2.

情報屋から聞いた話では、幻海の道場の隣の山で、
行き倒れた男を助けようとして、雪菜はその男に捕まったということだった。
急いでその現場へと向かうと、そこからいとも簡単に、
雪菜と彼女が身に付けている己の妖気を辿ることができた。
隠す気は微塵もないのだろう。
思慮に欠ける短絡な犯行か、それともこちらを貶めようとする罠か。
判断はつかなかったが、迷っている暇はなかった。

妖気を辿って行き着いたのは、山の頂上近くにある朽ちかけた山小屋。
人間が寄り付くことも手入れをすることもなく、
もっぱら妖怪の一時的な棲家として使われているようだった。

中から感じる雪菜の妖気と、見知らぬ妖気がもうひとつ。
小さな窓から様子を窺い見ると、床に突っ伏している少女の姿と、
それを見下ろす男の姿があった。
暗灰色の衣を纏った男の顔は見えなかったが、
只事ではない空気が、眼下の少女を威圧しているのがわかった。

その少女が、顔を上げる。見えた右顔。
その右目に、何か決意の光がよぎっているのが見えた。
その意味を理解した刹那、蔵馬は正面の扉を開け放った。

「彼女を返してもらおうか」

冷厳と放たれた言葉に、男は蔵馬に背を向けたまま、喜々とした笑みを浮かべる。
バチバチと呪符が妖気を封じ込めている音が微かに響く。
蔵馬が突入したのと同時に、雪菜は身を起こしたが、
男の姿と重なって、その顔は蔵馬には見えなかった。
だが、その妖気が怯えているのがわかる。

「お待ち致しておりました」

低く細い嗄れた声を発して、男がゆっくりと振り返る。
身構えた蔵馬を見やって、男は暗灰色の衣のフードを取った。
現れた顔は、皺が刻まれた老齢の男だった。
頭部には左右に2本ずつの角が生えており、灰色のペタリとした髪が肩まで伸びていた。
眼光だけが異様に鋭く、不気味な印象を放っている。

「お久しゅうございます。蔵馬様」
「お前は……」

知り合いだったことに内心で驚いて、蔵馬は古い記憶を瞬時に辿る。
黄泉との盗賊時代まで遡って、はたと気づいた。

「……穹鬼(きゅうき)か」
「覚えていらっしゃいましたか! 光栄至極にございます…!」

喜ぶ穹鬼に、蔵馬は訝しげな視線を送る。
昔の盗賊仲間が、今更なんの用があるというのか。
恨みでも買っただろうか。
だとしても、なぜ今頃になってそれを晴らそうというのか。

それに、この男はどちらかというと従順で、
共に盗賊をやっていた頃は、楯突くようなことは一度もなかった。
妖術を操るのが得意で、財宝に張られた結界を解除するのに、この男の力を重宝していた。

「……歳を取ったな」
「もう千年も経ちますゆえ。私めのような下賤のものは、そう長くは生きられますまい」
「そのお前が、俺になんの用だ」
「貴方様をお救いに参りました」
「なんだと…?」

眉を顰めた蔵馬に、穹鬼は口元を歪めた。
これがこの男の笑い方だったことを、蔵馬はぼんやりと思い出した。

「私めは長い間、魔界の奥深くに潜ってございました。
 三竦みの争いも、トーナメントなるものを知ったのも、つい最近のことにございます」
「……」
「ですから、貴方様のそのおいたわしい御姿を知ったのも、つい最近なのでございます」

余計なことを。
蔵馬は内心で毒づいた。
とどのつまり、人間の姿が気に入らないと言いたいのだろう。

蔵馬は穹鬼と話しながら、雪菜を救う手立てを考えていたが、
穹鬼はまったく隙を見せなかった。
体術よりも妖術が得意なこの男を不用意に刺激して、
雪菜を危険な目に遭わせるわけにはいかない。

穹鬼の身体に隠れて、彼女の顔が見えない。
そのことが蔵馬の不安を募らせた。

「貴方様の本来の御姿は、銀の御髪の美しい妖狐。
 このような卑しい人間の姿ではないはずでございます」
「……」
「如何様な不幸にて、人間なぞの姿に封じられたかは存じませぬが、
 なんたる屈辱であったことでしょうか…!
 私めの力で、その人間の仮の器を破壊して差し上げましょう」
「…お前は何か勘違いしている」

穹鬼の言葉に、蔵馬は呆れたように溜め息を吐く。

「俺は自ら望んでこの姿をしている。お前に救ってもらう必要はない」
「お戯れを。貴方様はそのお姿になって、零落されたのです」
「……随分な言い方だな」
「人間の御姿に成り下がり、思考まで愚かな人間のように成り果てなさった。
 なんと嘆かわしい…」
「……」
「ですから、このような小娘如きに庇護をお与えになる愚行をなさったのでしょう…!」
「!」

穹鬼が身を逸らし、後ろにいた少女を指さす。
枯れ枝のような人差し指の先に、座り込んでいる雪菜の姿。
手足に呪符を巻かれた彼女の左頬が、赤く腫れていた。
引き結ばれた唇からは血が滴っている。
怯えた深紅の瞳が、蔵馬を見つめていた。

蔵馬の思考がブラックアウトする。
先ほど窓から覗いたときは、右側しか見えなかったから気づけなかった。
もう既に、危害を加えられた後だった。

「貴方様の庇護は、我らが仲間の証…! これがどれほど尊くて、名誉なものか!
 決して、小娘如きが手にして良いものではございませぬ!」
「……お前は、余程俺を怒らせたいらしいな」

静かに響く低い声。
その声色は、先ほどまでの柔和さを含んだものとは、明らかに異なるものだった。
それを知覚した瞬間、禍々しいほどの妖気が辺りを包んだ。
目が眩むほどの妖気の渦を全身に浴び、溜まらず瞬きをした瞬間、
目の前にいたのは、銀髪の妖狐だった。
その姿を認めて、穹鬼は恐怖に慄くどころか悦びの笑みを浮かべた。

「穹鬼よ、思い上がりもいい加減にしろ。お前はもう赦しはせんぞ」

ぴりぴりとした冷たい空気が、肌を刺すようだった。
突然現れた巨大な妖気に、辺りにいた動物や妖怪たちがいっせいに逃げ出す程だった。
雪菜でさえ、その妖力に息を飲む。
暗黒武術会で見たときとは比べ物にならないほど、その妖力はさらに力を増していた。

「おお、おお…! やっとお目に掛かれました…!
 これこそが、貴方様の本来の高貴な御姿!」

狂気に支配された穹鬼には、もはや妖狐蔵馬の圧倒的な妖力でさえ通用しない。
少しも怯みはしなかった。

「その御姿を、永久に取り戻して差し上げますぞ」
「…黙れ。お前の指図など受けない。彼女を解放しろ」
「それはなりませぬ。御姿を取り戻していただかなければ、
 小娘の手足を呪符で焼き切るまででございます」
「俺を脅すのか? その崇拝の念とやらはどこへいった」
「貴方様はまだ零落していらっしゃる!
 本来の貴方様であれば、かような小娘ひとり気に掛けますまい。
 聡明なご判断をされるはずでございます。黄泉めを切り捨てなさったように」
「…!」

穹鬼が鋭い眼光を蔵馬に向ける。
よもや交渉などできる相手ではない。
駆け引きや取り引きなど、この男には通じないのだ。
ただ、過去に崇めた絶大なる指導者の姿を取り戻すことのみが、この男の望みであった。

この男の命を奪おうと動けば、呪詛が発動するのだろう。
そうなれば、呪符の力が強まり、雪菜の手足が切り離される。
そんなことは許容できない。

「…俺がお前に従えば、彼女のことは解放するか」
「もちろんでございます。小娘などどうでもよろしい。
 私めには、貴方様の名誉の回復のみが目的にございます」

人間になったことで、名誉を傷つけた覚えなどない。
だが、蔵馬は反論はしなかった。
穹鬼には何を言っても通用しないと理解したからだ。

人間として生きることを選んだ理由など、この男には、きっとわかりはしないのだろう。
落ちぶれたのだと、それ故に愚かな思考になったのだと罵られるだけだ。
愚直にも昔の頭領を妄信し続ける男に、何も言葉は通じないのだと蔵馬は悟った。

「小娘への庇護を捨て、人間の仮の器も捨てていただきます」
「それだけか」
「それだけでございます」
「その後は」
「貴方様の御意のままに」

お前を殺しても恨まないわけか、蔵馬が内心で呟く。
穹鬼の忠誠心は、一体いつ、ここまで歪んでしまったのだろうか。
魔界の奥深くにいたせいで、瘴気にやられてしまったか。

蔵馬は雪菜に視線を移す。
何か言いたげな雪菜を制するように、蔵馬は短く言葉を紡ぐ。
呪文のようなそれは、雪菜の左手首の呪符の隙間から見え隠れするブレスレッドを破壊した。
シルバーが溶けてねじ切れ、床へと落ちる。
落ちた庇護の証を、雪菜は無言で見つめた。

「それで? 人間の仮の器を捨てるとやらはどうやる」
「それは私めにお任せください。私めの呪詛が役に立ちまする」
「呪詛だと? 俺に呪詛を掛ける気か」
「左様にございます。融合なされたその御身体は、そう簡単には引き離せますまい。
 ですが、強力な呪詛を掛ければ、それを浄化するのに莫大な妖力を要します。
 その御身体で妖力を使えば使うほど、人間の生命力は削られましょう」
「…!」
「つまり、私めの呪詛は、貴方様には耐えられる。けれど人間には耐えられぬ」

妖狐に変化するたびに、秀一の生命力は削られている。
変化する瞬間に、膨大な妖力を必要とするからだ。
その妖力を人間の姿である秀一が内側からまともに食らっては、
いつかは朽ちていくのは当然のことだった。

その生命力の消費を、呪詛を掛けて強制的に行おうというのである。
穹鬼の思惑が成功すれば、高い確率で秀一の肉体は消える。
もう戻れなくなる。

もう、家族には会えなくなる。

蔵馬は瞳を閉じる。
一瞬のうちによぎる母親の姿。義父と義弟の姿。
いつかはそうなることを覚悟していた。
秀一の姿を失い、姿を消す日が来ることはわかっていた。
けれど、まだ、いつかだと思っていた。

選択肢などない。
迷っている暇もない。

再びその金色の瞳を開いたとき、蔵馬の心は決まっていた。



*



雪菜はただ茫然と、壊れたブレスレッドを見つめていた。
護ると言って、腕に付けてくれたのが嬉しかった。
心配して気にかけてくれる。ただそれだけで嬉しかったのだ。

たくさんの優しさに、応えたいのに。
こんな風に足手まといになりたいわけじゃないのに。

「だめです…っ…! そんなこと…!」

絞りだした声は、掠れていた。
咳込みながら、雪菜は蔵馬を見つめる。

雪菜の声を久しぶりに聞いた気がして、蔵馬はその声に安堵するが、
それも一瞬のことで、話しづらそうに咳込む彼女の呼吸があまりにも不自然で、
内臓のどこかもやられたのだろうと理解した。

「そんなことをしたら、もう二度と会えなくなります…!」
「黙らぬか小娘! それに、心配には及ばぬことだ。蔵馬様ご自身は消えてなくなりはせぬ」
「そういうことじゃっ…!」

反論しかけて、しかし言葉が続かなかった。
咳込んで、喉の奥からせり上がった血の塊が、口から零れ出る。
その光景に、蔵馬は思わず息を飲む。
いくら彼女の自己回復力が高いと言っても、早く治療して休ませてやる必要がある。
第一、こんな痛ましい姿は、もう見ていられない。

「…わたしは、大丈夫」
「……」
「だから、だめです」
「……」
「痛みになら、耐えられますから」

でも、と雪菜は言葉を絞り出す。
恐怖の中にいても尚、その瞳は強さを失ってはいなかった。

「あなたの弱点として利用されるのは、耐えられない」

蔵馬は雪菜を見つめ返す。
傷ついた姿で、ただこちらを見上げている。
曇りない瞳が、頑なな意思を伝えていた。

蔵馬はそっと息を吐く。
こんなときでさえ、愛おしさが込み上げる。

彼女の言葉が逆に、蔵馬の決意を固くした。

「…ありがとう。でも、いいんだ」
「…! だめ…!」
「穹鬼。彼女の呪詛を解け」
「貴方様の呪詛が先にございます」
「今さら、俺が反故にするとでも思うのか」
「小娘が何かするやもしれませぬ」

穹鬼の言葉に、蔵馬は静かに溜め息を吐く。
些細な問答さえも面倒になって、蔵馬は諦めたように頷いた。

「では、先に俺に掛けろ」
「蔵馬さん! だめですっ!」
「うるさい小娘だ! 静かにしておれ!」
「うっ…!」

ぴしゃりと穹鬼が言葉とともに、雪菜の頭に手刀を浴びせる。
その反動で、雪菜はよろめいたが、辛うじて倒れはしなかった。
蔵馬が鋭い視線を穹鬼に向ける。

「やめろ」
「ですが」
「人質は無事でこそ意味がある。忘れたか」
「…いいえ」

今までで一番冷たい声だった。
怒りが多いほど、彼は冷たさを増す。
そのことを穹鬼は理解していた。
いくら狂気で感覚が麻痺していようが、
ぞくりと背筋が凍えるのを感じずにいられなかった。

「…さっさと始めろ」

穹鬼は頷き、呪文の詠唱を始める。
雪菜はただふたりを見つめることしかできなかった。
殴られた頭ががんがんと鳴り響いて、言葉を発することさえできない。

蔵馬に襲い掛かる暗黒の力。
黒い妖術が銀髪の髪にまとわりついて、全身を覆っていく。
蔵馬ほどの妖力の持ち主なら、呪詛返しも可能だろう。
だが、そうしないのは、当然ながら雪菜の呪詛が解かれていないからだ。

長い間、魔界の深部の瘴気を浴び続けた穹鬼の妖気は、
禍々しいオーラを纏い、蔵馬の身体を侵食した。
穹鬼の心を歪ませたように、怪しい揺らめきを持つその妖気もまた、
歪んだ怨念のように蔵馬にまとわりついた。
苦痛に耐えきれずに、蔵馬が片膝をつく。
だが、意識が朦朧とし始めても尚、目的を忘れてはいなかった。

「…もう、いいだろう。彼女の呪詛を解け…!」

蔵馬の声が、苦しい呼吸とともに吐き出される。
穹鬼は、かつての頭領を見下ろして、仰々しく頭を下げた。
後方を振り仰いで、雪菜に向かって解呪の呪文を唱える。
雪菜を拘束していた呪符が、弾かれたように地に落ちた。
雪菜の両手足の自由を見届けたその刹那。

穹鬼の頭と胸は、刃のような茨の棘に貫かれていた。
床から生えたそれは、召喚された魔界の植物だった。

「……俺を怒らせて、無事でいられると思うな」

蔵馬が吐き捨てる。
だが、その言葉が穹鬼に届くことはなかった。
口元に怪しい笑みを浮かべたまま、穹鬼は絶命していた。

蔵馬は雪菜に視線を向ける。
泣きそうな瞳がこちらを見ていた。
駆け寄りたいのに、お互い動くことすらままならない。

ごめん、と唇が形どったのを最後に、蔵馬は意識を手離した。










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