9.

結界で覆われた巨大な要塞の2階の中央。
制御室の扉の前に、雪菜は立っていた。

荒い呼吸を整えるように、深く深呼吸をする。
ここに辿り着くまでに、不気味なほど誰にも遭遇しなかった。
結界への絶対的自信から来る驕りか、それとも、もしかしたら罠か。
しかし、彼らが罠を張るメリットなどひとつもない。

大丈夫。うまくいく。
雪菜はもう一度深呼吸をして、制御室の扉を開けた。

覗き込むと、なんの気配も感じなかった。
食事係の男が言っていたように、確かに無人で稼働しているようだった。

雪菜は、誰もいない室内に入った。
電気系統やエネルギー系統などの制御装置が手前にあり、
その奥に一際大きなコンピュータシステムがあった。
大きなモニターに、要塞の全体像が映し出されており、
張り巡らされた結界の強度が、数値として示されていた。

その隣には、小さなモニターがいくつもあり、外の監視カメラの映像が表示されている。
そこには、警備員が巡回している姿が見えた。
この結界を解除できたとしても、次はあの警備を掻い潜らなければならない。



できるだろうか。
雪菜は瞳を閉じた。

いつも浮かぶのは、あの頼りたくなる背中。
この背中を追いかけていくためには、やらなければならない。

大丈夫。できる。



雪菜は瞳を開けて、結界をコントロールしている機械を見た。
たくさんのボタン。備え付けのパソコン。
どれを弄れば結界が解除できるのか、雪菜にはわからなかった。
だが、わかる必要などなかった。
最もシンプルな手段を取る気でいた。

機械の上に手をかざす。
ボタンの隙間から、冷気が忍び込む。
どんな大掛かりな機械でも、水に浸かれば、配線が傷つけば、瞬く間に機能を失う。
パキパキと音を立てて、コンピュータの内部が凍りつく。
力を制御されているせいで、思うように冷気を操れないが、それでも確実にシステムを蝕んでいた。
凍りついた内部が溶けた瞬間、完全無欠の結界は崩壊する。

強固なシステムを解除する方法など知らない。
ならば、破壊すればいいのだ。



内部の氷がコンピュータの熱で溶かされていく。
そして、モニターの画面が歪んだと思った瞬間、砂嵐に変わった。

その直後。
異常を知らせるサイレンが、要塞内にけたたましく鳴り響いた。
結界が解除されたことを、警報システムが感知したのだ。

雪菜は息つく間もなく部屋を飛び出し、廊下を走り抜けた。
あとは、ここから出るだけだ。



*



「何事だ!?」
「わかりません…! 結界が解除されたようです!」
「なんだと!?」

異常な事態に、蒐魁の顔に動揺が走る。
結界が破られただと?そんなバカな。

「…! まさか…!」

本当に助けが来たというのか?
氷女の娘が言ったとおりに、あの“飛影”が。

「蒐魁様! 今、警備の者から、制御室が破壊されていたとの報告がありました!」
「制御室が?」
「はい! 機械の内部が水浸しになっていたと」
「水浸し…?」

部下の報告に、蒐魁は首を傾げる。
もし、外部から攻撃を受けたのなら、制御室の内部を破壊するなど不可能だろう。
ということは。

「蒐魁様!」

別の部下が、息を切らして報告に来た。

「氷女の娘が逃げました!」
「!」
「食事係を倒して部屋を出たようです!」
「…そういうことか」

蒐魁はにやりと笑った。
つくづく元気な娘だ。



*



雪菜は懸命に走り続けた。
出口まで、もう少し。

後ろから、複数の足音と怒鳴り声が聞こえてくる。
しかし、こんなところで捕まるわけにはいかない。
長い廊下を抜けると、玄関ホールに差し掛かった。

鼓動はばくばくと高鳴り、息が上がって苦しい。
足が絡まって、何度も転びそうになる。
床を蹴る裸足の足は、もう感覚がなかった。
ただただ懸命に走った。
立ち止まらないように、転ばないように、前へ進むしかなかった。

ここを抜ければ、出口だ。
ここから出られる。

そう思った瞬間、身体が何か衝撃を受けたかと思うと、勢いよく壁に叩きつけられた。
背中を強かに打ちつけ、雪菜はその場に崩れ落ちた。
咳き込みながら、かろうじて上体を起こして、顔を上げる。
そこには、牢屋から自分を連行したあの長身の男が立っていた。
この男に吹き飛ばされたのだ。

「おいおい。大切なコレクションなんだから、もっと大事に扱え」
「…!」

声のする方を見ると、廊下から玄関ホールへと入ってくる蒐魁の姿が見えた。

「ずいぶん派手にやってくれたな」
「……っ」
「実に面白い女だ。すぐにでも解剖してやりたくなった」
「!」

蒐魁の顔が、不敵な笑みで歪む。
今の状況を楽しんでいるようにも、怒りでわなないているようにも見えた。
雪菜の心を、絶望と恐怖が再び襲いはじめる。
背筋がゆっくりと凍っていく。

こんなところで負けるわけにはいかないのに。
立ち止まるわけにはいかないのに。

「コレクションは大人しく僕に従っていればいい」
「…嫌です…!」
「聞き分けのない子だな。いけない子には罰を与えないと」

そう言って蒐魁が雪菜へと近づく。
雪菜は身構えた。

そのとき。



「罰を受けるのは貴様の方だ」



その言葉とともに、蒐魁の身体が吹き飛んだ。
玄関ホールの柱に激突し、その柱ごとさらに後ろに吹き飛ぶ。
壁にぶつかって、その身体はようやく止まった。

何が起きたのか。誰もが息を呑む。
雪菜は、自分の前に立っている、その背中を見上げた。

「…貴様ら、誰に手を出したのか、わかってるのか」
「お、お前は…!」
「飛影…!!」

蒐魁の部下たちが、蒼ざめた顔で口々に呟いた。
そして、さらに危機的状況に陥っていることに気づく。

「あれは…浦飯幽助じゃないか…!?」
「く、蔵馬もいるぞ…っ!」
「奇淋も…いや、それだけじゃねぇ…!」
「躯軍に包囲されてるっ…!!」

次々と姿を現す有名人に、蒐魁の部下はパニックに陥っていた。





吹き飛ばされた蒐魁は、咳き込み、額から血を流しながら、今の状況を理解しようとした。

「…バカな…こんなこと……あるわけが…っ…」

この完全無欠の要塞が、こんな簡単に破られるなんて。
しかも、あんな小娘に。
そんなことあるわけがない。
これは何かの間違いだ。

結界には自信があった。自分の頭脳にも。
これからもコレクターとして、科学者として、この才能を振るっていくんだ。

「ふざけるな…こんなことが…。………!!」

鋭い瞳がこちらを見ていた。
恨みの込められた、射抜くような視線だった。
視線だけで人を殺せるとしたら、こういう目のことを言うのだろうと蒐魁は思った。

そして、悟った。
これは紛れもなく、現実なのだと。

あの娘が言っていたことに、何ひとつ偽りはなかった。
助けが来るということも、それが“飛影”だということも。
自分の要塞が躯軍によって次々と制圧されていく。
その光景を、蒐魁は呆然と見ていた。

どうやら、本当にとんでもないものに手を出してしまったらしい。





パニックに陥った蒐魁の部下たちが、玄関ホールから蜘蛛の子を散らすように逃げていく。

「ひとり残らず確保しろ!」

奇淋が指示を出すと同時に、自らも捕獲に乗り出す。
躯軍の制圧班とデータ収集班が、要塞内部へと次々に侵入していった。
蒐魁とその部下を、問答無用で拘束する。



その光景を見届けてから、飛影はゆっくりと振り返った。

同じ紅い瞳が、こちらを見上げていた。
ただでさえ白い肌が、さらに白く色を失くしていた。
胸許は大きくはだけ、裾が乱れて、白く細い脚が露わになっている。


「…すまない」


静かにそう言って、飛影は屈んで自分のコートを着せた。
雪菜は、飛影の謝罪に首を振る。


「必ず…来てくれると思ってました…」
「…雪菜」
「絶対に、来てくれるって…」


信じてやまなかった。
いつでも助けてくれるあなたが、必ず来てくれることを。

頼りたくなるその背中を、再び見ることが出来ると。


「飛影さんが来るって言ったら、彼らは何もしませんでした」
「…!」
「飛影さんが、私を守ってくれました」


雪菜が飛影を見上げる。

徐々に緊張が解けてきたのか、感情の糸がほどけはじめた。
抑えていたはずの涙が溢れ、視界が歪んだ。


「…私、もっと強くなります…」
「!」
「足手まといにならないように…だから…!」


震えるその身体を、飛影は抱きしめた。

躊躇いはなかった。
迷いもなかった。

以前、同じように泣いていたあのときは、抱きしめることなどできなかったのに。
そんな資格はないと思っていたのに。

あの頃も今も、何も変わってはいない。
抱きしめるこの腕は、血塗られたままだ。

なのに、こうせずにはいられなかった。



「…もういい。これ以上強くならなくていい」



小さな身体を、強く強く抱きしめる。

今までずっと自信がなかった。
勇気がなかった。
大切すぎた。

だから、遠ざけることでしか守れないと思っていた。
それが一番いいのだと疑わなかった。


けれど、今、この瞬間、そうではないと思う。


この腕の中にいる存在が、愛しくて愛しくて仕方ないんだ。

だから、手を伸ばさずにはいられなかった。



「俺は、お前をいらないと思ったことは一度もない」
「!」



雪菜の瞳から、とめどなく涙が溢れる。
涙が止まらなくて、飛影の胸に縋りついた。

不安と恐怖でいっぱいだった心が、力強い腕に包まれて、安心で満たされていく。


飛影は、雪菜が落ち着くまで、その身体を抱きしめ続けた。















8//10