8.

辿り着くだけなら簡単だったのかも知れない。
ただ、踏み出せなかっただけ。
勇気がなかっただけ。

本当は少し怖かったのかもしれない。
ただ、ほんの少しだけ。



*



「今日はこの辺で宿を探そう」
「私ならまだ大丈夫ですけど…」
「この先は夜通るのは危険だ」
「…! わかりました」

雪菜は大人しく蒼輝の言葉に従った。

凛光の酒場を出て3日目。
魔界の地理に疎い雪菜は、あとどれくらいで目的地へ辿りつけるのか見当もつかなかった。
ただ、確実に真実へ近づいている、そんな気がした。

手頃な宿屋を知っている、そう言う蒼輝に雪菜がついて行くと、小さな集落の小さな宿屋に着いた。
お世辞にも綺麗とは言えない宿に雪菜は呆然としたが、
この辺では一番マシだ、と蒼輝は苦笑しながら言った。

中に入ってみると見た目ほどではなくて、雪菜はなんだかほっとした。
受付らしきところにいる男に蒼輝は声をかけた。

「部屋を二部屋借りたいのだが」
「悪いね、兄ちゃん。生憎今夜はひとつしか空いてねぇ」

返ってきた男の言葉に蒼輝はしばらく沈黙し、そして、後ろにいる雪菜を振り返った。

「…俺と相部屋でも?」
「はい、構いません」

返ってきた笑顔と即答に蒼輝は苦笑しながら、予想通りの返答だと思った。



雪菜と出逢ってまだ間もないが、数日一緒に旅をしただけで、
蒼輝は雪菜の性格をなんとなく理解していた。
そして、ひとりで旅をさせなくてよかったと心底思った。
彼女のようなタイプはこれから向かう先では生きていけない。
その純粋さにつけこまれて、利用されるのがオチだ。
そういう狡さが蔓延る場所なのだ、これから行く先は。

彼女はそんなことは知らないのだろう。
いや、知っていても行こうとしたかもしれない。
彼女なら行くかもしれない。

純粋さゆえの無鉄砲。
だからこそ護りがいがある。

蒼輝はそう思った。



案内された2階の部屋は、予想していたものよりは広かった。
電球は剥き出しで、壁にはところどころ傷があり、カーテンは裂けていたが、
それでも想像していたものよりはずっとよかった。

「ベッドは君が使ってくれ」
「え、でも…」
「俺はそこのソファでいい」

そう言いながら、蒼輝は借りてきた紐と布を使って、ベッドの前に簡単な仕切りを作った。

「そんな、ソファでだなんて…」
「ひとつしかないんだ、仕方ないだろう」
「蒼輝さんが寝るには小さいですよ」

部屋の隅にあるソファを見ながら雪菜は言った。
彼の長身には不釣り合いだし、なんと言っても寝にくそうである。
背凭れの部分は裂けてしまっているところがあり、中のスポンジが剥き出しになっている。
自分のことを気遣う雪菜に、蒼輝は呆れたように溜め息をついた。

「いいか、雪菜嬢」
「…はい?」
「主人は君なんだ」
「そんな主人だなんて…!」
「君は俺を金で雇った。そうだろ?」
「…!」
「気遣いは無用だ」
「……」
「主人を差し置いてベッドなんかで寝たら面目丸潰れだ。解ってくれ」
「…はい」

蒼輝の言葉に納得したのか、雪菜はそれ以上なにも言わなかった。



恐らく彼女は、金で誰かを雇ったことなどないのだろう。

そんな彼女がそこまでして13層北東部に行きたい理由が蒼輝にはわからなかった。
わからないからこそ、知りたくなった。



「君は…」
「…え?」
「君はなにを捜してるんだ?」
「それは…」

雪菜は言い淀んだ。
そんな姿を見て、蒼輝は言葉を付け足した。

「ただの興味だ。言いたくなければ言わなくていい」
「……兄」
「え…?」
「兄を捜してるんです」
「兄を? …行方不明なのか?」
「会ったことないんです」
「…!」
「生まれてすぐ離れ離れになってしまって…」
「…そうか」
「ただ会いたい。それだけなんです」

そう言って雪菜は笑った。
その笑顔が儚げに見えたのは、気のせいではないのだろうと蒼輝は思った。

「手がかりはあるのか? 名前とか…」
「いいえ」
「……え?」
「炎の妖気を纏っているという以外はなにも」
「それだけしかわかってないのに行くのか?」
「はい」
「周りに内緒にしてまで?」
「…はい」

コートを握りしめながら、それでも雪菜の瞳は揺るがなかった。

「会うためだったらなんだってします」
「…!」
「…そう決めたんです」



彼女を動かすものはなんなのだろう。
ここまで貫ける強い意思はどこから来るのだろう。

自分には想像できないほど様々なことを彼女は経験してきたのかもしれない。



「…だったら、もっと狡く生きることも覚えろ」
「…!」
「なんでもするというのは、そういうことだ」
「……」
「君は甘すぎる」
「……知ってます。でも…」

雪菜の顔がどこか悲痛そうに見えた。

「狡く生きるのは苦しいだけだっていうのも知ってます…」
「……」
「私は本当は狡いから…だけど、それはダメなんです…」


国を滅ぼしてほしいと思っていた。
兄を利用しようとしていた。
そんな狡い自分に失望した。

狡いことがどれだけ苦しいか知っているから。
だから、自分は、なんでもするとは決めたけど、誰かに対して狡くなることはできない。

たとえ甘いと言われても、狡いままでは兄には会えない。


会う資格なんてない。


「甘くていいです。それでも、兄に会ってみせます…」
「…そうか。なら君は、本当に強いということだな」
「…!」

目を見開いた雪菜の頭を、蒼輝はぽんと撫でた。



ただの世間知らずではない。
ただの無鉄砲でもない。
彼女の意思はただひたすらに真っ直ぐで、純粋で。
少しのことでは揺らぎはしない。

どれだけの想いを抱えているのか。
背負っているのか。

寝るときでさえコートをその身から離さない雪菜の姿に、蒼輝は固い決意を見た気がした。
心配して追って来てくれるであろう者がいることを知っていながら、
それらを拒絶してまでも捜そうとする意志。
止められたくないという思い。

会ったこともない兄を捜すためにそこまでしようとする少女の強い意志が、
蒼輝にはわからなかった。



裂けたカーテンの隙間から月光が差し込む。
蒼輝の漆黒の長い髪が光に照らされて、いっそう深みを増していた。
蒼輝は思い出したかのように懐に手を入れて、藍色の巾着袋を取り出した。
依頼を受けた際に、前金に、と貰ったものだった。
中には淡く儚く輝く至高の宝石が入っている。

どこで手に入れたのかは訊かなかった。
そんなことに興味などない。

しかし、この宝石が、なんだってするという彼女の決意の表れのように思えた。



「13層北東部…。……炎の妖気、か……」

雪菜を起こさないように、蒼輝はそっとつぶやいた。















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