今日はまだ週の半ば。 君に逢うのはまだ少し先。 「南野さん、大丈夫っすか?」 「え?」 「最近残業ばっかじゃないですか」 「あぁ…でも、自分で言い出したプロジェクトですし」 心配して声をかけてきた後輩に、蔵馬は苦笑を見せた。 なにかと懐いてくれる後輩で、そういえば以前、 「敬語やめてくださいよー」なんて言われたことがあったなと蔵馬はぼんやり思い出した。 「いや、でも、息抜きは必要ですよ!」 「そうですね」 「コンパとか行きません?」 「…え?」 「今日あるんですよー。癒されに行きませんか?」 「いや、俺は…」 「巨乳の女の子とかどうっすか?」 キラキラとした眼でそんなことを語る後輩に、蔵馬は溜め息交じりに苦笑しながら答えた。 「コンパに行くくらいなら、彼女に癒してもらいますよ」 「…! 南野さん、彼女…いるんでしたっけ!?」 「言ってませんでした?」 「聞いてないっすよ! …あーぁ、会社中の女の子が泣きますよ…」 「…まさか」 後輩の言いように、それは大袈裟じゃ…と蔵馬は心の中で突っ込んだ。 「で、南野さんの彼女ってどんな人なんですか?」 「どんな…そうですね……」 浮かぶ、彼女の姿。 自分だけの、彼女。 イメージさえも独り占めしたくて、蔵馬は笑いながら答えた。 「すっごい美少女」 Sweet Night 午後9時前。 会社の一室で、蔵馬は向き合っていたパソコンを閉じた。 残っているのは自分ひとり。 結局残業を選んで、こんな時間になってしまった。 自分で始めたプロジェクト。 だから、手を抜くことなどできなくて。 予期せぬトラブル、重なる問題に追われて、先週彼女に会うことはできなかった。 今日はまだ週の半ばで。約束は週末。 だから、今週彼女に会うためには、週末まで待たなければならない。 だけど、後輩とあんな話をしたものだから、どうしても彼女の姿がちらついて。 午後9時前。 この時間なら、彼女はまだ起きている。 取り出した携帯。 映し出される番号。 発信ボタンを押す瞬間に思い浮かぶ姿。 ああ、自分はもう末期かもしれない、蔵馬はそう思った。 しばらく続いた呼び出し音のあと、期待通りの声が聴こえた。 蔵馬は自然と頬が緩むのを感じずにはいられなかった。 「ごめんね、急に」 『いえ…どうかしましたか?』 「ん…ちょっと声が聴きたくて」 『…え?』 「雪菜ちゃんの声聴くだけで癒されるから」 『な、なに言ってるんですか…!』 「ホントだよ?」 『…で、でも…』 「仕事、やっと一段落着いたんだけど、さすがに疲れちゃって」 『……』 「だから、声聴きたくなった」 『…私、なんかで…蔵馬さんを癒せてますか?』 「もちろんだよ。だから電話したんだから」 『…じゃぁ、会ったらもっと癒せますか?』 「え…?」 『…会いたい、です』 「…!」 午後9時過ぎ。 会いたいと言った彼女に、会えないと言う理由などなくて。 時間が遅い、それさえもどうでもよくなって。 週末まで会えなくても耐えられるはずだったのに、今この瞬間に無理だと気づいた。 ああ、やっぱり、ハマりすぎたのかな。 * 今すぐ会いたい、そう思って。 口にした瞬間に、自分はもう寝巻き姿だということに気がついた。 今から準備だなんて、どれくらいの時間がある? どれくらい時間をかけられる? 服を選ぶのでさえ、いつも一晩かかるのに。 『今から俺が行こうか?』 「それはダメです…!」 『? どうして?』 「だって……ふたりじゃないでしょう?」 『……そうだね。それは困るね』 桑原家に来たら、当然、和真や静流がいる。 それはなんとなく困る。雪菜はそう思った。 蔵馬もそれに賛同してくれたようで、外で待ち合わせということになった。 こんな時間に。 そのことは、この際考えないようにして。 『気をつけてね』 「はい、急いで行きます!」 『…うん、じゃぁ、あとで』 電話が切れる前に、かすかに蔵馬が笑った気がした。 雪菜は首を傾げながらも、急いで準備に取り掛かった。 服も鞄も髪型も、悩んでる時間なんてない。 だけど、手を抜くこともできない。 雪菜は急いでクローゼットを開けた。 時間がない、そのことが余計に雪菜を焦らせる。 そんな雪菜の目に留まったのは、週末のデートに来ていくために用意したワンピース。 週末のため、だったが、この際そんなの気にしていられない。 雪菜は急いでワンピースに着替え、メイクをして、髪型を整えた。 準備を終えて階下へ降りていくと、リビングには、 テレビを見ながらお酒を飲んでいる静流の姿があった。 「どうしたの、そんなめかしこんで」 「あ、あの…ちょっと出かけていいですか?」 「こんな時間に?」 「は、はい…」 雪菜の様子に静流は何かに気づいたのか、にやりと笑った。 「なるほど…彼氏からのお誘いね?」 「…!」 「こんな時間に呼び出すとは…彼もやるわね〜」 「ち、違うんです…! 私が…」 「え? …ってことは、雪菜ちゃんから?」 驚いた静流に、雪菜は顔を赤くした。 でも、わがままを言ったのは自分だし、そのせいで彼が誤解されては困る。 そんな雪菜の心情を知ってか知らずか、静流は楽しそうに笑いながら言った。 「雪菜ちゃん、こういうときはね、こっそり出てって無断外泊って相場が決まってんのよ」 「え…?」 首を傾げる雪菜に、静流はひらりと手を振った。 「いってらっしゃい」 * 待ち合わせの駅前。 蔵馬は想い人を待ちながら、先ほどの電話を思い出していた。 気をつけてね、の言葉に、急いで行く、と返ってくるなんて。 噛み合わない会話に蔵馬は苦笑を隠せずにいられなかった。 そして、同時に、ありがとう、そう思った。 こんな時間に彼女を呼び出すのは初めてだった。 終電までには帰さないといけないから、そう長くはいられない。 でも、それでも、1時間でも2時間でもいいから会いたかった。 彼女もきっと、そう思ってくれている。 だから、今夜会えることになったんだ。 駅の改札の向こうから、走ってくる彼女の姿が見える。 今、ここで、改札を通り抜けた彼女を抱きしめられたらどんなに幸せだろうか。 だけど、そんなことをしたらきっと彼女は照れて困るだけだから。 会えるだけでありがたいと、ここは我慢しなければ。 「雪菜ちゃん」 その名を呼ぶ。すると嬉しそうに彼女が笑う。 ただそれだけで、こんなにも愛おしいと思う。 「ごめんなさい、お待たせしました…!」 「ううん、俺こそごめんね。こんな時間に」 「だって、それは私が…」 「俺も会いたかった」 「…!」 「会いたかったよ、雪菜ちゃんに」 突然の言葉に目を見開いた彼女の顔が、徐々に桃色に染まる。 彼女の頭をそっと撫でて、俺は彼女の手を引いて歩き出した。 * 輝く夜景を眺めて、気に入ったショップに入って、おしゃれなカフェでお茶をする。 たった数時間の逢瀬の終わりは、すぐにやってきた。 帰路の電車の中でも握りしめた手を離せなくて、ずっと繋いだままだった。 少しひんやりとした手が、彼女が今すぐ傍にいることを告げている。 「今日はありがとね」 「いえ、私の方こそ…」 「今度は週末に」 「はい」 玄関の前。 帰りを待つかのように灯ったままの明りが、彼女を照らす。 独り占めにしてはいけない。 そう思いながら、ずっと繋ぎ続けていた手を離した。 「また連絡するよ」 その言葉に、彼女はにこりと笑って応えてくれた。 なくなった手のぬくもり。 それを忘れるように、俺は彼女に手を振った。 「気をつけて帰ってください」と彼女も控え目に手を振り返した。 玄関に向かう彼女の姿。 腰まで届きそうな長い髪が、薄明かりの中で輝いて見える。 華奢な身体に、ヒールの高い靴。 こんなに小柄だったけ、とか、女の子なんだなぁとか、 そんなことをぼんやり考えていた。 彼女が動こうとしないから、そんなことをぼんやり考えていた。 躊躇うように動かない彼女に、俺は苦笑した。 「早く入りなよ」 「……」 「じゃないと連れて帰りたくなるから」 冗談のつもりだった。 いつも通りのからかうような軽い調子で。 何言ってるんですか、そんな言葉が返ってくると思いながら。 冗談の、つもりだったんだ。 けれど。 振り返った彼女が。 「連れて帰って…」 その言葉に、何も考えられなくなった。 * 俺が君をどれだけ大切にしてきたか、知ってる? 手を出すことなんて簡単で、欲望のまま振る舞うなんて造作もなくて。 だけど、彼女には、そうしないと決めた。 大切に、大切に。 慣れない彼女に合わせたからじゃなくて、俺が、大事にしたかった。 尊い存在であるかのように、可愛い彼女を大切にしてきた。 欲望に任せて彼女に触れてはいけないと言い聞かせてきた。 なのに、今、彼女は俺の腕の中。 連れ帰った部屋で、彼女が俺を見上げている。 「あの…ごめんなさい」 「ん?」 「…もっと、一緒に…いられたらって…」 「うん」 「だから……」 うまく言葉にならないのか、言いかけたまま彼女はうつむいた。 いつも以上に染まった白い頬と、困ったような顔。 その表情を見ていたくて、頬を包んで顔を上げさせた。 さらに困ったような顔をした彼女が、それでもこちらを見上げている。 ああ駄目だ。 たぶん、もう限界。 そっと口づけると、ほんの一瞬彼女の身体が震えた。 触れた唇を離そうとすると、引き止めるかのように彼女が袖を掴む。 それが合図であるかのように、触れるだけだったのが、確かめるような口づけに変わっていく。 彼女をもっと引き寄せて、深く深く口づける。 どれだけそうしていたのか。 ようやく塞いでいた唇を解放すると、彼女は荒い息を整えようと俺の胸に顔をうずめた。 甘い髪の香りと熱を持った身体が、最後の理性を奪いそうになる。 「…大丈夫?」 「……っ、はい…平気、です…っ…」 乱れた息のまま、彼女がそう答える。 必死で息を整えようとする彼女の熱い吐息に促されるかのように、 その細くて白い首筋に口づけを落とした。 びくり、と彼女の肩が震える。 そのまま構わず舌を這わせる。 「…んっ…蔵、馬さ…ん…」 彼女の声が耳元で聞こえる。 もう一度瞳を見つめて、彼女が抗議の視線を向けていないことを確認してから、再び口づけた。 整わない息。 冷めない熱。 奪われていく理性。 絡ませていた舌、そして唇を解放して、熱を帯びた彼女を見つめる。 彼女は潤んだ瞳で見上げていた。 「ごめん…止められないかも…」 「……いいです…」 雪のように白い身体を紅潮させて、彼女はそっと囁いた。 「愛してください」 * 目を覚ますと、彼の姿はそこにはなかった。 ぼんやりとした頭で、状況を把握しようとする。 少し大きめのベッド。大きめのシャツ。 把握すればするほど、雪菜は頬が火照るのを感じた。 昨夜は、彼の部屋に泊まったのだ。 時刻はもうすぐ正午になろうとしていた。 カーテンの隙間から眩しいくらいの光が差し込んでいる。 今日は平日。彼は仕事だ。 雪菜はゆっくりと身体を起こした。 その瞬間、自分の携帯が鳴っているのが聞こえた。 ディスプレイに表示されたのは、今はいないこの部屋の主。 「…はい」 『もしもし、雪菜ちゃん?』 「はい。あ、あの…おはようございます…っ」 『おはよう。もうお昼だけどね』 「え…あのっ…」 『今起きた?』 「…はい」 『身体平気?』 「だ、大丈夫です…っ!」 『そっか。ならよかった』 「…はい…」 話せば話すほど昨日のことが蘇る。 うまく話せなくてどぎまぎしているうちに、雪菜は何度か携帯を落としそうになった。 『ごめんね、本当は起きたとき傍にいたかったんだけど』 「いえ…!お仕事ですし…あの、私の方こそお見送りできなくてごめんなさい…」 『いいよ。ぐっすり眠ってたし』 「…すみません…」 『いいって。可愛い寝顔が見られて俺は満足』 「蔵馬さん…っ!」 携帯の向こうから蔵馬の笑う声が聞こえてくる。 『本当は今すぐにでも抱きしめに行きたいんだけど』 「…!」 『でも、昨日幸せだったから我慢することにするよ』 「……蔵馬さん、私…」 『ん?』 「私…も、……幸せでした」 『!』 彼のぬくもりにつつまれて、彼をひとり占め出来て、とても、幸せだったの。 名を呼ぶ声が、言葉が、触れる指が、熱が、今でも鮮明に思い出せる。 おかしくなってしまったのかな。 今、あなたしか見えていないの。 あなたのことしか考えられない。 しばらくの沈黙のあと、切実な蔵馬の声が雪菜の耳に届いた。 『早退しようかな』 「えっ!? 具合悪いんですか?」 『いや、そうじゃなくて…』 再び笑い出した携帯の向こうの蔵馬に、雪菜はただただ首を傾げるだけだった。 ---------------------------- 初めてのお泊り。 どこまでいったのかはご想像にお任せします(笑) 氷女だから最後までできないっていうのはありますけど、 蔵馬さんならいろいろ方法を知っていそうだなと(笑) これを書き始めたのは半年以上前なので、やっと完成したなという感じです。 「連れて帰りたくなる」と「愛してください」を言わせたいがために書いただけなのに、 思いのほか長くなってしまいました。でも久々の蔵雪楽しかったです。 2010*1204 戻 |