3.

幽助が現場に駆け付けたときには、すべてのことが終わったあとだった。

情報屋から話を聞き、桑原や螢子などの知人に知らせ、
人間界にいるパトロール隊に報告を入れ、魔界の飛影に連絡をして、
そのあとすぐに幻海の山へ駆け付けたが、目の当たりにしたのは、
倒れる妖狐と蹲る雪菜の姿。
そして、絶命した見知らぬ暗灰色の衣の男の姿だった。

幽助より少しばかり遅れて到着したパトロール隊員とともに、
蔵馬と雪菜を幻海の道場へと運び出す。
絶命した男の処遇は、魔界と霊界の判断に任せることにした。

幽助が幻海の道場へ着くと、そこには既に、
桑原と螢子と静流、魔界から駆け付けた飛影、霊界の特防隊とぼたんがいた。

蔵馬と雪菜はそれぞれ別の部屋に寝かされ、治療を施されている。
といっても、蔵馬の治療には、何をしても効果がなく、
特防隊の治癒能力が役には立たなかった。

「…これは呪詛だな」

症状を見やって、飛影が呟く。
先ほど雪菜の姿を見たときは、血の気が引く思いがしたが、
幸い彼女は意識を保っており、少しだけだが会話もできていた。
あとのことはぼたんと特防隊に任せて、蔵馬の部屋へと来たのだった。

「厄介なものを受けたな」
「なんだよ、呪詛って!」
「いわば身体が蝕まれる呪いさ」
「! そんなんどうすりゃ…」
「妖気で浄化できる。その代わり、膨大な妖力を消費するがな」

妖力が枯渇するかもしれんな、と飛影が付け足す。
その言葉に、幽助たちは不吉な予感がした。

「妖力使い果たしたら、生命エネルギーも使っちまうんだろ?
 それってヤバイんじゃねぇ―の?」
「そういうことだが…たぶん、蔵馬なら耐えられる」

妖狐の姿で横たわる蔵馬を見やって、飛影は答えた。
蔵馬ほどの妖力の持ち主であれば、時間は掛かれど、受けた呪詛を浄化できるだろう。
ただ、人間の肉体がどうなるかまでは、飛影にもわからなかった。

「じゃぁ、つまり、放っておけばいいってことか…?」
「いやぁ、多少なりとも妖気送ってやった方がいいんじゃねぇーの?」

幽助と桑原が首を傾げる。
その時、廊下が慌ただしくなったかと思うと、襖が開いて、雪菜が姿を現した。
満身創痍のその身には、頭や手足に包帯を巻かれ、左頬にガーゼが貼られている。
ぼたんや螢子が止めようとしているが、雪菜は譲らない。

「だめです…! このままじゃ…蔵馬さんが消えちゃう……!」
「え!?」
「雪菜さん、どういうことですか!?」

雪菜はできるだけかいつまんで、穹鬼の目的を説明した。

「このまま呪詛の浄化を続けたら、人間としての蔵馬さんの生命力は削られて、
 消えてしまうかもしれません…」
「そんな…」
「だから……この呪詛は、わたしが引き受けます」
「……は!?」

雪菜の言葉に、一同が驚愕の視線を向けたのは言うまでもなかった。

「雪菜さん! 何言ってるんっスか!
 こんなにぼろぼろなのに、その上呪詛なんてもの受けたら…!」
「そうだよ! 今度は雪菜ちゃんが耐えられなくなるさね!」
「大丈夫です。わたしには呪詛の類には耐性がありますから…」
「…! でも、だからって…!」

止めようとする桑原やぼたんの言葉を制するように、雪菜は頭を振った。

「人間の姿を失ったら、蔵馬さんは二度と家族には会えなくなってしまいます…!」
「…!」
「そんなのはだめです。蔵馬さんから大事なものは奪えない…」
「雪菜さん…」
「わたしのせいなんです。わたしが、捕まったりなんかしたから……」
「そんな、雪菜ちゃんのせいなわけないよ! こんな酷いことしたヤツが悪いに決まってる…!」
「でも、こんなのはだめです……。
 わたしは、今まで蔵馬さんにたくさん助けられたんです。
 たくさん、優しさをもらったんです…。数えきれないほどの恩がある。
 だから、それを返したいんです……」

切実な雪菜の言葉に、誰も言い返せなくなった。
蔵馬の人間としての姿が消える。
それは、誰もが避けたい事態だった。

「話は理解したけどよ…その呪詛ってやつ、俺や飛影には移せねぇのか?」
「ごめんなさい、そこまでの力は……」

幽助の問いかけに、雪菜は首を横に振った。
幻海のもとで修業をした際、治癒能力のひとつとして、
毒や呪詛を身に移して浄化する治療法を体得したが、
それを別の者に移すことは、治癒能力の範囲を超えた妖術の類となる。
そこまでのことを幻海は教えなかったし、雪菜も得ようとは思わなかった。

それまで沈黙を保っていた飛影が、雪菜の肩を掴んだ。

「今のお前の身体では、到底耐えられん」
「でも…!」
「それでもやるつもりか」
「…やります」

飛影は黙って雪菜を見つめた。
今にも泣きだしそうな顔をしながらも、強い瞳がこちらを見つめ返していた。

本当は、雪菜にこれ以上無理をさせるわけにはいかない。
だが、飛影は諦めたように苦笑交じりの溜め息を零した。
妹が思った以上に頑固なのを知っていたからだ。

「……だったら、俺が妖気を送ってやる」
「!」
「それでなんとかしろ」

飛影の申し出に雪菜は驚いたが、すぐに安堵したような顔に変わった。



*



庇護の証は、彼女を護るために渡したはずだった。
傷つくことがないように。そう祈ったはずだった。

なのに。
その庇護をあたえる行為が、再び彼女を傷つけてしまった。

囚われて、縛られて、殴られ蹴られた。
二度と暴力にさらすまいと思っていたのに。
恐怖を呼び覚ましてしまったのだ。

なんて、愚かなのだろう。


蔵馬がぼんやりと瞳を開く。
視界に移るのは、見慣れた天井のように見えた。
しばらくぼーっとしていた思考が、徐々に鮮明になる。
そして、はっとして起き上がると、幻海の屋敷の一室にいることを理解した。

視界に入った指先が、想像していたものよりは、小さく細い。
髪に触れると、その色は赤みがかっていた。

「なぜ…」

思わず洩れた言葉は、妖狐のものではなかった。
呪詛をこの身に受けたはずなのに、秀一の姿をしている。
秀一の生命力が、穹鬼の力を上回ったのか。
それとも、この呪詛をなんとかできる人物がいたのだろうか。

それに、雪菜は。
彼女はどうなった。

慌てて布団から起き上がろうとして、ふいに襖が開く音がした。
姿を現したのは幽助だった。

「お、起きたか」
「幽助…。雪菜ちゃんは…!?」
「怪我は大丈夫だぜ。まだ寝てるけど、飛影が付き添ってる」
「飛影が? …そうですか、よかった」

蔵馬は幽助に状況を確認する。
今は日曜日の昼下がりで、あれから丸1日近く経っていたようだった。
穹鬼の魂は、霊界で地獄送りになるだろうとのことだった。
蔵馬が人間の姿を失わなかったことにより、穹鬼の野望は果たされなかったわけだが、
穹鬼はもちろん、そんなことは知る由もない。

「俺の身体はどうなったんですか? この姿は、消えるはずだったのに…」
「ああ…それなんだけどよ……」

途端に幽助が歯切れの悪い口調になる。
蔵馬は怪訝そうな顔をする。

「怒んなよ?」
「…嫌な前置きですね」
「それがさ……お前の呪詛、雪菜ちゃんが代わりに受けたんだよ」
「……え?」
「ばーさんから、呪詛とか移して浄化する治療法教わってたらしくてさ。
 それで、代わりに浄化を…」
「…待ってください。雪菜ちゃんは怪我してたはずです。そんなことしたら…!」

それに、そもそも彼女の身では受けきれないほどの呪詛のはずだ。
瘴気に歪められたあの禍々しい妖気は、自分でさえ耐え難い苦痛を感じるものだった。

「だから、飛影が付き添ってんだよ。妖気を送って補助してる」
「なんで…! なんで飛影がいながら、止めないんですか!」

声を荒げた蔵馬に、幽助は憮然として答えた。

「そんなのお前のために決まってんだろ」
「…!」
「お前に消えられたらみんな困るんだよ」
「だからって、あの子の命を何だと…!」
「雪菜ちゃんが言い出したんだ。お前に恩を返したいって」

恩? そんなもののために?

どれぐらいの危険を冒しているか、彼女はわかっているのか。
自分はあの呪詛を受けても、死にはしない。命を落とすことはない。

けれど。
彼女が受けたら、死んでもおかしくないほどの呪詛だった。
こんなものを、彼女が肩代わりする必要などないはずなのに。

――痛みになら、耐えられますから
――でも
――あなたの弱点として利用されるのは、耐えられない

あの子は何もわかっていない。
俺の気持ちなど、なにひとつ。



*



昨夕、眠る蔵馬の手を握り、雪菜が短い呪文を詠唱して
その身に呪詛を引き受けると、たちまち彼女の顔は色を失った。
飛影は雪菜を抱え上げ、気が散るから近づくなと他の者に釘を刺してから、
蔵馬の部屋を出て行った。
それから、ずっと奥の客間に篭りっぱなしである。

雪菜が呪詛を浄化するのには時間が掛かる上、
飛影が妖気を調整しながら注ぎ込むのは相当な集中力を必要とするものだった。
血が繋がっているため、波長は合い易い。
だが、炎と氷という相反する性質を持つ妖気のため、
雪菜の内部が焼かれないよう注意する必要があった。

布団に横たわる雪菜の右手を、飛影は握り続けた。
苦痛で歪む彼女の顔に掛かった髪を、そっと指で払う。

「…随分、無茶をしたな」

届かない言葉を、妹に投げ掛ける。
深紅の瞳は閉じられたまま、雪菜はそれから二晩眠り続けた。



*



呪詛を浄化し終えて、雪菜が目を覚ましたのは、月曜日の朝だった。
居間には、彼女の目覚めを待つ者たちが、
ときおり不安げな顔をしながら、そのときを待っていた。

目覚めたことを飛影が告げると、静流からの連絡で駆け付けていた蒼露が、
部屋へと向かおうとする。

「待ってください、俺も一緒に…」
「待て。お前には会いたくないそうだ」
「…!」

蒼露に続こうとした蔵馬を、飛影が制した。
蔵馬が言葉に詰まったように、驚愕と憔悴の色を浮かべると、
飛影はそれを満足そうに見やってから、低く笑った。

「湯浴みをして、髪を整えてからじゃないと嫌だと」
「……え」

茫然とする蔵馬に、今度はぼたんたちが笑い出す。

「おや、まぁ、乙女心ってやつさね!」
「お風呂と着替えは私たちが手伝ってきますから、もう少し待っててください」

そう言って、ぼたん・螢子・静流も、蒼露に続いて居間を出ていく。
そして、蒼露のことをまだ信用していない飛影は、
当然のように女性陣と一緒に、もと来た廊下を戻って行った。

残された蔵馬は、茫然とその姿を見送る。
なぜ飛影が傍にいることを許されているのかと桑原が嘆いているのを、
幽助が宥めていたが、その声すら耳に入ってこなかった。

あの日。
左頬を腫らして、唇から血を滴らせていた。
その姿を最後に、もう随分顔を見ていない。
声を聴いていない。
早く会って、言いたいことが山ほどあるのに。










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