3.

「明日暇ですか?」
「え…?」
「ずっと家にこもってても退屈でしょう?」
「……」
「ドライブにでも行きません?」
「…いいんですか?」
「もちろん」
「……行きたいです…!」

世間は夏休みが始まって活気づいていた。

しかし、雪菜の心は晴れない。
相変わらず食欲も意欲もわかず、体調も優れない。
そんな雪菜を桑原家の住人は心配するあまり、ほとんど外には出さなかった。
特に桑原は、いくら大丈夫だと言っても、何かあっては困るからと、
ガンとして聞き入れてくれなかった。
そこまで心配されたら、雪菜も反論するわけにはいかない。
なにより、心配してもらえるのはありがたいことなんだと、自分に言い聞かせた。

だから、先ほどの誘いはとても嬉しくて、身体の辛さを一瞬忘れるほどだった。



*



「どこか行きたいところあります?」
「……海…に行きたいです…」
「わかりました」

雪菜をドライブへと誘った人――蔵馬は、にこりと雪菜に笑顔を向けて車を発進させた。
幸い今日は日差しも弱く、気温もそれほど高くない。
それがただの偶然なのか、わざわざこの日を選んだのか、雪菜にはわからなかった。
でも、優しさは知っていた。

「お仕事、お忙しいんじゃないですか…?」
「俺だって息抜きくらいしたいですよ。
 どうせなら、可愛い女の子と一緒がいいなと思ってね」

そう言って悪戯っぽく笑う蔵馬に、雪菜も顔がほころんだ。



知っている。
誘われた理由が本当はそれだけじゃないことを。

今の自分の想いを聞いてくれようとしているのだ。
そして、何か解決策を考えようとしてくれている。
あんな別れ方をしたのだから、蔵馬が気にしていないわけがなかった。

雪菜はただ目を閉じて思った。

なぜこの人は、こんなにも優しいのだろう、と。



雪菜が蔵馬の車に乗るときは、たいてい助手席だった。
そして、いつも雪菜が話に花を咲かせ、蔵馬が相槌を打つ。
それが普通だった。

しかし、今日は、ただラジオから聴こえてくる音楽だけが2人を包んでいた。
だからといって、蔵馬は別にどうしようともしなかった。
静寂が今の彼女を物語っているのだとしても、このままでいいのだと思った。

車はただ、目的地を目指す。



数週間前に別れたあの日から、蔵馬はずっと雪菜を気にしていた。
あんな雪菜を見るのは初めてで、
どう考えても“夏バテ”だけでは説明のつかないような表情をしていた。
いつもと何かが違うという雪菜の言葉が、頭から離れない。

何が、あるのだろうか。この少女の中に。

その答えを見つけるには、あまりに彼女のことを知らなさすぎた。



*



目的地が近づくにつれ、海独特の匂いが鼻をかすめ始めた。
陽に輝く海を目に留めて、雪菜は綺麗と一言もらした。

青い空と青い海。
絶景と呼ぶには十分だった。
当然ここにふたり以外の人はいない。
幻海が遺してくれた土地のひとつだ。
誰が譲り受けたのかは忘れたが、誰もそんなこと気にはしていなかった。

「去年もこうやって海を見ましたよね。あの時は、もっと大勢でしたけど」

雪菜は裸足で砂浜を歩きながら、静かに言った。
長いスカートがふわりと揺れる。

「螢子さんが教えてくれたんです。お昼の海も綺麗だって。空も海も真っ青で…本当に綺麗」
「雪菜ちゃんはどっちが好きですか? あの日の海と今日の海」

先を行く雪菜を見守るように、蔵馬は後ろを歩いた。
いつも綺麗に結ばれている雪菜の髪は、今日はほどかれていて、風が吹くたびに煌いて揺れた。

「あのときは……不安なんてなかった」

ぽつり、と雪菜はつぶやいた。
足を止め、真っ直ぐ海を見る。

「…だから、あの日の海が好きです」

お昼の海は、私には眩しすぎる。

ただ波の音だけが響いた。
波が雪菜の足をさらう。
この沈黙が続けばいいと思った。
けれど、それを破らないわけにはいかないから。

「蔵馬さんはどうしてそんなに優しいんですか?」
「え?」
「いつも、不思議に思うんです。どうしてそんなに優しくなれるんだろうって…」
「優しくなんかないですよ、俺は」
「……そういうところが、優しいんですよ」

会話が、かみ合っていないような気がした。
蔵馬はただ雪菜を見るが、雪菜はただ微笑むだけだった。

「何かあったんですか?」
「……」
「俺でよければ聞きますよ。話せば楽になることもあるでしょう?」
「…自分でも、よくわからないんです。なんでこんな風になったのか…」

なんでこんなに、苦しいの。

「……お兄さんのことですか?」
「!」

兄という言葉に身体が反応するのを、雪菜は感じた。

「…兄探しはやめたんです。3年前に」
「え?」

蔵馬は思わず聞き返していた。
やめた? 彼女が?
初耳だった。
しかも3年も前だなんて。

「それは…見つかった、ということですか?」

蔵馬が問うと、雪菜は静かに首を振った。

「あきらめたんです。見つからないだろうなと思って」

雪菜ははっきりそう言ったが、その瞳は揺れていた。

「…嘘ですね、それは」
「……」
「まだ未練がある、そんな顔してますよ」
「………ホントに、なんで蔵馬さんにはバレてしまうんでしょうね」
「長年者の勘ってヤツですかね」
「敵わないです、蔵馬さんには」

雪菜は微笑してそう言った。

「どうしてやめたんですか? お兄さんを探すの」
「私には、そんな資格ないんです」
「…?」
「でもきっと、それを聞いたら幻滅しますよ、私のこと」

自嘲気味な笑み。
彼女のこんな顔は初めて見ると蔵馬は思った。
資格がないだなんて、まるで彼女の兄が口にするような言葉だ。
本当にこの双子は、哀しいくらいに良く似ている。
しかし、資格がないとは一体…?

「私は、みなさんが思ってくださっているほど優しくなんかないんです。
 冷たくて嘘つきで、ずるい…」
「……」
「だけど、誰にもそんなこと言えないから…。…嫌われたく、ないんです…」



居場所なんてないことは知ってるの。
でも、居させてもらえる場所はあるから。
それを今、失いたくない。


私がどんな国で生まれて、どんな立場にいて、どんなことを考えて、
どんなことを想って、今、どんな想いで生きているのか。

そんなこと、知られたくない。


嫌われるのが怖いの。

捨てられるのが怖いの。



…淋しい。



「無理して笑ってても、幸せなんて来ませんよ」
「………。…そうですよね」

でも、知らない。わからない。
好かれてる自信なんていつもない。
だって、みんな、いつも優しいから。

「俺は、雪菜ちゃんがどんなことを考えていたとしても、嫌いにはなりませんよ。
 他のみんなだって同じです」
「……嘘です」
「あなただって優しい。みんな知ってます」

私のなにを、知ってるの。

「だって、私は…」
「みんなあなたのことが好きなんですよ」

そんなこと、言わないで。

「私は、兄に国を滅ぼさせようとしてたんです…!」
「…!」
「優しくなんて……ない」



俺はずっと、彼女を飛影の妹として見てきた。

戦友の、妹。

飛影の妹だから、心配していた。
“彼女だから”というわけではないような気がした。


だって、まだ、そう思うには彼女のことを知らなさすぎる。















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