6. 「すみません、帰りが遅くなって…」 「いいわよ、別に。無事なら、ね」 蔵馬が雪菜を家へ送り届けたのは、すっかり日が落ちた頃だった。 「よかったわね、あのバカがまだ帰って来てなくて」 「連れ出したなんて知られたら命が危ないですね」 そう言って蔵馬は苦笑した。 あのバカとは、もちろん桑原のことである。 今日はたまたま模試でいなかったらしい。 「雪菜ちゃん、奥に幽助くんと螢子ちゃんが来てるよ。行っといで」 「はい」 雪菜は蔵馬に軽く頭を下げて笑ってみせた。 「今日はありがとうございました」 「いえいえ」 家の奥へと入っていく雪菜を、蔵馬と静流は見守った。 その瞳は、相変わらず優しい。 「ちょっとは元気になったみたいね」 「だといいんですけど」 「やっぱり、家に閉じ込めておくのは良くないわよね。外に出るのが好きな子だし…」 でも、と静流は言いよどんだ。 桑原家が雪菜の外出に反対するのには理由がある。 夏休みが始まってしばらくの頃、雪菜が買い物に行くと言って出ていったきり、 帰ってこないことがあった。 心配して探しに行くと、道で倒れている雪菜を見つけたのだ。 長い時間直射日光に当たっていたせいか、熱にうかされ、息も絶え絶えだった。 それから数日寝込んだのは言うまでもない。 「もしまたあんなことになったらと思うと怖いのよ。あの子は、辛くても何も言わないから…」 ――何も言わないのが、私の悪いところですよね 「彼女もわかってますよ、ちゃんと」 「え?」 「今は、待っててあげてください」 彼女が自分の力で立ち上がれるまで。 * 「幽助さん、螢子さん、こんばんは」 「よぉ!」 「おかえり、雪菜ちゃん」 居間へ行くと、当たり前のようにそこでくつろいでいる幽助と螢子がいた。 「で? どうだったよ? デートは」 「えっ!? デ、デートだなんて、そんなんじゃないですよ…!」 「え? 違うの? てっきりそうなんだと…」 「海に連れて行ってくださって、いろいろ話を聞いてくださっただけです」 「ふぅーん。…なんか悩みあんの?」 「あんた、ストレートすぎ」 「だって、最近元気なくね? ラーメンだって食いに来てくんねェし」 「夏にラーメンなんて食べたくないわよ」 「てめぇーはいちいちうっせーんだよ!」 ――そろそろ気づいてもいいんじゃないかい? 「夏バテなんてな、俺のラーメン食っときゃ治る」 「なにバカなこと言ってんの」 「俺のラーメンなめんなよ」 「はいはい。こんなバカの言うことなんて気にしなくていいからね。 でも、ホントになんかあるんだったら言ってよ?」 ――まわりに誰かがいることを。 私は、これに今まで気づかなかったの? いつだって、誰かが私を見てたのに。 「本当に私は、心配をかけてばかりですね」 ほとほと自分にあきれる。 「んなことねぇーよ」 「!」 「もっと心配かけてもいいぐれーじゃねェー? いい子じゃつまんねェーしよ」 「……」 「周りなんて困らせてやりゃいーんだよ。自由が一番!」 「あんたが言うと悪魔のささやきに聞こえるわ」 「んだとー!?」 いつも、遠慮なく言い合える2人が羨ましいと思っていた。 冗談を言って笑いあったり、本気で喧嘩したり、時には励ましあって支えあって。 そんな存在を自分も見つけられたらと、雪菜は思った。 * 雪が、降る。 粉雪のように静かに降っていたそれは、しだいに強さを増していった。 雪菜はその中にひとりたたずんでいた。 前に進もうと、足を運ぶ。 しかし、雪に足をとられて転びそうになる。 雪に身体が埋もれていく。 前に進まなければ。 先に何があるかなんて知らない。 でも、進まなければ。 ここにいては駄目なんだ。 萎える足を引きずって、雪菜は懸命に前へ進もうとした。 身体が凍えた。その冷たさに、身体中が悲鳴をあげる。 頭から足の先まで凍りついたように冷え切っている。寒くて、寒くて。 しかし、転びそうになりながらも、雪菜は前を目指した。 先に何かあるの。 その先が絶望でも構わない。 ここには、いたくないの。 そんな願いとは裏腹に、雪はさらに強さを増す。 強風が吹き荒れる。 ついに雪菜は、その場にくずおれた。 起き上がろうともがいても、降り積もった雪の重みで、 すでに感覚のない身体の冷たさで、起き上がることができなかった。 指が雪を掻く。 ここで止まったら駄目なの。 先に進まなければ、駄目なの。 しかし無情にも、雪は止まらない。 雪菜の身体は雪の中に沈んだ。 その声は、届かない。 すべて隠し通せると思っていた。 なかったことに出来ると、そう思っていた。 だって、そのすべてを、抱えて生きられるほど強くなんてなかったから。 内に秘めて耐えれば、うまくいくと思っていた。 でも、もう耐えられない。 身体中が悲鳴をあげている。 進むべき方向を見つけることが出来たのに、すべてが足枷となって進めない。 先に行きたいの。 強くありたいの。 でも、どす黒い心の闇が、何もかもを邪魔する。 苦しくて苦しくて、もう潰れてしまいそう。 雪菜はふと目を開けた。 そこに雪はなかった。 それどころか、何も、なかった。 ただ真っ暗な空間がそこにある。 雪菜は視線を周りへと向ける。 右も左も存在しない。 自分しか、いない。 雪菜はただ不安になった。 怖くて怖くてたまらない。 誰もいないこの闇が、何も見えないこの闇が、雪菜を責め立てた。 恐怖で身がすくむ。 何かが、得体の知れない何かが迫ってくるような気がした。 ここには、何もいない。自分しかいない。 それがわかっているから余計に怖い。 雪菜は自分の身体を抱きしめた。強く、強く。 自分を守れるのは自分しかいないと、頑なな心は思う。 ここには誰も来ないことを、雪菜は知っていた。 けれど、自分でどうにかできるなどとは思えなかった。 誰か。 心が叫ぶ。 言いようのない恐怖が雪菜の心をじわじわと締め上げる。 心が掴まれたかのように苦しい。 呼吸が、止まりそうになる。 もう、恐怖で潰されそうだった。 ――助けて…! 雪菜は叫んだ。 叫んだつもりだった。 息が詰まって声が出ない。 今までずっと閉ざしてきた言葉は、今になってもはや声にならなかった。 黙してきた報いか。隠してきた報いか。 ――お願い。誰か…! それでも雪菜は叫んだ。 声にならない声を、あらん限り。 ここにはいたくないの。 苦しいのはもう嫌なの。 ここは、怖い。 救われたいの。 私は、先に進みたい。 ――私を救って……! 誰か、この声に気づいて。 漆黒の闇の中を駆け抜けるひとつの影があった。 その影は空間を越えた。 疾風のごとく駆け抜ける。 目指す場所は、ひとつしかない。 5/戻/7 |