12.

「そうだ、これ」
「え?」

躯が差し出したのは、白地の着物だった。
上質な生地でできた、いかにも高級そうなものである。

「いつまでもそんな格好というわけにはいかないだろ」

躯の視線に、雪菜は自分の姿を顧みる。
ぶかぶかのTシャツと短パンの上に、黒いコートを羽織っているその姿は、
確かに人前に出られる格好ではなかった。

「ですが…こんな高級なものいただけません」
「構わんさ。どうせ貢物だ。百足じゃ誰も着やしない」
「でも…!」

なおも言い下がる雪菜を遮って、躯はその手に着物を押し付けた。
そして、そのままカーテンを閉めようと手をかける。

「さっさと着替えて、“昔話”とやらを聞くんだな」

言葉とともに閉められたカーテンに、雪菜はただ呆然とするしかなかった。



袖を通しただけでも高級さがうかがえる着物に、気が引ける思いをしながらも、
雪菜は躯から受け取った着物に着替えた。
帯を結び、着物と一緒に渡された髪飾りで、髪をひとつにまとめる。
人間界で暮らすようになってからは、洋服を着る機会が増えたが、
やはり着慣れた着物を身にまとうと、身が引き締まる思いがした。

先ほどまで来ていたTシャツを畳み終えて、雪菜はコートを手に取った。
このコートには、ずいぶん助けられた気がする。
彼に包まれているような、そんな安心感があった。

今でも、夢を見ているのではないかと思う。
けれど、このコートの存在が、雪菜を現実へと引き留めてくれていた。



カーテンを開けると、もうそこに躯の姿はなかった。
この部屋の主である時雨が、静かに佇んでいる。
雪菜は飛影のコートを握りしめながら、時雨をまっすぐ見た。

「教えてください。あなたが知っていること」
「……いいだろう」

時雨は頷きながら、雪菜をテーブルの椅子に座るよう促した。

「飛影の手術代を妹に返すのも面白い」
「?」

首を傾げる雪菜に、時雨はただふっと笑っただけだった。

「拙者が飛影と会ったのは、今から数年前のこと。躯様の配下に付く前のことだった」

語り始めた時雨に、雪菜は静かに頷いた。

「整体師である拙者のもとに現れた飛影は、ある手術を依頼してきた」
「手術…?」
「そう。邪眼の移植手術だ」
「!?」

雪菜は目を見開いた。
移植手術の話など、聞いたことがなかった。

「知らなかったか。あれは生来のものではない」
「…そう、だったんですね…。でも、どうして?」
「ヤツにはどうしても邪眼の力が必要だった。…ある目的のために」
「それは…?」
「不覚にも失くしてしまった母親の形見の氷泪石を探すこと」
「…!」
「そして、妹のいる氷河の国を探すこと」
「!」
「ヤツはそのふたつの捜しもののために、特上の激痛に耐え、
 それまでの妖力を失うというリスクを犯してまで、邪眼を手に入れたのだ」
「そんな……そのために……?」

動揺を隠せない雪菜に、時雨は静かに言い放った。

「不思議なことではないだろう。ヤツは忌み子。
 復讐のために故郷を捜すのは、至極当然のことではないか」
「…!」

反論しようとする雪菜を、時雨は視線で制した。

「結果的にはそうしなかっただけのこと。
 血の気の多いヤツを知る拙者としては、復讐しなかったことの方が不思議なくらいだ」
「……」
「ともかく、拙者はヤツに邪眼の移植を施した。
 そして、手術代として、ヤツの人生の一部を頂いた」
「人生の…一部…?」
「“妹を見つけても兄と名乗らないこと”」
「!!」
「それが、飛影に支払わせた手術代だ」
「……そんな…」
「ヤツは律儀にも、今でもそれを守っておる。
 まぁ、そもそも、初めから名乗るつもりはないとは言っていたがな」

雪菜は、口元を手で覆った。
あまりの真実に、手が震えた。

聞いたことがなかった。
邪眼の移植のことも、捜しもののことも、手術代のことも。
こんなこと知らなった。
知りもしないで、名乗り出てくれないことを、恨みさえした。
本当は、大きな覚悟を持って捜してくれていたのに。

「御主に会ったときは、誠驚いた。ヤツの捜しものをこうして目にするときが来るとは…」
「……」
「恨むなら拙者を恨むがいい。兄に非はない」
「…!」

その言葉に、雪菜は顔を上げて時雨を見た。

「……さっき、手術代は返してくださると仰いましたね。なぜですか?」
「拙者に勝てば手術代は返す。そう言って、再会したときヤツと戦い、結果は相討ちだった」
「……」
「拙者はヤツに勝てなかったのだ」

時雨は薄く笑みを浮かべながら言った。

「勝てなければ、それは負けも同じ。それだけのこと」
「…!」
「ヤツの手術代、妹君から返しておいてくれ」
「……はい。ありがとうございます」

そう言って、雪菜は頭を下げた。

「あの、飛影さんは今どこに…?」
「さぁ…拙者にはヤツのことは解らんが…蔵馬たちのいる控えの間か、百足の上ではないか」
「わかりました。ありがとうございます」

雪菜は再び頭を下げて、医療室を出ようとした。
しかし、思い留まったかのように、戸口で足を止めた。

「時雨さん…私、あなたのこと恨んでません」
「…!」
「飛影さんのこと、教えてくださってありがとうございました」

再び頭を下げて、雪菜は時雨の視界から消えた。
何とも似ていない兄妹だと、時雨は苦笑を漏らした。

「通りでヤツが手を焼くわけだ」

誰もいなくなった医療室で、時雨はそう独り言ちた。





手術代として飛影から頂いた人生の一部。
金銭に代わる代価なのだから、当然重いものでなければ意味がない。
彼の人生を大きく揺さぶるような重いものでなければ。

正直、当時の飛影に妹への愛情があったとは、時雨には考えられなかった。
愛などとは無縁で、むしろ復讐の方が似合う男だった。

しかし、だからこそ、妹に兄と名乗らないことという条件にした。
彼のような男が妹への愛情を認識したとき、それは、とてつもなく重い条件になると思ったからだ。
これほど残酷で、これほど面白いものはないと思った。

もちろん、妹に執着を見せず、ましてや殺してしまう可能性だってあった。
だが、それならそれで構わなかった。
どちらに転ぶかわからない。
人生の一部だなんて、そんなものだ。

そして、時雨は、そんな条件であろうと、飛影がそれを守るであろうことを確信していた。
決して義理堅い男なわけではない。
しかし、自分に厳しい男ではあった。
だから、まるで己への戒めであるかのように、条件を頑なに守り続けるだろうと。

その確信は案の定的中し、飛影は条件を守り続けた。
しかし、この手術代が別のものであったとしても、
彼は妹に名乗り出なかったであろうと、再会したときに時雨は思った。

初めから名乗るつもりはない。
手術前に言っていた彼の言葉は確かに真実だった。
しかし、それ以上に、捜し出した妹が、大切なものになりすぎたのだ。
彼の心を占めるほど大切に。


名乗り出るつもりはない。
そんなプライドよりも。

名乗り出れば傷つけるかもしれない。
そんな愛情が芽生えていた。


飛影の心は、とっくに変わっていた。
雪菜を見つけたあのときから。





名乗るつもりはないという最初に抱いた気持ち。
妹を見つけても兄とは名乗らないことという手術代。

捜しても見つからない妹。
妹の危機に初めて感じた焦り。
妹が受けた仕打ちへの怒り。
不甲斐ない自分への憤り。
直に言葉を交わした妹への途惑い。

積み重なっていく知らなかったはずの気持ち。
護りたいという想い。
傷つけたくないという迷い。
相応しくないという葛藤。



雪菜を捜しはじめてから、雪菜に出逢ってから、飛影の感情はめまぐるしく変化した。

様々な想いと様々な葛藤が、彼を苛んだ。





しかし、そんなものは、もう意味を持たなくなった。



彼女が、彼を見つけてしまったのだから。















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