑。
突然思いついて突然書いたのですが、寝てる蔵馬さんの傍でどぎまぎする雪菜ちゃんを書きたかっただけでした。
蔵馬さんの寝姿については理解していただけたでしょうか…?
左腕を枕にして横向きに寝てるって言ったら大体わかりますよね…?
表現力がないのでとても心配です(笑)
蔵馬さんは自分から手を握ったと思っていますが、実はきっかけは雪菜ちゃんから。
雪菜ちゃんはそれを言えずに、蔵馬さんは知らないままです。
2011*0917