10. 何度想っただろう。 何度否定しただろう。 何度、願っただろう。 腕の中で小さく震えるこの存在が、ただ幸せになってくれればいいと、それだけを考えた。 そのためには、自分など必要なくて、いても不幸にするだけで。 だから、自分のいない世界で笑っている彼女の未来を願ったはずなのに。 けれど、今、ただ抱きしめることしか頭になかった。 誰に見られていようが構わなかった。 そんな視線すら気にならない。 傷ついた彼女の、それでも強くあろうとする姿に、居た堪れなくなった。 手を伸ばさずにはいられなかった。 溢れる涙が氷泪石に変わって散らばる。 飛影の胸許をしっかり握りしめ、顔を埋めて泣いている。 しかし、その姿は、まだどこか感情を抑えようとしているように、飛影には見えた。 おそらく、こんな場所で泣いてはいけないと、本能的にストップがかかってしまうのだろう。 氷女として外界で生きてきたこれまでの経験が、そうさせているのだろうと飛影は思った。 そして、それは、自分という存在だけでは、まだ彼女を完全に安心させることは 出来ないのだということの表れでもあった。 少し落ち着いた雪菜が、ゆっくりと顔を上げる。 それを見て、飛影は抱きしめていた腕を解いた。 「…どこか怪我は?」 「少し、背中を打っただけで…でも、大丈夫です」 そう言う雪菜を飛影は注意深く見て、その額に軽く触れた。 「…嘘が下手だな」 額はすでに熱を持ちはじめている。 氷女の普段の体温からすれば、相当な熱さのはずだ。 それを大丈夫だと言ってしまう我慢強さは、一体誰に似たのかと、飛影は内心で苦笑した。 飛影は、その小さな身体を抱き上げた。 雪菜は一瞬びくりと身体を強張らせたが、すぐに緊張を解いて、飛影に身を預けた。 自分で歩けるほどの体力が残っていないことを、雪菜自身も自覚していた。 飛影は雪菜を抱き上げたまま、幽助たちのもとへ向かう。 幽助、蔵馬、ぼたんの姿を見つけて、雪菜は小さく会釈した。 「みなさん…来てくださってありがとうございます」 「何言ってんだい! 当たり前じゃないか!」 「そーだぜ! 礼言われることじゃねぇーよ」 「…はい」 ぼたんと幽助の言葉に、雪菜ははにかんだ。 「制圧は躯軍に任せるとして…俺たちは百足に戻りますか」 「…いや、その前にまだやることがある」 「え?」 周りの疑問には答えず、飛影は抱き上げていた雪菜の身体を蔵馬に預けた。 「診てやってくれ」 「わかりました。…あなたは?」 「ここを破壊する」 「…は?」 唐突な飛影の言葉に、幽助が思わず訊き返した。 飛影は一度だけ雪菜の顔を見てから、踵を返した。 「でないと気が治まらん」 今回の任務は、蒐魁の逮捕と雪菜の保護だ。 蒐魁の身柄は、生きて連行することが条件だった。 そのため、殺すことはできない。 もちろん、雪菜がそれを望んでいないだろうことは、わかっている。 だが、この不条理に対する怒りが簡単に治まるほど、飛影は冷静にはなれなかった。 巨大な要塞が、音を立てて崩れていく。 先程までいた玄関ホールも、拘禁された地下牢も、あの実験室も、 あと数分もすれば、跡形もなく無くなるのだろう。 雪菜たちは、要塞から遠く離れた場所で、その光景を見ていた。 「派手にやってんなー」 「いや〜、愛だね、これは」 幽助とぼたんの言葉を聞きながら、雪菜は真っ直ぐ要塞を見ていた。 捕らえられていた恐怖の場所が、跡形もなく消え去っていく。 この場所がなくなれば、自分と同じような思いをする者は、もういなくなるだろう。 信じている人たちが来てくれた。 自分はひとりじゃない。 だから、もう大丈夫なんだ。 不安なことは何もない。 そう頭の中で思いながら、雪菜は意識を手離した。 あの背中を見た瞬間、何もかもが救われたと思った。 ずっと頼ってきた背中が目の前にあるだけで、恐れるものはなくなった。 抱きしめてくれる腕が、かけてくれる言葉が優しくて、 これまでの葛藤などいっきに吹き飛んでしまうほどだった。 いらないと思ったことは一度もない。 その言葉だけで、もう十分だと思えた。 ずっとずっと求め続けたものが傍にいてくれる。 それだけで、もう十分幸せだった。 * 熱に浮かされた頭を軽く振り、次に雪菜が目を覚ましたのは、見慣れない場所だった。 視界に入る知らない天井に、雪菜は思わず飛び起きた。 「目、覚めたか」 「!」 その声に、雪菜は振り返って安堵の息を漏らした。 自分が寝ていたベッドの傍に、飛影がいた。 「…ここは?」 「百足の医療室だ」 そう言いながら、飛影は、起き上った勢いで額から滑り落ちたタオルを拾い上げた。 その一連の動作を見ながら、雪菜は呟いた。 「…よかった」 「…?」 「夢だったら…どうしようかと思った…」 「…!」 雪菜は心底安心したように、溜め息をついた。 見慣れぬ天井に、一瞬よぎった不安。 もしかしたら、すべては都合のいい夢で、本当はまだ絶望の中にいるのではないか。 恐怖に支配されたままなのではないか。 そんなことが頭をよぎった。 そんな雪菜の不安を払拭するかのように、飛影は雪菜を見た。 「大丈夫だ。ちゃんと現実だ」 「…はい」 飛影の言葉に、雪菜は頷きながら微笑んだ。 飛影は雪菜の額にそっと触れ、苦い顔をした。 額の熱は、少しも下がっていなかった。 「もう大丈夫だから、ちゃんと休め」 そう言って、雪菜の身体をベッドに沈める。 絞り直したタオルを額に乗せると、冷やりとした感触が心地いいのか、雪菜はすぐに瞳を閉じた。 まだ1時間も経っていない。 そんなにすぐに回復するはずもなかった。 安心したように眠る雪菜の顔を見て、今度は飛影が安堵の息を漏らす番だった。 要塞を破壊し、百足に戻ると、 すでに意識を手離していた雪菜は、蔵馬と時雨によって診察と治療が施されていた。 今は、医療室のカーテンで仕切られたベッドで眠っている。 医療室には、飛影と雪菜以外には、この部屋の主ともいえる時雨がいるだけだった。 カーテンの向こうから飛影が姿を現し、それに気づいた時雨が声をかける。 「落ち着いたか」 「…あぁ」 「御主のコート、着たまま離さなかったので、そのまま着せておいたぞ」 時雨の言葉に、飛影はただ頷き返した。 「慣れない環境と状況に、精神的にも肉体的にも疲労していたのだろう。 熱が上がってきていたが、蔵馬が処方した薬で、今は安定している。直に下がるだろう」 「熱以外には?」 「背中を打ちつけたようだが、骨に異常はない」 「そうか」 「それから、首筋に注射針の痕があった」 「!」 時雨の言葉に飛影は目を見開いた。 思わず振り返ってカーテンの方を見たが、時雨は大丈夫だというような顔をした。 「安心しろ。麻酔薬を投与されただけだ」 「本当に大丈夫なのか」 「あぁ。血液を調べたが、正常だった」 「…そうか」 「御主が聞いたとおり、何もされてはいないようだ」 そう聞いて、飛影は安堵の息を漏らした。 その様子に、時雨がくっくと笑う。 飛影はバツが悪そうに顔を逸らした。 「まさか御主の捜しものにこんな形で会えるとはな」 「……」 「氷女は、もともとか弱い種族だ。あまり無理はさせるな」 「…わかってる」 時雨の言葉に、飛影は静かに頷いた。 「御主も一度休め。酷い顔だぞ」 「……」 「御主がそんなんでは、妹君に心配されるぞ」 「……そうだな」 ここ数日、まともに休んだ日はなかった。 こんな状態では、他人のことばかり気遣う彼女を心配させてしまう。 せっかく雪菜が回復しても、そんなことで気を揉ませてしまっては、余計な負担をかけるだけだ。 幸い、目の前の男は、百足の中でも信頼できる男だった。 「何かあったら呼んでくれ」 時雨が頷くのを確認してから、飛影は自室へと戻った。 9/戻/11 |