15.

飛影の自室へと場所を移し、ふたりはソファに隣り合って座っていた。

簡素な部屋には、小さめのテーブルと、二人掛けのソファと、
ベッドくらいしか、主だった家具はなかった。

少しの沈黙のあと、口を開いたのは飛影だった。


「これを」

差し出されたその手には、淡く輝く氷泪石があった。

「お前が持っているべきものだ」
「…はい」
「…俺には、これがある」
「!」

そう言って、飛影は自分の首元に下げていた、もうひとつの氷泪石を取り出した。
同じように淡く輝く、儚く強い石。
この氷泪石こそが、ふたりが兄妹だという紛れもない証だった。

雪菜は自分の氷泪石を受け取り、その石を見つめた。

「…母は、なにを願ったのでしょうか」
「……」
「なぜ、私たちを生んだのでしょうか」


なぜ、男女の双子を生み落とそうと思ったのだろうか。
そんな前代未聞のことをやってのけようと思ったのだろうか。

けれど。
今なら、その答えが分かるような気がした。


「私たちに託された母の願いは何だったのか…ずっと考えていました」
「……」
「きっと、証明したかったんだと思います」
「…証明?」

怪訝そうな顔の飛影に、雪菜は微笑みを返した。

「“忌み子”なんていない」
「!」
「男児だって、誰かを大切にして、愛することができる」
「……」
「…それを証明したかったんだと思います」


忌み嫌われて生まれ落ちる命なんてない。

母が解きたかったのは、祖国の呪縛。
哀しい国の愚かな伝統。

だから、我が子に託したのだろう。
願いを。想いを。


雪菜は嬉しそうに笑いながら、飛影に告げた。

「私は、あなたに愛されるために生まれてきたんだと思います」
「!」

こともなげに、そう言ってのける妹に、飛影は不思議と納得した。

「……そうだな」


妹という存在がいなければ、誰かを愛したりしただろうか。
こんなにも、大切に想ったりしただろうか。
失いたくないと、思ったりしただろうか。

きっと、ひとりで生まれていれば、その名のとおり“忌み子”のままだっただろう。
残忍な心のままだったかもしれない。


もちろん、今となっては氷菜の想いなど知ることはできない。
ただの幻想かもしれない。

けれど、自然と納得している自分がいた。





たくさんの葛藤と。
たくさんの後悔と。
たくさんの逡巡を繰り返して。

ようやく辿り着いた。


今だって、自信なんて少しもない。
相応しくないと思うときもある。

けれど、もうお互いの想いを知っているから。
逃げないと決めたから。


素直になれれば、こんなにも、近い場所にいられる。





速度を緩めて進んでいた百足も、もうじき人間界との時空の扉へと辿り着こうとしていた。

もうすぐ、別れの時間がやってくる。





「あ、…あの……っ」

雪菜は何か意を決したように、飛影を見た。

「…あの、ですね……」
「…どうした?」
「……兄さん」
「!」
「……って、呼んでも、いいですか…?」
「……」
「………だめ、ですか…?」
「…いや……だめじゃないが……」
「…じゃぁ、いいですか…?」
「………あぁ。…だが、あまり…」
「……?」
「…いや…」

あまり人前では呼ぶな、そう言いかけて、飛影はやめた。

人前でそう呼ばれれば、何かからかわれるような気がするし、何より恥ずかしいと思った。
だが、それも慣れるしかないのだ。

兄妹であることは、もう隠す必要などないのだから。
そして、兄であることで、雪菜を護っていこうと決めたのだから。

「…まだ慣れないかもしれないが…」
「…そうですよね」
「…慣れるよう努力する」

その言葉に、雪菜はまた嬉しそうに笑った。
この笑顔を見ると、もうなんでも良い気がしてくるから不思議だ。





「雪菜」
「はい」
「今まですまなかった」
「そんな…! 飛影さんが謝ることじゃないです…!」

否定する雪菜に、飛影は首を振った。

「俺は…お前を守ることも大事にすることにも、自信がなかった」
「……」
「だが、もう逃げるのはやめた」
「……」
「お前のことは必ず護る。何かあっても必ず助け出す」
「…!」
「だから、もう危険なことはしないでくれ」
「…はい」

飛影の言葉に、雪菜は何度も頷き返した。
嬉しくて、また泣いてしまいそうだった。





あの苦しい過去から、こんな未来が待っているなんて、きっと想像できなかっただろう。
殺伐とした殺風景な日々を、ただ送っていくだけだと思っていた。
それが、こんなにも変わるだなんて。


大切にすることは、決して簡単なことではない。
この先、傷つけることも、すれ違うこともあるかもしれない。

でも、それでも、もう大丈夫だと思える確かなものが、ふたりの間には生まれている気がした。





「…あ」
「?」

雪菜が何かに気づいたように、口を開いた。

「私もまだ慣れてないみたいです」
「…?」
「兄さんって呼ぶの」

そう言ってくすくす笑う雪菜に、飛影はやはり気恥ずかしくなってきたのか、
その頭をくしゃりと撫でた。






「みなさん、本当にありがとうございました。お世話になりました」

そう言って、雪菜は、躯軍の面々に深々と頭を下げた。
こんなにも大事になってしまった上に、二度も助けられて、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
だが、当の躯は、面白いものが見れたから良いと、むしろ楽しんでいる様子だった。


「…あとは頼んだぞ」
「ホントに人間界まで見送りに来ねぇーのか?」
「潰れ顔に会いたくない」

真顔でそう返す飛影に、幽助は苦笑を返すしかなかった。

おそらく、飛影が兄であることは、雪菜の口から桑原に伝わるであろう。
その瞬間に、居合わせたくないのだ。


それに、見送りに行けば、もっと別れがたくなる。
今生の別れじゃあるまいし、このタイミングが、良い別れ際だと思った。


飛影がそんなことを考えていると、躯たちに挨拶を終えた雪菜と目が合った。
雪菜がこちらの方を向き、微笑みかけた。

「…では、お元気で」
「あぁ。…お前もな」
「また、会いに来てもいいですか?」

その問いに、飛影はわずかに眉を顰める。

「…だめだ。……俺がそっちに行く」
「…!」
「何かあれば呼べ。遠慮はいらん」
「…はい!」

ぶっきらぼうな物言いだったが、雪菜にはその優しさが十分伝わっていた。

きっと何をしているときだって、呼べば本当に来てくれるのだろう。
そう信じることができた。





雪菜は微笑みと会釈を返して、人間界へのトンネルへと消えていった。

飛影は、その姿が見えなくなっても、しばらく見送り続けていた。





心は変わる。

本当に、その通りだ。

あれだけ固い決意をしたはずだったのに、また新たな決意へと変わっていく。
ただ、ずっと変わらないことは、何があっても護るということ。
護り方が変わった、ただそれだけのことだ。



飛影は静かに躯へと振り返った。

「手合わせ願いたい」
「なんだ、唐突に」
「どうやら約束を果たせそうにないからな」

その言葉に、躯は予想通りの展開だとでもいうかのような顔をした。

約束とは、消息不明になった雪菜捜索に、百足を貸す代わりに差し出した条件。
その条件とは、“次回のトーナメントに出場しないこと”だった。

「…ほう。オレとの約束を反故にするなんぞ、いい度胸だ」
「もっと名をあげなきゃならん理由ができたからな」
「いいだろう。力づくで撤回させてみろ」
「…あぁ。そのつもりだ」



強くなる必要がある。

この強さで、この名で、雪菜を護ると決めたから。



もう迷いはしない。










人間界の空は、少しずつ白み始めていて、もうすぐ夜が明けようとしていた。
たった数日の出来事だったのに、もうずいぶん帰っていなかったように雪菜は思った。

2階の一室が崩れ落ちた桑原の家は、まだ完全に元通りとは言えなかったが、
ある程度の修復作業が行われていた。

幽助たちに付き添われて家についた雪菜は、
桑原家の前に立ち止まり、その家をしばらく見つめていた。
ともすると、家の中から慌ただしい音が聞こえてくる。
雪菜たちの妖気を感じ取った桑原が、どうやら階段から転げ落ちたらしい音だった。

「これはまた…ずいぶん騒々しい出迎えですね」
「そりゃ最愛の人が帰ってきたんだからねー」

蔵馬とぼたんが苦笑していると、勢いよく玄関の扉が開いた。

「雪菜さんっ!!!!」
「和真さん、大丈夫ですか?」

桑原の頭のこぶを見ながら、雪菜が心配そうな顔をした。

「こんなものはかすり傷です! それより! 雪菜さん…! 無事で…よかった……」

安堵のあまり力が抜けたのか、最後の方はいつもの勢いはなく、
ただただ無事を噛みしめるかのような小さな声だった。

「心配かけてごめんなさい」
「怪我はないですか? どこか痛いところは??」
「ないです、大丈夫…! 私は元気です」

安心させようと、雪菜は桑原に微笑みかけた。
その微笑みは、どこか吹っ切れたようなすっきりとした顔に見えて、
桑原は自然と安堵することができた。

「雪菜ちゃん! 帰ってきたんだね!」

静流と桑原父も、桑原のどたばたで目を覚ましたのか、玄関へと降りてきた。
そして、雪菜の姿を見て、安堵の息を吐いた。

「静流さん、おじさま…!」
「よかった、帰ってきてくれて…」
「ごめんなさい。おうち、めちゃくちゃになってしまって…」
「いいんだ、そんなこと気にする必要ないさ。君が無事ならそれでいい」
「そうよ! 家なんてどうとでもなるんだから!」
「…はい…!」

桑原父や静流とやり取りしながら、
あぁ、帰る場所があるってこういうことなのかと雪菜は改めて思った。

そして、あることに気づく。

「あ…まだ、大事なことを言ってませんでした」
「え? なんですか??」

怪訝そうな桑原家の面々に、雪菜は少し照れくさそうな顔をした。

「ただいま…です」
「!」

笑顔でそう言う雪菜に、桑原たちも嬉しそうに口々に「おかえり」と返した。



そう、ここが私の帰る場所。

だから、もう独りなんかじゃない。



「あのね、みなさんにご報告したいことがあるんです」



温かい場所を見つけられたから。















しくて。



いたくて。





いつもいつもそう願っていた。





これからも、ずっとずっとそう想っている。















14あとがき