7. 飛影は百足の上から闇に沈んだ魔界を見ていた。 心地いいはずの闇が、なんだか今日は不快に感じた。 不気味でも恐怖でもない。ただ、不安だった。 何かが、胸を焦がす。 「…またか」 飛影は舌打ちしながらひとりごちた。 そう、何度も感じるこの感覚は、妹のことを考えるときの感じと似ている。 ここしばらくずっと消えない焦燥感。 考えすぎだと自分に言い聞かせても、少しも落ち着かない。 しかし、かといって人間界へ赴くことはしなかった。 桑原家にいれば安全だと思っていた。 第一、この焦燥感に対する確信がない。 振り回されているほど、飛影だって暇ではない。 名乗らないと決めた。 だから、もう、中途半端に関わることはしたくないのだ。 「飛影」 突然後ろで声がした。 相当気を抜いていたらしい。 飛影は声をかけられるまで気づきもしなかった。 相手が悪かったのかもしれないが。 「気配を絶って近づくな」 飛影は不機嫌そうに言いながら、振り返った。 意外な人物がここにいる。 ということは、何かあったということだろう。 嫌な予感が当たらなければいいが、と飛影は祈った。 「珍しいな、お前が魔界に来るなんて」 「大統領府の近くに停泊してると聞いて安心しましたよ。 でなきゃ魔界全土を走り回らなきゃいけませんからね」 「……何か厄介事か?」 「厄介事の方がマシですよ。あなたにとっては、ね」 その言葉の意味を、飛影は瞬時に理解した。 予感は当たったのだと。 「……俺にどうしろと」 「来てください。人間界に」 「俺に何ができる? 名乗れというならお断りだ」 「そんなことは望んでませんよ。でも、あなたじゃなきゃいけない」 「意味がわからんな」 飛影は努めて平然を装った。装うしかなかった。 そうでなければ、今にも走り出しそうな身体を止めることなどできなかった。 そして、おそらく、対峙している相手、蔵馬には気づかれているだろうと思った。 「…俺は、もう会わないと決めたんだ」 飛影の瞳はまっすぐに蔵馬をとらえていた。 表情はいつもと変わらないように見える。 他の誰かが見たら、その無表情な顔からは何も読み取れはしないだろう。 しかし、旧知の間柄である蔵馬には、その瞳から苦渋の色が見てとれた。 その視線に応えるように、蔵馬もまた飛影の双眸を見た。 「なぜです?」 「会う必要がない」 「そう思うのなら、なぜ探したんです?」 「……」 「会うつもりも、名乗るつもりもないのなら、なぜ探したりなんかしたんですか。 その上中途半端なことまでして」 飛影は蔵馬から視線を外した。 蔵馬の言わんとしていることが何となくわかった。 「関わるつもりがないのなら、突き放すべきじゃないですか。 叱ったりせずに、冷たくするべきだったんじゃないんですか」 蔵馬が指しているのは、3年前のあの出来事のことだ。 雪菜が飛影に氷泪石を託したあの日。 ふたりが、最後に会ったあの日。 「雪菜ちゃんはあなたを信頼してるんです。 兄だと思ってなくても、あなたなら信頼できると思ってます」 「…そんなはずはない」 「雪菜ちゃんが自分の気持ちを話したのは、おそらくあなたが初めてなんですよ。 それが信頼以外のなんだっていうんですか」 「……」 飛影は押し黙ったままだった。返す言葉が見つからない。 「話を聞くだけでいいんです。 誰かがはけ口にならないと、あのままでは潰れてしまいますよ…!」 「!」 「雪菜ちゃんだって変わろうとしてるんです。心を開こうとしてるんです。 だけど、今のままじゃ前に進めない」 飛影の脳裏に咲き乱れんばかりに笑う雪菜の顔が浮かんだ。 あれが失われようとしている。 考えただけでゾッとする。 「あの子にとって兄の枷より過去の方が重い。過去を背負いすぎたんです。 その重さが、あなたにならわかるでしょう?」 笑っていられるのが不思議だと思っていた。 なぜあれだけ無邪気にふるまえるのだろうと。 でも、本当は辛かったのか? 笑顔で隠していただけなのか? 飛影の心にともる灯りのような少女の姿が、微笑みを失くして消えていく。 守りたかったのは自分とのつながりなんかじゃなくて。 自分へのエゴなんかじゃなくて。 守りたかったのは、あの笑顔だったはずだ。 お前は今、笑っていないのか? 「…俺、は…」 飛影の口から言葉がこぼれて消えた。 どうしたらいい? 俺は、どうしたらいい? 本当は名乗ることが最善だったのか。 そしたら、こんなことにはならなかったのか。 …違う。たとえ名乗ってたって同じだ。 俺があいつを救えるはずなんてないんだ。 だって、俺は、忌み子だ。 「さっきから、何をグズグズやってるんだ?」 凛とした声が、ふたりの空気を裂いた。 躯は飛影のところまで近づいて、一定の距離を保って止まった。 「せっかく蔵馬が教えに来てやってるのに、なんだお前は」 「…お前に関係ない」 飛影の言葉にいつもの鋭さはない。 それを見て、躯は鼻で笑った。 「オレもお前も蔵馬も、他のヤツから見りゃ可哀想な生涯を生きてきたと思わないか?」 唐突な躯の話に、飛影も蔵馬も目を瞠った。 「過去なんて、思い出しただけでも重い。ユキナとたいして痛みは変わらないかもしれない。 それだけの過去を背負ってると思うぜ、オレたちだって」 「…何が言いたいんだ」 「オレたちは、なんで生きてると思う?」 唐突すぎる問いに、飛影は言葉を失った。 蔵馬はただ、黙って先の言葉を待っている。 「オレたちは、たとえどんな辛い中にいても、他者を傷つけることで その気持ちを和らげることができた。だから、こうして生きているんだろう?」 たくさんのものを傷つけて、奪った。 そうしないと、苦しくて生きていられなかった。 「苦しみも悲しみも痛みも、戦って、何かを殺すことで発散してきた」 自分が生きるために。 抱えきれない葛藤をぶつけて。 「でも、ユキナは?」 今更の問いのように聞こえた。 「ユキナは何かを傷つけているのか? 何かで発散しているのか? 八つ当たりで誰かを傷つけることなんてできないんだろう?」 飛影の脳裏に浮かぶのは、自分を苦しめた人間でさえ傷つくのを厭んだ雪菜の顔。 せいせいするなんてこれっぽっちも考えてはいない。 ただ、優しいその涙。 「誰かが傷つくことを望まないなら、その苦しみはどこに行く? 自分を傷つけるしかないだろう? 感情を押し殺すしかないだろう?」 優しいだけでは、生きてはいけないのに。 「気持ちが吐き出せなきゃ、そんなのいつか壊れるぜ」 躯の言葉は、飛影の心を凍らせた。 苦しみに耐えられなかった自分。 だから、たくさんのものを傷つけた自分。 目的がなければ生きられなかった、自分。 雪菜だけが平気なわけがない。 「なんでオレでも気づくような簡単なことに、お前が気づかないんだ」 躯の視線が嫌に痛かった。 「行け、飛影」 ここまで言われても渋っている自分はいったい何なんだ。 飛影の首元で、氷泪石が哀しげに揺れる。 飛影の心の動揺を表すかのように。 「兄としてだろうが飛影としてだろうがどっちでもいいじゃないか。 何があってもお前が守るんだろう? 違うのか?」 何があっても守りたい。 それは、記憶を共有したものしか知らない、無意識の誓い。 飛影の瞳が揺れる。 簡単なことなのに、それがいつもできない。 目指す場所は、いつもひとつしかないのに。 「お前が救うんだ」 躯の言葉と同時に、黒い影は消えた。 残された蔵馬と躯の眼前には儚い星空が広がっている。 泣いているかのように、星が落ちた。 本当は辛かったのか? 笑顔で隠していただけなのか? お前は今、笑っていないのか? 6/戻/8 |