1. 宵が増し、星が瞬きはじめたころ。 少し欠けた月が、辺りを明るく照らしていた。 人通りの多い駅近くのガード下。 そこが定位置であるかのように、ひとつの屋台が鎮座していた。 あたたかい湯気に乗って、食欲をそそる匂いが辺りに漂っている。 「へい、らっしゃい…って、なんだよ、お前らか」 「あ? なんだよ、客に向かってその口のきき方は!」 店主の幽助がため息をついた相手は、制服姿の桑原と会社帰りの蔵馬だった。 「駅でばったり会ったんで、久しぶりに幽助のラーメン食べようって話になったんですよ」 「駅でって、オメェら方向違くない?」 「俺は図書館で勉強」 「あぁ…相変わらずガリ勉か」 「うっせぇな。こっちゃ受験生なんだよ!」 切羽詰まってんだ、と桑原が訴えるのを軽く受け流し、幽助は麺を茹ではじめた。 「マジで大学行く気なわけ? お前」 「悪いかよ」 「いや、ホントに変わっちまったんだな〜と思って」 「ほっとけ」 「蔵馬も大学行って遊んどきゃよかったんじゃねぇーか?」 「いや、俺は…会社の方が楽しいんで」 そう言いながら、蔵馬は出されたビールを一口飲んだ。 「螢子も受験受験でうるせぇーしよー」 「淋しいんですか?」 「ばっ! 違ぇーよ! んなわけあるか!」 怒った幽助を見て、わかりやすいなーと蔵馬は思った。 「はぁ、俺は淋しいぜ」 「あ? 何がだよ」 「受験勉強で雪菜さんと過ごす時間が減っちまってよぉ…」 あぁ、雪菜さん!そう叫ぶ桑原に、幽助は呆れたような顔をした。 「だったら、真っ直ぐ帰りゃぁよかったのに」 「今日は姉貴とショッピングなんだよ」 「そうなんですか?」 「あぁ。なんか最近雪菜さん元気ないんだよなぁ…」 「…!」 ホームシックかなぁ…とつぶやく桑原を横目に、幽助と蔵馬は顔を見合わせた。 おそらく、その理由はひとつしかない。 あのとき、彼女は何も告げず、彼も何も伝えなかった。 何が真実となったのか、今も闇に包まれたままだった。 * あのときの彼女の感情を正確に読み取れたものなど、誰ひとりいなかっただろう。 「どうして、ひとりで?」 「俺たちに頼ってくれれば良かったのに」 「ひとりで、行きたかったんです」 少女は、自分たちを見上げながらそう言った。 「みなさんに頼らないで、自分の力で捜したかった」 だから、ひとりで向かい、金で用心棒を雇った。 「いつまでも甘えていたら、兄に笑われる気がして」 「雪菜ちゃん…」 「ひとりでも平気だって、証明したかったんです」 氷女だから、何もできないんじゃない。 兄を捜す覚悟があるから、ひとりでだってどんなこともできる。 これが自分の本気なんだということを見せたかった。 ひとりで何もできないうちは、兄に会わせる顔がない。 そう思っていた。 「ごめんなさい。心配、かけてしまいましたね」 「いや…」 少女はただ、微笑んでみせた。 痛感した彼女の強さ。 どんなこともやろうとする強い意志。 会いたいという想い。 これらを認識すると同時に、後ろめたい気持ちを感じずにはいられなかった。 彼女が求める答えを、真実を知っているのに、それを今でも隠し続けている。 彼と彼女の問題だ。 そう思いながらも、苦いものが広がっていく。 彼女と同じくらい強く頑なな彼は、自分の意志を貫き通すかもしれない。 だとしたら、この不毛なすれ違いは、いつまで続くのだろうか。 彼女は何を知ったのか。 どこまで辿り着いたのか。 そして、なぜ何も言わないのか。 彼女は何を思うだろう。 喜びか期待か、失望か絶望か。 どこまで気づいているのだろう。 自分たちを恨んでいるだろうか。 知っていながら沈黙を保ち続ける自分たちを。 周りの者に対して、不信感を抱いているかもしれない。 誰を、何を信じたらいいか、わからなくなっているかもしれない。 だけど、それでもやはり、彼にしか解決できないことなのだろうという確信があった。 * 「雪菜さんがさ、言うんだよ」 ラーメンの湯気を見つめながら、桑原が言った。 「もう自分は十分幸せなのに、それでは足りないと嘆く自分がいるんだ、って」 「……」 「これ以上は必要ないはずなのに、その先が欲しくなってしまう」 「……」 「こっちに来てから、贅沢になってしまったみたいだって、そう言うんだよ」 そう言って、笑うんだ。 「だけどさ…それって、違うよな…?」 「桑原…」 「そんな風に思うのは、本当に幸せじゃないからだろ…?」 桑原の肩が震えた。 「情けねぇーよ…雪菜さんが抱えてるもん、ホントは何ひとつわかっちゃいないんだ…」 「桑原くん、それは…」 「雪菜さんはあんなにちっぽけな家での毎日を、十分幸せだと言ってくれる。 だけどよ、あんなのは普通のことだろ…。 俺たちにはあまりにも普通で…でも、彼女にとっては幸せなことだなんて…」 桑原は唇を噛みしめた。 「そう思わなきゃいけない過去を歩んで来たってことじゃねぇーか…」 「……」 桑原の言葉が途切れるとともに、静寂が訪れた。 彼女は、十分幸せだと言い聞かせて生きている。 今までの生涯を考えれば、確かに比べものにならないくらい幸せだ。 しかし、だからといって、我慢することも、諦める必要もないはずだ。 贅沢なんてことはない。 もっと幸せを求めていいんだ。 もっと素直になっていいんだ。 雪菜が桑原に言った言葉には、今の心情が投影されているのではないかと蔵馬は思った。 今のままで十分幸せなのに、それ以上を求めてしまう。 それは、今の兄との関係を表しているのではないだろうか。 名乗ってほしいと思う気持ちと、そんなのは贅沢だという思い。 兄は、私のことなんていらないかもしれない。 いつしか彼女はそう言った。 その想いを、今でもずっと抱え続けているのだ。 兄を知ったから、なおさら。 桑原の言葉によって訪れた沈黙を破ったのは、幽助だった。 「ラーメン、伸びんぞ」 「浦飯! 人が落ち込んでんのにテメェ…!」 「うっせーなぁ、もう。さっさと食って、さっさと帰れよ」 「あ? なんだと!?」 「オメェがそんなんでどーすんだよ!」 「…!」 「こんなとこで嘆いてる暇があんなら、テメェで幸せにしてやれよ」 「浦飯…」 「ったく、どいつもこいつもうじうじしやがって! お前にとって普通のことをよ、もっとしてやりゃいーんだよ」 「そうですよ。雪菜ちゃんだって、まだ途惑ってることがあるんですよ」 まだはじまったばかりじゃないですか、蔵馬はそう言って桑原を見た。 桑原は、幽助と蔵馬を交互に見てから、納得したように頷いた。 「…だよな。俺が落ち込んでたってしょーがねぇよな…」 おしっ!そう言って桑原は、勢いよく立ち上がった。 「帰る!」 「ちょっ、ラーメンは…」 「いらん! じゃぁな!」 「おい、桑原!! …あー、行っちまった」 全速力で走っていく桑原の姿を、幽助と蔵馬は苦笑しながら見送った。 蔵馬は少し伸びたラーメンを見ながら、ため息をついた。 「…自分で言ってて少し耳が痛いですけどね」 「…まぁな」 そう言いながら幽助は、桑原の分のラーメンをテーブルから引っ込めた。 「ったく、資格だの贅沢だのって面倒くせぇなぁ…」 「俺たちが思っている以上に複雑なんですよ」 じれったいのは確かですけど、そう言いながら、蔵馬はチャーシューをつついた。 「まぁ、当分は桑原に頑張ってもらうしかねぇな」 幽助の言葉に、蔵馬も同意したように笑った。 しかし、事件はその夜に起きた。 戻/2 |