気づいたときには携帯に手を伸ばしていて。 なにを話したかなんて覚えていない。 時間さえ気にもとめず、ただ、君を呼んだ。 特効薬 「38度5分…」 体温計の表示を読み上げて、雪菜は絶句した。 当の本人は、俺も万能じゃないんだね、なんて言っている。 もちろん、その声は掠れているが。 「このあいだの風邪が酷くなったんじゃないですか?」 「…そうかも」 あれほど気をつけてと言ったのに。 雪菜の目がそう訴えていた。 蔵馬は、昨日雨に打たれて帰っただなんて口が裂けても言えなかった。 あまつさえ、不調を感じながらも今日も会社に行っただなんて、さらに言えない。 100パーセントそのせいだとわかっているから、余計に。 先日雪菜と会ったときから蔵馬は風邪を引いていた。 しかし、蔵馬はそのうち治るだろうと思って放っておいたのだ。 それが今回のことを引き起こしたのは、言うまでもない。 「食欲はありますか?何か作りますよ」 「ごめん、今はあんまり…」 「でも、何か食べないと…。あ、果物なら食べられるかもしれませんね」 ちょっと待っててください、と言って雪菜は部屋を出て行った。 その姿を見送った蔵馬の唇から、堪えていた咳と熱い息がこぼれた。 額に乗せられたタオルはすでに生ぬるい。 平気なふりをするのは大変だ。 蔵馬はぼおっとする意識の中でそう思った。 辛そうな素振りを見せれば、きっと彼女は心配げな顔をする。 それは、見たくなかった。 彼女をここへ呼んでしまった時点で、そんな強がりは無意味なのかもしれないけれど。 雪菜は一口サイズに切った桃が入った皿を手に戻って来た。 「起き上がれますか?」 気遣うようにそう訊ねる雪菜に、蔵馬は大丈夫だとその身を起こした。 触れた体の熱さに、雪菜は不安げな視線を蔵馬に送る。 その視線に蔵馬は微笑って応えてみたが、うまく微笑えているかはわからなかった。 「はい」 「…え?」 口元に差し出された一切れの桃と雪菜の顔を、蔵馬は交互に見た。 回らない頭が、意味を理解するのに時間がかかる。 自分で食べれないこともなかったが、今は甘えておくことにした。 喉を通る冷たい桃の感触が心地いい。 「薬を飲んだら、今日はもう休んでくださいね」 「…あぁ。そうするよ」 雪菜から水と薬を受け取って、蔵馬はそう言った。 横になった蔵馬の額に雪菜は自分の手を添えた。 冷やりとした手が気持ちいい。 触れた手が、額から熱を吸い出す。 「…あんまり、無理、しないで…」 「これくらいのことなら、大丈夫です」 自分を気遣う蔵馬に雪菜は笑顔で応えた。 雪菜は内科的治療はあまり得意ではない上に、熱にめっきり弱い。 でも、少しでも、蔵馬の苦痛を取り除きたかった。 重くなったまぶたに逆らうことなく蔵馬は瞳を閉じた。 冷たい手の心地よさを感じながら、眠っている間に帰ってしまわないでと思いながら眠りに落ちた。 意識が深くへと落ちる寸前、蔵馬は唇になにか柔らかいものが当たったのを感じた気がした。 風邪を引いたら気持ちが弱るというのは本当のようで。 思わず君のことを呼んでいた。 こんなに遅い時間なのに、来てくれてありがとう。 朝目が覚めると、傍に雪菜はいなかった。 蔵馬は身体が軽くなっているのを感じて起き上がった。 シャワーを浴びて、ワイシャツに着替える。ネクタイも締めた。 今日も会社に行くつもりで、蔵馬はリビングのドアを開けた。 「おはようございます」 部屋に入った瞬間に鼻を掠めた匂いと、掛けられた声に蔵馬は目を見開いた。 そこには、微笑を浮かべる雪菜がキッチンに立っていた。 「体調はどうですか?」 「え? …あ、うん。平気」 「どうかしました?」 「…いや、帰ったのかと思ったから」 雪菜は驚いたような顔をして、そして笑った。 「そんなことしませんよ」 「…ありがとう」 雪菜は鍋の火を止めて、蔵馬に近寄った。 「さっき、おじ様から電話がありましたよ」 「父さんから?なんて?」 「体調が悪いようだったら、今日はお休みしてもいいそうです」 雪菜はにこりと笑った。 「昨日も不調なのに会社に行ったそうですね?」 「…それは…」 バレた。 蔵馬は苦笑いを浮かべるしかなかった。 雪菜は蔵馬のネクタイに手を伸ばした。 それを、ゆるめて、ほどく。 「今日はお休みしますと伝えておきました」 いつもより強引な雪菜の行動に、蔵馬は少なからず驚いた。 蔵馬を見つめる雪菜の顔が真剣な表情に変わる。 「勝手なことしてごめんなさい。 …でも、あんなことにはもうなってほしくないから…だから、無理しないでください」 沈痛な面持ちでそう言う雪菜に、蔵馬は微笑を見せた。 「ありがとう。心配かけて、ごめんね?」 「本当にもう無茶しないでくださいよ?」 「うん。雨に濡れて帰るなんてこともうしないよ」 「…え?」 「あ…」 蔵馬はしまったと口を押さえた。 しかし、時すでに遅し。 「蔵馬さん」 「…はい」 「一昨日大雨だったじゃないですか」 「…そうだったね」 「その中を傘も差さずに帰ったんですか」 「…傘、なくて…」 「そんなんだから風邪引くんですよっ…!」 雪菜の瞳が潤んだ。 蔵馬は、怒るでもなく呆れるでもなく、泣かれてしまったことに焦った。 「ごめん、ホントもう大丈夫だから…!泣かないで。ね?」 「連絡してくれれば傘ぐらい私が持って行ったのに…!」 「いやいやいや。そんなこと頼めないよ」 「濡れて帰るくらいならそうしてください!」 「雪菜ちゃん…」 「看病ならいくらでもしますけど、でも、もっと自分を大切にしてください…!」 「…うん」 ありがとうとつぶやいて、蔵馬は雪菜を抱きしめた。 雪菜が作った朝食は、病み上がりの蔵馬に配慮して消化にいいものばかりだった。 もちろん、味は損なわない。 「食欲もあるみたいですし、ホントに顔色もよくなりましたね」 「雪菜ちゃんのおかげだよ」 「きっと、特効薬が効いたんですね」 「特効薬…?」 雪菜の言葉に蔵馬は首を傾げた。 風邪に特効薬なんてないはずだ。 ふと、意識を失う瞬間に感じた感触を思い出した。 「…雪菜ちゃん。今度は誰に吹き込まれたの…」 「?」 苦笑する蔵馬に、今度は雪菜が首を傾げる番だった。 なんでも素直に信じてしまうところが、たまらなく愛おしい。 特効薬も、あながち嘘ではないかもしれない。 「知ってた?その特効薬って俺にしか効かないんだよ」 「そうなんですか?」 「うん」 「でも、どうして…?」 「それはね、俺が雪菜ちゃんのこと大好きだから」 君さえいれば、元気になれる。 ---------------------------------- 蔵馬さん、アホー。笑。 冷静沈着で頼りにされるくせに、プライベートではちょっと抜けてるといいなと思います。 自分のことには無関心というか、無頓着というか。 本読んでて、気づいたらご飯食べるの忘れてた、みたいな(笑) 今回雪菜ちゃんが強いです。うちにしては珍しく。 積極的っていうのは、別にネクタイ外したことじゃないですよ(笑) 雪菜ちゃんはホントに特効薬の力で治ったと信じ込んでます。 自分の治癒能力のおかげなのに。 ちなみに、蔵馬さんは内科で、雪菜ちゃんは外科が得意だと思ってます。 だから、できなくはないけど、雪菜ちゃんは病気を治すのは苦手。 でも愛する蔵馬さんのために頑張るのです。 雪菜ちゃんに特効薬の話を吹き込んだのは、もちろん、↓この人です。 2006*1024 戻 〜おまけ〜 「ごめんなさい、私ちょっと出かけてきますっ!」 「どーしたの?そんなに慌てて」 「蔵馬さん、風邪引いたみたいで…!」 「蔵馬くんが?意外なこともあるのねぇ」 「蔵馬さんだって風邪くらい引きますよ」 「それもそっか。ね、雪菜ちゃん、いいこと教えてあげよっか」 「いいこと…?」 「風邪の特効薬が何か」 「あるんですか!?」 「耳貸して」 「はい!」 「風邪は、キスすると治るんだって」 「ホントですか!?」 「試しておいで」 「ありがとうございます!行ってきます!」 「いってらっしゃ〜い」 |