4. 首にかかったふたつの氷泪石。 もう一度、返しに来いという意味なのだろうか。 真実とともに。 鍛え上げられた肉体に、熱い雫がとめどなく滴り落ちる。 飛影は、落下する熱湯の勢いをさらに強めた。 蒸された蒸気に包まれたまま、壁に手をつく。 勢いを増したシャワーの湯が、頭から背中を強く打った。 苛立ちが治まらない。 打ちつける熱湯が、もっと強く、もっと熱ければいいのに。 視線はつま先に向けたまま、飛影は右手で壁を強く殴った。 拳から血が流れ、流水に攫われていく。 雪菜。 この名を、もう何度繰り返しただろうか。 あのとき、雪菜は何も語ろうとはしなかった。 ただ、氷泪石だけを託して、何ひとつ語らなかった。 しかし、その無言こそが、彼女が真実を知ったのだという確かな証拠のような気がした。 あなたから語って。 そう言われたような気がしてならなかった。 怒りとも哀しみとも取れない表情でこちらを見る雪菜の瞳から、唯一読み取れたのは迷いだった。 何から考えるべきなのか。それすらも逡巡していた。 また、雪菜を困惑させて苦しませている。 何があっても守る。 そう誓ったはずだったのに、結局何もできてはいない。 ただ見守るだけでは守れない。 それを実感しただけだ。 13層という危険な場所へひとりで向かわせ、そして、 今もまた、コレクターに捕まるという事態に陥らせている。 コレクターに存在が知れたのは、おそらく13層でコートを脱いだあの瞬間。 氷女の特殊な妖気に、コレクターが反応したのだろう。 13層へ向かっていなければ、きっと、こんなことにはならなかったはずだ。 「…くそっ…!」 飛影はもう一度拳を強く叩きつけた。 不甲斐なさに腹が立つ。 自分のせいで、雪菜はまた危険な目に遭っている。 不幸を呼びよせる、まさに忌み子だ。 こんな兄なんて捜さなければよかったのに。 巻き込むことしかできないのだから。 失いたくはない。 苦しめたくもない。 だから、互いの距離を縮めたくなんかなかった。 凶悪で残忍。 そんな過去を生きてきた。 だから、いまさら兄だなんて名乗れない。 * 陽の当たらない牢屋の中。 雪菜はひとりで膝を抱えていた。 着ていたルームウェアは取り上げられ、今は検査着のような丈の短い薄手の衣を着せられている。 ここには、慰めてくれる小鳥も、話しかけてくれる使用人もいない。 たったひとりだ。 あのときも、はじめは不安でいっぱいだった。 しかし、じきに慣れ、諦めた。 誰も助けに来ないと知っていた。 だから、屈しないというプライドを保つことで、耐えることが出来た。 恐怖も、痛みも、我慢できた。 どうってことなかった。 けれど、今は違う。 雪菜は膝を抱く力を強めた。 泣いてしまいそうだった。 いろんな人たちの顔が浮かぶ。 二度と会えなくなるかもしれないと思うと、胸が張り裂けそうだった。 「あんた、いつまでそうしてる気?」 格子の向こうから聞こえてきた声に、雪菜は顔を上げた。 そこに立っていたのは、黄緑色のボブカットに、メガネをかけた白衣の女。 検査着に着替えるよう促してきた女だ。 「おとなしく従えば、不自由なことは何もないのに」 「……」 「あんたが協力的じゃないから、こんな牢屋なんかに入れられてんのよ」 「……」 「協力すればちゃんと部屋だって与えられるし、欲しいものだって手に入るのに」 「…そんなのいりません」 「え?」 「私は帰りたいだけです」 だから、絶対に屈しない。 雪菜は強い瞳で女を見上げた。 「…あんた、自分の立場わかってんの?」 「……」 「こっちは平和的な提案をしてるの。捕まってんだから、さっさと覚悟決めなさいよ」 女は苛立ったように早口で言った。 「何重にも張り巡らされた結界の中にいるんだから、建物内じゃ満足に力は使えないし、 もちろん外からも入ってくることはできない。こんな状況で、一体どうしようっていうの?」 「…助けが来ます。必ず」 「来るわけないわ。バカな子ね。話聞いてた? ここの結界は複雑なシステムで出来てるの。外から破れるわけないわ」 女は誇らしげに言った。 しかし、雪菜の考えが変わることはなかった。 来てくれる。絶対に。 「…まぁ、いいわ。もう少しだけ夢見させてあげる」 でもね、と女は言葉を付け足した。 「あんたの根性が据わってるのは認めるけど、蒐魁様の気はそんなに長くはないわよ」 「……」 「力づくで協力させられるより、自分から歩みよった方が楽に生きられるわ」 「……」 「ビジネスだと思って、割り切ることね」 そう言い残して、女は姿を消した。 昔、戸愚呂にも同じようなことを言われたのを、雪菜は思い出した。 小鳥を殺された、あのときに。 協力すれば楽に生きられるだなんて、絶対にそうは思わない。 屈したら、それこそ負けだ。 彼らは絶対に来てくれる。 雪菜は自然とそう信じることが出来た。 彼も、必ず来てくれる。 まだ何も言ってない。聞いてない。 こんなところで終われない。 なぜ名乗り出てくれないのかを、ずっと考えていた。 初めは、自分が妹だということ自体に気づいていないのではないかとも考えた。 けれど、そう思うには、あまりにも偶然が重なり過ぎている。 垂金邸に助けに来てくれた。 暗黒武術会で、崩れ落ちる瓦礫から救ってくれた。 背負い過ぎた過去の枷を外すために、話を聞きに来てくれた。 13層に行ったとき、捜しに来てくれた。 これが、すべて偶然だというのだろうか。 気にかけてくれていると思うのは、自惚れなのだろうか。 もし、気づいていたとしたら、なぜ言ってくれないのだろうか。 近くにいてくれたのに。 叱ってくれたし、慰めてもくれたのに。 自分がどれだけ兄を求めているか、知っているはずなのに。 国を滅ぼしてほしかっただなんて言って、失望させたのだろうか。 怒らせただろうか。 呆れてしまったのだろうか。 兄は私を必要としているだろうか。 私を赦してくれるだろうか。 酷いことをたくさん言った。 わがままなことをたくさん言った。 名乗ってくれないのは、呆れてしまったから? 必要としていないから? いらないと、思ってるから? それでも、もう一度会いたい。 今すぐ会いたい。 嫌われててもいい。 いらないと思われていても、それでもいい。 もう一度会って、ちゃんと話したい。 ちゃんと訊きたい。 どう思われていても、私には兄が必要だから。 だから、まずは生き延びてここから出るんだ。 待ってるだけじゃ、ダメだから。 * 「なんでこんなことになっちまったんだろうね」 控え用に用意された百足の一室で、ぼたんは誰に言うでもなく呟いた。 同じ部屋には、幽助と蔵馬、特防隊も控えている。 「…あの子は結局本当のこと知っちまったんだろ?」 「たぶんな…」 「なのに今度は離れ離れだなんて…あんまりじゃないか」 「ホントじれったいっつーか、なんてゆーか」 「そうだよ! そもそも飛影が最初から意地張ってなきゃこんなことにはならなかったのにさ」 「だよな。飛影にも、桑原ぐれぇの暑苦しさがありゃな」 「イヤですよ、そんな飛影」 幽助の言葉に、すかさずツッコミを入れたのは蔵馬だった。 「彼にも色々と思うところがあるんですよ」 「それはわかるけどよ…」 「好き勝手に生きてきた分、優しいものは遠ざけたくなるんです」 俺もそうでしたから、と蔵馬は呟いた。 過去を悔いる瞬間があるとすれば、それは大切なものを想うときだ。 大切なものを守りたくて、過去をなかったことにしたいと思って、でも、できなくて。 だから、遠ざけることを選んでしまう。 大切にする方法がわからなくなる。 飛影は今、その葛藤の中にいるのだろう。 「ふたりの問題ですから、俺たちは見守りましょう」 「…そーだな」 「口出ししないって決めたから、黙ってたわけだしね」 まぁ、口止めされてたってのもあるけど、とぼたんは付け足した。 「ふたりのことよりも、まずは、雪菜ちゃんを助け出すことから考えましょう」 「蒐魁ってのは、そんなに強くないんだろ?」 「強さは問題じゃありません」 「? ってゆーと?」 蔵馬の言葉に、幽助とぼたんはそろって首を傾げた。 「蒐魁は…かなりヤバイです」 3/戻/5 |