8.

星が泣く。
願った祈りの重さも、望んだ未来の愚かさも、すべてが意味などなかったかのように。

星はすべてを洗い流したりはしない。

でも、それでも、明けない夜などなかった。



*



「アイツを動かすのはお前の役目だろう」

情けないとでも言いたげな顔で躯は蔵馬を見た。

「あなたには敵いませんよ」

蔵馬は苦笑した。
事実、躯が来なかったら説得にもっと時間がかかっていたかもしれない。

「ユキナの状況はそんなに酷いのか?」
「ええ…。あなたの言うとおり、本当に、いつ壊れてもおかしくない」
「アイツは間に合うのか?」
「…わかりません」

沈黙が流れた。

躯の脳裏に飛影の姿が浮かぶ。
何度も何度も妹のことを考えては不機嫌な顔をしていた。
様子を見に行けと躯が何度言っても、ガンとして聞き入れようとしなかった。
何かを、怖れているかのように。
何かから、逃れようとするかのように。

飛影。
お前は本当は、こうなることがわかってたんじゃないのか?



「あなたは、傍観者に徹するのかと思ってました」

蔵馬が静かに口を開いた。
躯はその言葉に、心外だなというように笑った。

「意外か?」
「少し」
「…興味があるんだ」
「飛影に?」
「まぁな」

あんなに心地いい過去は初めてだった。
自分に似ていると思った。
あれほど不器用なヤツはそういない。

「…それと、妹に」

蔵馬は驚いたような顔をして躯を見た。

「オレは、他人の記憶に触れられる。飛影を通してユキナを見たことがあるんだ。
 ユキナに関する記憶は奥の方に仕舞ってあった。誰にも触れられないようにするかのように」

大事に、護るかのように。

「飛影の中でユキナを見たとき、オレは罪悪感と悲愴感に襲われた。
 でも、それ以上に感じるのは、この上ない愛情だ」

何があっても守りたいという決意。

「もちろんそれは飛影の感情であって、オレ自身のものじゃない。
 でも、そう感じさせるほどアイツの想いは強かったんだ」

流れ込んでくるほどに強い意志。
共鳴しているかのような激情。
混沌としている記憶の中で、戦友と妹の存在が光を放っているように見えた。

「アイツがすべてを投げ捨ててもいいと思えるほどの存在に、オレは興味があるんだ」

そう言い放つ躯に、蔵馬は納得した顔をした。
自分も、同じようなものかもしれないと。



「アイツは、飛影として行こうが、飛影として接しようが、結局は兄として行動するんだろうな」

兄としての資格がないとそう言っていた。
でも、生まれ落ちたその瞬間からお前は確かに兄なんだ。

後悔だけは、するな。



蔵馬と躯を包んでいた闇が、次第に薄れ始めた。

もうすぐ、夜が明ける。



*



風のように走る影が光を求めて彷徨った。
少しの時間さえも惜しむかのように駆け抜ける。


失えないものがある。

守りたいものがある。


消えないでと祈ることしかできなくても、それでも、失くしたくないんだ。




人間界の空は晴れ渡っていた。
朝陽がまぶしく煌めいて、すべてを照らす。

飛影は幻海の寺にたたずんでいた。
邪眼で確認しなくても、雪菜がこの山にいるのがわかる。
寺の裏手の方に妖気を感じ、飛影はそちらへ向かった。
寺の裏手についたとき、ちょうど寺へと向かってくる雪菜の姿が見えた。

「飛影さん…?」

雪菜は驚いたように目を見開いた。
しかし、驚いたのは飛影も同じだった。
雪菜の体は頭から足の先までびしょ濡れだったのだ。

「お前…禊を…?」
「気を引き締めるのにはちょうどいいかなって…。それに、暑かったですし」

雪菜はそう言って微笑った。
水分を十分に含んだ髪から雫が滴る。
雪菜は早朝から数時間もの間滝に打たれていたのだ。
そのせいでか、ただでさえ白い彼女の肌はいつも以上に色を失くしているように見えた。
薄い着物の上から肩にかけたバスタオルを、胸の前で掻き合わせて雪菜は飛影を見た。

「飛影さんはどうしてこちらに?」
「………幻海の命日が近いからな」

お前に会いに来た。などとは口が裂けても言えなかった。
だから、とっさに口から出まかせを言った。

「…幻海には、世話になってないことも…ない」

ような、あるような。
雪菜は納得したのか微笑んだ。

「幻海さんも喜びますよ」

ただの口実だなんて知られたら恨まれそうだが。
あとで線香の1本でもあげておくかと飛影は思った。

「…そんなことより、早く着替えて来い」
「あ、はいっ。ごめんなさい…!」

雪菜は顔を赤くして、寺の中へと入って行った。

飛影は雪菜の姿を見送ってから、縁側に腰掛けた。
前方には、絵に描いたような緑の山々が広がっている。

飛影はこれからどうしたらいいのかと考えあぐねていた。
彼の話術は口下手以前の問題だ。
どうすれば雪菜が心の内を話してくれるのか見当もつかなかった。



現実を目の当たりにして、心の不安は広がった。
久しぶりに会った妹は、顔も蒼白く、ただでさえ細い身体がいっそう痩せて見えた。
でも、それでも、気丈にも笑顔を振りまいている。
変わらない笑顔に見える。

でも、飛影には、それが泣いているように見えた。


何ができる?

俺に、何ができる?



部屋の障子が開いて、雪菜が出てきた。
飛影にならうように、雪菜も縁側に座った。

飛影は雪菜の洋服姿を初めて見た。
人間と少しも変わらないように見える。
3年前より大人びたその姿は、あのときよりも遥かに頼りなく見えた。

「久しぶりですね」
「ああ」
「お仕事どうですか? パトロールなさってるって聞きましたけど」
「そんな立派なもんじゃない。単調すぎてつまらんだけだ」
「そうなんですか? でも、人間界の人は感謝してますよ、きっと」

自分の居場所に帰れるんですから。
と雪菜は付け足した。
その顔がどこか淋しげに見えた。

「お前の方は、どうなんだ?」

飛影の瞳が雪菜をとらえる。

「…元気にやってるのか?」
「私は…」

雪菜の言葉が止まった。
視線は交わったまま、ただ言葉を探した。

真夏だというのに、山奥だからなのか肌寒いくらいだった。

雪菜は飛影から視線を外して、ぽつりとつぶやいた。

「……わかりません」





願った祈りも、望んだ未来も、本当はとても些細なことで。

誰もが持っていそうで、誰もが手に入れられないもの。

硝子のような夢と、刃のような現実。


辿りつける場所などないのだと、誰かが泣いた。





ああ、そうか。
俺がどうしてあんなにも渋っていたのか理由がわかった。

3年前のあの日に思ったんだ。


俺が次にお前に会うときは、託された氷泪石を返すとき。

お前とのつながりを失くすとき。

お前にもう会わないと決めたとき。




これを返せば、俺は、二度とお前には会えないんだ。


だって、もう理由がない。















7//9