1. 漆黒に塗り込められた夜の帳のなか、躍動する影がひとつ。 暗灰色の衣を頭から足先まで纏ったその男の口元は、怪しげな笑みで歪んでいた。 「ああ、なんともおいたわしい…」 乾いた唇から、掠れた声が零れ落ちる。 長い間、魔界の奥深くにいたせいで、気づくのがこんなにも遅くなってしまった。 「あんなお姿になり果てて、なんということだ…」 男は嘆きの声を洩らしながら、悲痛に顔を歪ませる。 決意を込めるかのように、己の拳を握り締めた。 「私めが必ずお救いしてみせますぞ…!」 眼光が鋭く煌めく。 その顔は、もはや狂気が宿っているかのようだった。 魔界の奥底で濃い瘴気を浴び続けたせいで、 敬愛の念が、歪なものに成り果てていることなど、 この男自身さえ、気づいてはいなかった。 * 土曜日の昼下がり。 雪菜は幻海の道場の掃除に来ていた。 誰が管理するかは明確には決まっていなかったが、 もともと住んでいたこともあって、雪菜は定期的に訪れるようにしていた。 午前中に始めた掃除はひと段落し、今は、縁側でお茶を飲みながら休憩していた。 近隣の山々は、すべて幻海の遺産で、生前の遺言のとおり、 妖怪たちの棲み処として解放されていた。 道場まで来て居座るような妖怪は滅多にいないが、 付近の山道や山で、見知らぬ妖怪を目にすることはよくあることだった。 大抵が力の弱い小さな妖怪たちだったが、時折力のある妖怪も身を寄せることがあり、 彼らは一応「人間界に迷惑をかけないこと」という大統領の言葉に従ってか、 人里から離れた山の奥深くで寝泊りをしているようだった。 どれほど力のある者がいるか分からないため、 蔵馬からは山奥には行かないようにと念を押されている。 「雪娘様!」 ふと、足元から声が聞こえて、雪菜はそちらに視線を向けた。 兎のように長い耳をした小さな妖怪が、こちらを見上げている。 付近の山に住んでいる人の形を持たない低級の妖怪で、 幻海の道場に出入りする者たちにとっては、もはや顔なじみだった。 「まぁ、藍兎(らんと)、どうしたの?」 「それが、隣の山に、行き倒れた妖怪がおりまして」 「え…?」 「魔界から来て、力尽きたのかもしれません。 どうにかしてやりたいのですが、私では力及ばずで…」 長い耳をしゅんとさせながら、藍兎が話す。 その言葉に、雪菜も眉根を寄せた。 「それは大変だわ。案内してくれる?」 雪菜がそう申し出ると、藍兎は協力してもらえることを喜んで、ぱっと明るい顔に変わった。 先導する藍兎の後に付いて、雪菜は隣の山へと駆けて行った。 木々の間を通り抜け、草をかき分けて進んでいくうちに、随分と奥へ入ってしまった気がする。 さすがに、これ以上奥へ行くには、蔵馬や幽助に連絡した方が良いかと思い始めたころ、 朽ちかけた切り株に、倒れ込むように蹲る人影を見つけた。 「雪娘様、この者です!」 無事に案内を果たせた藍兎は、ぴょんぴょんと飛び跳ねて、雪菜に呼びかけた。 雪菜は藍兎に頷き返して、蹲る人影を伺い見る。 人の形をとっているのだから、当然、低級妖怪ではない。 だからといって、威圧されるほどの妖気を雪菜は感じなかった。 それに、もし何か起きたとしても、蔵馬にもらった庇護の証が役に立つだろうと思った。 よっぽどの潜りではない限り、彼の妖気を知らないものはいない。 「あの、大丈夫ですか?」 恐る恐る雪菜が声を掛ける。 返答はなかった。 少し近づいて、様子を見ようとしたそのとき。 人影が動いた。 切り株に突っ伏していた頭を上げたその人影は、暗灰色の衣を纏っていた。 衣の裾から見え隠れする指は、細く皺枯れているように見えた。 老人だろうか。雪菜がそう思いながら一歩近づくと、その顔がこちらを向いた。 「…あぁ、それは、懐かしい妖気」 「え…?」 「なんとも気高い美しい妖気だ」 「あの…大丈夫ですか? どこかお怪我でも…」 言いかけて、雪菜は急にぞっとした。 皺枯れた老人の顔には不釣り合いなほどの、鋭い眼光。 蛇のような視線に絡めとられ、雪菜は身動きが出来なくなった。 「何故お前がそれを身に着けているのだ!!」 咆哮のような声に身を竦ませた瞬間、雪菜の記憶は途切れていた。 小さな優しい善意は、いとも簡単に踏み躙られてしまった。 * 「蔵馬の旦那! 大変ですぜっ!!」 「どうした」 突然の来訪者に、蔵馬は読みかけの本を置いた。 高層マンションのベランダから訪ねてきたその妖怪は、馴染みの情報屋だった。 遠目には毛玉にも見えるその風貌は、近くで見ると30センチほどあり、 毛玉と言い張るには無理のある大きさだった。おまけに洒落た三角帽子まで被っている。 人の形を取らないとはいえ、それなりに妖力のある妖怪で、普通の人間にもその姿は見えていた。 一度母親にこの姿を見られたことがあり、学校で流行っているぬいぐるみだと 苦しい言い訳をした苦い思い出がある。 その情報屋が、切羽詰まった様子なのだから、ただ事ではないのだろうと蔵馬は身構えた。 「雪娘のお嬢さんが攫われやした!」 「なんだと…!?」 「幻海のばーさまの山でかどわかされたと、藍兎が泣いとりました」 あの耳の長い小さな妖怪か、と蔵馬は藍兎の姿を思い出す。 雪菜に懐いている妖怪のうちの一匹だ。 蔵馬は情報屋に詳しい状況を訪ねたが、あまり有用な情報は得られなかった。 とりあえず、攫われた場所は分かったため、急いでそこに向かうことにする。 「お前は幽助にこのことを伝えてくれ! あと、魔界へも通報を!」 蔵馬の言葉に、情報屋は頷いて、すぐにベランダから姿を消した。 魔界への通報は、一応の予防線だ。 この場合、誘拐されたのは妖怪なのだから、人間界へ迷惑をかけないこと というルールには当て嵌まらないようにも見えるが、 雪菜は霊界の保護下に置かれている身のため、特例となるのであった。 * バチッと弾けるような音が聴こえて、雪菜は目を覚ました。 冷たい床板の上に横たえられ、縛られた手足の上から呪符が巻かれている。 耳に届いた破裂音は、呪符から聴こえていた。 バチバチと電流のように、妖力を封じ込めようとする力が流れている。 垂金邸で使われていたものより、ずっと呪詛の力が強い。 だが、これくらいなら耐えられると雪菜は思った。 身を起して辺りを見回すと、古ぼけた山小屋の中のようだった。 5月とはいえ、山奥は冷え冷えとした空気が漂っていた。 薄暗い小屋の中には、窓からの明かりだけが差し込んでいる。 人影は見えず、暗灰色の男はここにはいないようだった。 逃げなければ。 雪菜はそう思って、なんとか立ち上がろうとする。 そのとき、山小屋の扉が開く音がした。 扉の隙間から光が差し込んで、一瞬目が眩む。 すぐ暗闇へと戻ったかと思うと、嗄れた声が聞こえてきた。 「呪符で縛られても尚動けるとは、意外なことよの」 静かだが不気味な声に、雪菜は鳥肌が立つのを感じた。 囚われたこの状況に、ただでさえ息が詰まりそうなのに、 目の前の男の鋭い眼光と歪んだ口元が、さらに雪菜の恐怖を増幅させた。 「小娘」 「……」 「それはお前には相応しくはない」 「…?」 それが何かわからず、雪菜は内心で小首を傾げる。 男は構わずに続けた。 「あのお方の美しく気高い妖気…なんと懐かしいことか」 「……」 「なのに、このような小娘に庇護を授けるなど、なんとも愚かしいことを…!」 庇護と言われて、雪菜ははっとした。 雪菜が左の手首に付けている、細いシルバーのバングル型のブレスレッド。 男はこのブレスレッドに宿る妖気のことを言っている。 つまり、「あのお方」とは、蔵馬のことを指している。 「あんなお姿に成り果てたせいだ…。必ずやお救いしますぞ…!」 「……あなたは」 口を開いた雪菜に、男は鋭い視線を向ける。 一瞬雪菜は怯んだが、なんとか続きの言葉を紡いだ。 「蔵馬さんのお知り合いですか…?」 「お前が気安くお呼びして良い方ではないぞ!」 ぴしゃりと言い放たれて、雪菜はびくりとする。 名を呼んだ、ただそれだけで、男の狂気に触れてしまったようだった。 「ああ、忌々しい! 小娘の分際で!」 言い放たれた言葉とともに、男の不気味な細い右手が、雪菜の左頬を打った。 細くとも力の衰えていない男の平手の衝撃で、雪菜の身体が床へと倒れる。 蹲るその細い身体を、男が蹴りつける。 何度も腹を蹴られ、青ざめた唇から小さな呻き声が漏れた。 口内に血の味が広がる。 暴力には慣れている。雪菜は耐える方法を知っていた。 けれど、狂気のその目が、恐ろしくてたまらなかった。 「泣くどころか悲鳴も上げぬとは、つまらぬ小娘だ」 狂気が収まったのか、男は雪菜を蹴りつけるのをやめて、そう言い捨てた。 雪菜はせき込みながら、ゆっくりと目線を男に向ける。 冷然と見下ろすその視線に、侮蔑の感情が込められているようだった。 じわじわと絶望感が雪菜の心を侵食し始める。 この男の態度から見て、氷泪石が目的ではないことはわかる。 だから、囚われて苦痛を与えられ続けるわけではないのだろう。 ただの人質。それを頭で理解していても、 甦る過去の記憶が、抗えない恐怖として押し寄せてくる。 そこまで考えて、雪菜ははっと気づいた。 わたしは、彼の弱点として使われるのか。 そんなことは耐えられない。 この男がどのような思惑を持っているかは知らないが、捕まったのは自分の落ち度だ。 恐怖に支配されている場合ではない。 逃げなければ。 雪菜が決意して顔を上げた瞬間。 見知った妖気を纏った人物が戸口に現れた。 ああ、来てくれた。来てしまった。 戻/2 |