1. 失くしたあとに悔やんでも、もう遅いのに。 なにを守ってきたのか。なにを大事にしてきたのか。 結局、なにができたのか。 信頼も希望も憧れも、すべてを自ら台無しにした。 そんなことは、初めからわかっていたはずなのに。 だけど、いらないだなんて思ったことは一度もない。 * 「なにを言っても無駄よ」 白い吹雪が儚く舞い散る。 「もう、決めてしまったから」 言葉とともに、小さな袋を破り捨てた。 雪に紛れて白い粉が舞う。 「子どもは堕ろさないわ」 決然とした瞳に、泪は、もうどうにもならないと悟った。 止められるのは自分だけだと、そう信じていた。 子が流れる薬までも用意した。望まれていないとわかっていても。 「私を、置いていくのね…」 「……」 「あなたが考えていることが、私にはわからない…」 「…ごめんなさい」 もう止められないと、なにもできないと、同じ言葉が頭を巡る。 失いたくない。 そう思えば思うほど、この先の結末を素直に受け入れることなんてできなかった。 「あなたが死んでまで守りたいものはなに?」 忌み子を生むと告げられたあの日から、考えても考えても出ない答え。 「忌み子を生んで、誰が幸せになるの?」 男女の双子を生むのだと。そうなるように身籠ったのだと。 そう言われて心が凍った。途方もないその計画の真意が少しもわからなかった。 「…あなたは、いつもなにも教えてはくれなかったわね」 そう言ったきり、泪は口を閉ざした。 同じものを見ようとしても見えない。 なにを考えているのかわからない。 ただ告げられた言葉を、待ち受ける未来を、受け入れるしかないのか。 「…泪」 「……」 「私には願いがあるの。どうしても叶えたい願いが」 雪はただ、包み込むかのように降りそそいだ。 「それは、この子たちにしか叶えられない」 己の腹部を撫でながら、氷菜はいつものように微笑んだ。 * 「A-23地区に人間だ」 「…ちっ、またか」 相変わらず生じる歪は多く、迷いこむ人間も多かった。 そのために、躯率いるパトロール隊は毎日忙しかった。 その多忙さに、飛影は悪態をつきながらも好都合だと思っていた。 忙しければ、余計なことを考えずにすむ。 「今度の定例会、誰が出る?」 「俺が行く」 「なんだ、最近やけに張り切ってるな」 「…別に」 報告書の束を手に取って、飛影はさっさと部屋を出て行った。 その後ろ姿を時雨や奇淋たちは黙って見送った。 百足でのミーティングでさえ面倒くさがっていた飛影が、 大統領府での定例報告会に自ら出席すると言ったのだ。 「…なにかあったな」 その奇淋のつぶやきに、時雨は思わず笑ってしまった。 「本当にあやつは解りやすい」 誰が見ても気づくのだ。なにかおかしいと。 黙々と仕事だけに打ちこむ姿は、虚無を背負っているかのように見えた。 * ――あなたが兄だったらよかったのに。 あのときの雪菜の言葉が頭によみがえって、飛影は廊下で足を止めた。 それは願ってもない言葉で。 かけられるはずのない言葉で。 嬉しいとは思わなかった。 駆け巡ったのは後ろめたさと罪悪感。 雪菜は自分のことをなにも知らないから、だから、あんなことが言えるのだ。 飛影は無意識のうちに報告書の束を握りしめていた。 「提出するヤツなんだ。あんまり粗末にするなよ」 「!」 「オレが近づいたことにも気づかないほど呆けてたな」 「……」 「なにを考えてたんだ?」 答えはわかりきっていたのに、躯はわざとらしく尋ねた。 飛影はただ無言で、なにも答えない。 「結局名乗らなかったのか」 「……」 「なにしに行ったんだ、お前」 「…あいつは無事なんだ。それだけでいい」 覆らない意思がある。 だから、どう転んでも名乗り出ることは決してない。 「お前らしいと言えばお前らしいが…損な性格だな」 「…ほっとけ」 「まぁ、本当にユキナが無事ならそれでいいんだけどな」 「…? どういう意味だ?」 「さっきから何度かお前宛に通信が入ってる」 「!」 「蔵馬からな」 悪びれずにそう言う躯に、飛影は舌打ちを返した。 「そういうことはさっさと言え!」 * 蔵馬からの報せがいいことだった試しは、ほとんどない。 大抵、どうでもいいことか、面倒ごとか、良くない報せのどれかだ。 蔵馬の口から雪菜の名前が出て来ないことを祈りながら、 飛影は百足の通信機から呼び出しをかけた。 ほどなくして、画面の向こうに見知った赤髪が姿を現した。 『お久しぶりです、飛影』 「前置きはいい。本題はなんだ」 せっかちな飛影の対応に蔵馬は苦笑を隠せなかったが、 一刻も早く耳に入れておきたいことがあったので、気にしないことにした。 『俺も知ったのは最近なんですが…』 「…もったいぶるな」 『雪菜ちゃんが魔界にいるみたいなんです』 「!」 蔵馬の口から出た、雪菜の名前。 嫌な予感だけはいつも当たると飛影は思った。 「どういうことだ…? なんで雪菜が…」 『里帰り、だそうですよ』 「!?」 『桑原家にはそう言って家を出たそうです』 桑原家の住人は、雪菜の故郷のことを知らない。 だからこそ、すぐには蔵馬の耳に入らなかったのだ。 『俺には、雪菜ちゃんが里帰りするなんて考えられないんですが…』 あんなに疎んでいる故郷に帰る理由がわからない。 彼女はもう故郷の呪縛から解かれているはずだ。 なのに、いまさら里帰りだなんて。 『初めはお母さんのお墓参りがしたかったのかとも思ったんですが、 彼女が家を出たのは2週間ほど前のことだそうで』 「!」 『さすがに長すぎませんか…?』 「…里帰りは口実だということか」 『ええ。なにか魔界に行かなければならない理由があったのではないかと』 蔵馬の言葉に飛影は思考が止まりそうだった。 雪菜がいない。 その言葉がどれほどの威力を持っているのか、自分でもわかっていた。 『とりあえず邪眼で…』 「言われなくてもわかっている!」 苛立ちを隠せないまま飛影は目を閉じた。額の瞳が静かに開く。 飛影の取り乱しように、躯が後ろで笑っていたが、そんなことには構っていられなかった。 普段以上に意識を集中させる。 飛影の体に雪菜の妖気は深く刻まれている。だから、絶対に見逃すはずはなかった。 まして、自分の妖気のしみついた氷泪石を持っているはずだ。 この広大な魔界でも、妖気をたぐって見つけ出せるとそう思っていた。 名乗らないと決めても、もう会わないと決めても、すべてを捨て去ったわけじゃない。 守ると決めたあの誓いは、なにが起きても揺らぎはしない。 『…どうですか?』 ずいぶん時間が経っても目を開けない飛影に、蔵馬は遠慮がちに声をかけた。 しかし、反応はない。 『…飛影?』 雪菜の妖気なら簡単にたどれる。 そう、思っていた なのに。 「……いない」 どこにもいない。 戻/2 |