1. 過去に重い蓋をしてきた。 それは全部辛く哀しいものだったから。 思い出さなければ苦しくないと、そう思って生きてきた。 だから、蓋をした。 …ねぇ、だけど、その蓋が開きそう。 * 白い雪が舞っている。 冷たい空気が辺りに漂う。 私はその中を裸足で歩いた。 雪が拒むように吹雪き始める。 風が切り裂くように吹き荒れる。 身体が震えた。 寒い。 …寒い? この国で生まれ育ったのに? 氷女なのに? 世界のすべてが私を拒む。 息が苦しくて喘いでも、冷たい雪がそれを邪魔する。 一面の雪がどうしてこんなに苦しいの? 怖いの? あぁ、そうか。 私は忌み子だったっけ。 * 「…………」 目の前に広がるのは真っ白い天井だった。 「……夢…?」 なんだかとてつもなく長い夢を見ていたような気がした。 同じシーンを何回も見たような感覚に陥った。 額にはじわりと汗をかいている。 私は窓を開けた。 すると生ぬるい風が吹き込んでくる。 夏。 私の苦手な季節がまたやってきた。 私は今、和真さんの家でお世話になっている。 皆さん温かい人ばかりで、私は毎日幸せをかみ締めていた。 どこかに贅沢な欠落を抱きながらも。 「ねぇ、雪菜ちゃん」 「なんですか?」 「なんかちょっと、痩せたんじゃないの?」 「そうですか? あ、夏バテかもしれません。暑いの、苦手ですから」 「あぁ…、そっか。そりゃそうよね、氷女だもんね」 「はい。冬は全然平気なんですけど」 「でも、それじゃぁ、休んでなくていいの?」 「そこまで酷くないから大丈夫です」 「そう? でも、あんまり夏バテなめちゃいけないよ?」 「大丈夫ですよ、本当に。あ、ほら、仕事遅れちゃいますよ?」 静流さんは鋭い方で、体調が悪いときにはすぐ見破られてしまう。 本当に、優しい人。 けれど、本当に、今年の夏は気分が優れない。 食欲も意欲もわかない。 何かを押しとどめようともがいているような気分だった。 去年までは平気だったのに、どうして…? 夏は確かに苦手だけど、ここまで重く感じたことはなかった。 なのに、身体が、気持ちが重い。 同じ夏のはずなのに、どうしてこんなに苦しいんだろう? (蔵馬さんから早めに薬もらっといたほうがいいかな…) そう思って私は蔵馬さんの携帯にかけた。 数回のコール音のあと、蔵馬さんがすぐ出てくれた。 『雪菜ちゃん?どうしたんですか?』 「急にすみません。お願いしたいことがるんですけど…」 蔵馬さんには容態が悪いとよくお世話になっていた。 夏は特に毎年お世話になっている。 夏の暑さに弱い私に、薬草を煎じて薬を作ってくれる。 それが本当に役に立っていた。 これからその薬を取りに蔵馬さんの家に行くために、私は家の外に出た。 太陽がチカチカする。 夏はこれほど厳しいものだったかと、頭の中で何度も考えた。 蔵馬さんの家は電車で数分先。 たいした道のりではないのに、とてつもなく長く感じられた。 蔵馬さんの方から出向いてくれるというのを断ったことを、ほんの少し後悔した。 * 「こんにちは」 「いらっしゃい。暑かったでしょ? やっぱり俺が行くべきでしたね」 「いえいえ。大丈夫です」 にこりと微笑って見せても、なんだか蔵馬さんにはバレているような気がした。 「今年はいつもより早いですよね。薬取りに来るの」 「あ、早めにいただいておこうと思って…」 そう言うと、蔵馬さんは私の顔を伺うように見た。 「隠さなくていいですよ。辛いんでしょ?」 「……わかります?」 「主治医ですから」 蔵馬さんが笑いながらそう言った。 「なんだか、いつもと違う気がするんです…」 「いつもと違う…?」 「…はい」 「何か原因は思いつきますか?」 「原因…?」 …あの夢…? 冷たい冷たい故郷の夢…? あれが…? 「心当たりあるんですか?」 「…わかりません」 出されていた麦茶の氷が、カランと音を立てて融けた。 「雪菜ちゃん、よく聞いて」 「はい」 「生き物っていうのは、身体が弱っているときに限って、心の弱い部分が出てくるもんなんです。 心が弱れば、さらに身体は弱くなるんですよ」 「…心が…?」 「つっかかってるものが、あるんじゃないですか?」 蔵馬さんの言葉が、頭の中で何度も回った。 つっかかっているもの……。 そんなの、多すぎる…。 兄探しをやめて3年が過ぎた。 3年なんて、長いようで短い。 心の整理は、未だついていなかった。 だから、今でも少し混乱している。 「送りますよ」 「え、でも…」 「遠慮しない」 「…じゃぁ、お願いします」 蔵馬さんはいつも、誰に対しても優しくて、面倒見がいい。 昔は極悪非道な盗賊だったらしいけど、そんなの微塵も感じない。 綺麗で聡明で…家族想い。 私もそんな風になれるだろうか。 蔵馬さんの車の助手席に座って、私は窓の外を見ていた。 通り過ぎてゆく景色の中、小さな公園が目に入った。 男女の小さな子ども2人と、それを見守るようにその両親がいた。 楽しそうに遊んでいる。 私も人間の子どもに生まれていたら、家族と囲まれてああやって幸せそうに笑っていただろうか。 生まれた場所が嫌いだった。 育った環境が嫌いだった。 自分の生い立ちが、嫌いだった。 家族を誰ひとり知らなくて。 もう会えない母の存在と居場所しか知らなくて。 懺悔の目しか知らなくて。 侮蔑と恐悸の目しか知らなくて。 私の目には白い雪しか映らなかった。 耳に聞こえるのは孤独の嘆き。 口から出るのは空虚な言葉。 心に開いた穴はふさがることなどなくて。 どこへ行っても広がって。 今の幸せでふさぎたくて、無理やりふたをしたけど、 そんなことで無くなってくれるほど小さな穴でもなかった。 兄が見つかれば平気になるの? 兄がいてくれればふさがるの? 今度は、私の穴をふさぐために兄を探すの? そう考えるともう動けなかった。 兄に会いたい。愛されたい。 でも、それは、私のためだけじゃないの? 兄は会いたくないかもしれない。 だから、会いに来てはくれないのかもしれない。 兄が私を恨んでいないとは言い切れない。 恨まれてる可能性のほうが高いじゃない。 たとえ、どんなに逢いたいと願ったとしても、私は兄には会えない。 会う資格なんてない。 かつて、兄に国を滅ぼしてほしいと願った私が、兄への曲がった想いを抱いた私が、 兄に会えるはずがない。 この重く苦しい蓋が開いてしまった方が、私は楽に、なれるかもしれない。 「…菜ちゃん…。雪菜ちゃん!」 「!」 現実に、引き戻された。 「大丈夫ですか? 着きまし……」 蔵馬さんの口が止まった。 それほど情けない顔をしていたのだろう。 「すみません、ありがとうございました…っ」 「雪菜ちゃん!」 蔵馬さんの心配そうな声からも、太陽の光からも、 何もかもから逃げるように車を降りて家へと入った。 どうしようもない想いがあふれそうだった。 「…………兄さん……」 思わず名前を、呼んでしまっていた。 戻/2 |