4. 雪菜の部屋へと通された蒼露は、2日前に霊界特防隊が応急手当てをした箇所の 包帯を解きながら、その状態を確認をした。 殴打された頭部はほぼ治っていたが、左頬と唇の端は痣が残っている。 腹部に至っては、内出血によって皮膚が変色したままである。 呪詛を受けたせいで治りが遅く、雪菜自身が衰弱している影響を如実に受けていた。 部屋の片隅に飛影が座していたが、 雪菜が彼の同席に対して異を唱えなかったため、蒼露も何も言わなかった。 警戒されているらしいことは理解したし、当然のことだろうと蒼露は思った。 「あなたはか弱い種族だとお話ししたではありませんか。 怪我した上に、呪詛などと…」 「……ごめんなさい」 呆れたような蒼露に、雪菜はバツが悪そうな顔をする。 蒼露は隣県で診療所を構えており、出張での診察はあまりやらないと聞いていたため、 わざわざ来てもらったことが申し訳なくもあった。 蔵馬に紹介されて初めて診察を受けて以来、蒼露は雪菜の主治医となっていた。 薬の処方は蔵馬が行うが、定期検診や不調時の相談などは、蒼露の役目となっている。 なお、後から聞いた話だが、治療費のすべてを蔵馬が賄っており、 金銭ではなく、魔界の奥深くに生息する貴重な薬草と引き換えということになっているらしかった。 そのやり取りを知って、雪菜がしきりに恐縮したが、 召喚できるからたいしたことないと蔵馬はけろりと言ってのけたのであった。 実際は、召喚できないものは魔界に出向いて採りに行っているが、それは雪菜には黙っていた。 「蔵馬様に釘を刺しておかないといけませんね」 「え…? あの、これは、蔵馬さんのせいでは…!」 「理由などはどうでもよいのです。 こうならないように気を付けていただかないと意味がありません」 蒼露がぴしゃりと言い放つ。 蔵馬に責任の矛先が向けられているのに、雪菜は居た堪れない心地がしたが、 部屋の隅で話を聞いていた飛影は、密かに蒼露に賛同していた。 「体内に炎の妖気が混ざっていますね」 「…わかるんですか?」 「診察眼がありますから」 蒼露は手をかざせば、体内の状態を見通すことが出来る。 医者になるために身に付けた力であった。 「貴方様のですね」 蒼露が振り返って飛影を見やる。 飛影は訝しげな視線を返した。 「…身体に障るか」 「いえ。雪菜様の妖気と上手く融合しています。 可能であれば、もう少し、妖気を分けていただけますか」 「構わないが…」 「腹部の痛みが、もう少し和らぐかと」 蒼露の言葉に、雪菜はどきりとした。 その反応に、飛影が呆れたのは言うまでもない。 すかさず近寄って手を握り、ゆっくりと妖気を雪菜の体内に送る。 「まったく、お前は……この期に及んで何を我慢してる」 「だって……飛影さんにはずっと妖気をもらってましたから、お疲れかと…」 「あんなものたいしたことない」 見くびられたもんだな、と飛影は溜め息をついた。 雪菜は申し訳なく思いながらも、あたたかな妖気を受け入れた。 不足していた妖気が満たされ、自己回復力が機能しはじめる。 傷ついた内臓が徐々に修復され、痛みが和らいでいくのを雪菜は感じていた。 蒼露の診察がひと通り終わった頃、風呂の準備ができたと螢子たちが部屋に来た。 螢子たちに付き添われながら風呂場へと移動して、身体や髪を洗い、身なりを整える。 蒼露の処方で蔵馬が調合した薬を傷のある場所に塗り、 包帯やガーゼで手当をしてもらい、雪菜は新しい浴衣に着替えた。 顔の傷を治したかったが、しばらく妖気を使うことを蒼露に禁止されてしまった。 「厄介な呪詛を受けたのです。しばらくは自己回復力だけに頼って、 積極的な治癒能力の使用は控えてください。 蔵馬様の薬草を使えば、すぐに良くなりますよ」 蒼露にそう諭されたが、他の傷なら隠せるからよいとしても、 ただでさえ目に付いてしまうこの顔の傷を見て、 今回のことを蔵馬がより気にしてしまうだろうと雪菜は思った。 蔵馬に早く会いたい。 けれど、何から言葉にすればよいかがわからなかった。 * 雪菜の診察と湯浴みが済み、幽助・桑原・蔵馬が部屋へと招き入れられた。 桑原が雪菜の名を呼び、雪菜が大丈夫と微笑んで見せている。 その光景を目の当たりにしながらも、蔵馬の思考は止まっていた。 目の前に映る、彼女の姿。 左頬に貼られたガーゼ。 唇の端にある四角い絆創膏。 両手首と両足首に巻かれた包帯。 そして、なにより。 ただでさえ青白い顔が、色を失くしている。 呪詛の影響でやつれたようにさえ見える。 痛々しいだなんて言葉では足りないほどの有様に、蔵馬は一瞬で冷静さを失った。 こちらを向いた深紅の瞳に向かって、気づけば言葉が飛び出していた。 「あなたは莫迦ですか…! 呪詛を自分の身体に移すなんて……! 下手したら死んでたかもしれないんだぞ!」 声を荒げた蔵馬に、その場が水を打ったように静かになる。 雪菜は少しびくりとしながらも、しかし蔵馬を見つめ返した。 「…勝手なことして、ごめんなさい。 …でも、蔵馬さんこそ、どうしてあんなことしたんですか…? あなたには、護るべき家族がいるのに……」 「…!」 「その姿を失ったら、お母様には会えなくなるんですよ…! そんなの……そんなの、だめです…!」 蔵馬が人間界にとどまる理由。 それは、家族がいるからだ。母親がいるからだ。 それを、雪菜は十分承知していた。 「少なくとも、今じゃないです。そうでしょう…?」 いつか朽ちて無くなるのだとしても。別れが来るのだとしても。 それは今じゃない。 こんな突然いなくなるのは許されない。 「護るべきものを間違えないでください。 捕まったわたしのせいで蔵馬さんが苦しめられるなんて、そんなのは間違ってます…!」 「………」 「わたしは、あなたの枷にはなりたくない」 「!」 深紅の瞳が、蔵馬を見上げる。 その瞳は、いつか見た儚さとは無縁のように、強さを湛えていた。 何よりも大切なものを理解して、それを護ろうとしてくれた。 その優しさが、信念が、温かく思うのと同時に、どうしても居た堪れなくなる。 彼女は、大きな勘違いをしている。 少しの沈黙のあと、蔵馬から言葉が零れた。 「…………飛影、桑原くん。…すまない、もう限界だ」 呼ばれた当人たちも、周りの者も、その謝罪の意味を理解できずにいると、 一瞬の間のあと、蔵馬の身体が動いていた。 伸ばされたその腕は、華奢な身体を捉えて引き寄せる。 蔵馬は、雪菜の身体を腕の中に収めて、力強く抱きしめていた。 「!!!」 飛影が呆気に取られ、桑原が声にならない悲鳴を上げる。 だが、いちばん動揺したのは雪菜であった。 「…く、蔵馬さん…!」 「俺は、護るべきものを間違えてなんかない」 「…え…?」 「あなただって大切なんです。だから、選んだんだ」 抱きしめる力を少し緩めて、蔵馬は雪菜の顔を覗き込んだ。 翡翠と深紅の瞳がぶつかる。 「あなたは何もわかってない。 俺はこの姿を失うより、このぬくもりを失う方が嫌だ」 「!」 雪菜は深紅の瞳を大きく見開いた。 そんな言葉、想像などしていなかった。 「だから、もうよかったのに………。 雪菜ちゃんが、もうあれ以上傷つかないように願ったんだ…。 なのに、こんな……。こんなになって………」 「……」 「………俺を、救ってくれて……ありがとう……」 「!」 蔵馬の言葉が、切なく響く。 諦めたはずの未来が、まだある。まだ、失わずにいられる。 そのことが、どれほど嬉しくて、どれほど胸を締め付けられることか。 そう、まだ、こんなにも未練があった。 諦めようとした人間としての自分に。 雪菜は蔵馬の言葉が嬉しくて、ただ微笑みを返した。 言うべきことがもっとあったはずなのに、なにひとつ言葉にならなくて、 ただ、今ここにあるぬくもりだけを、強く強く抱きしめ続けた。 * 「おい。俺への謝罪は余計だったぞ」 「え? …あぁ、そうでしたね、すみません」 縁側で風にあたっていた蔵馬は、飛影に声を掛けられて振り向いた。 先ほどの雪菜との対面のあと、我慢ならなくなった桑原に引き離されて、 そのまま全員で居間に移動し、遅めの朝食を食べることになった。 雪菜は消化に良いお粥だけを食し、今は再び部屋に戻って横になっている。 不満げな顔の飛影は、おかげで潰れ顔がうるさいと機嫌が悪いようだった。 飛影が兄だとは知らない桑原は、恋敵だと勘違いしたようである。 「うまく誤魔化しておきますよ」 「どうやって」 「それは……考えておきます」 苦い顔をする蔵馬に、飛影は鋭い視線を向ける。 本来は雪菜を危険な目に遭わせたことに怒るべきだろうが、 先ほどのやりとりで、雪菜の頑なな意思を知った以上、怒りの矛先を向ける気になれなかった。 自分が兄として成しえなかった信頼関係を、蔵馬と雪菜が築いていることは十分理解した。 そんな飛影の意外な配慮など想定もしていない蔵馬は、 呪詛を引き受けるという雪菜の決断を阻止しなかった飛影の心中が理解できなかった。 雪菜に危険が及ぶことは、全力で阻止すると思っていたからだ。 「なんで止めてくれなかったんですか」 「…俺に止められると思うのか。あいつは意外と頑固だぞ」 それに、と飛影は付け足した。 「明らかな間違いじゃない限り、あいつの意思を尊重する」 「…! 命を落としたとしても、ですか?」 「それを決めるのはあいつだ」 「……あなたがそんなに理性的だとは知りませんでした」 「うるさいな」 「その達観した感じは、躯の影響ですか?」 蔵馬の言葉に、飛影は無視を決め込んで、話を進めた。 「今回は、珍しく冷静さを欠いたな」 「……」 「呪詛など受けなくても方法などあっただろう」 「…リスクは冒せませんよ」 「ホントに、甘い奴だ」 幽助やパトロール隊が駆け付けるまで待てば、取るべき策は他にもあったはずだ。 だが、傷つき縛られた雪菜の姿を見て、選択肢など無くなった。 余裕も冷静さも失った。 それがどういう感情なのかを理解できるからか、飛影はそれ以上の非難の言葉は言わなかった。 今回のことで、珍しく憔悴しているように見える戦友を眺めやって、 飛影は、先ほど交わした妹との会話を思い出していた。 * 「さっきは、ありがとうございました」 「…なんのことだ」 「妖気を送ってくださったから。調整するのは難儀だったのではないかと…」 「…ふん。たいしたことない。お前は単純だからな」 「え…そうですか…?」 飛影の返しに、雪菜は呆気に取られたような顔をする。 ただでさえ、炎を操る飛影が、氷雪系の雪菜に妖気を送るのは、相当に気を遣う必要がある。 さらに、呪詛を浄化するために消費する妖気は膨大なもので、喪失する量にも波がある。 強すぎず、弱すぎず、相手の波長に合わせながら妖気を送るのは、 それなりに骨の折れる行為であったはずだ。 それをさらりとやってのけたのは、飛影の妖気を操るセンスが卓越していたのはもちろんのこと、 血の繋がった兄妹であるため波長を合わせやすかったからだが、それを雪菜が知る由もない。 「……そうだ。お前に返すものがある」 「…!」 そう言って差し出されたものを、雪菜ははっとして見つめた。 美しく輝く至高の宝石。 以前、彼に託したものだ。 「…見つかりませんでしたか」 「当然だ。魔界がどれほど広いと思ってる」 「そうですよね…」 雪菜は氷泪石を見つめたまま、苦笑を浮かべた。 「ごめんなさい、途方もないお願いをしました」 「……いや」 「あなたに、運命を託してみようと思ってしまったんです」 「……」 「……だから、まだ、持っていてください」 というより、と雪菜は言い直す。 「飛影さんに差し上げます」 「…! …形見だろうが」 「はい。でも、いいんです。勝手なお願いをした、せめてものお詫びです」 雪菜は、にこりと笑った。 「過去や故郷に囚われるのは、もうやめようと思うんです。 もちろん、兄に会えるものなら会いたいですけど… わたしだけの想いでは、叶わないことですから」 「……」 「それに、会っても、兄を苦しめるだけかもしれません……」 少し淋しげな顔を見せた雪菜に、飛影は溜め息を返した。 「…お前は、難儀な奴だな。兄に対しても、枷になりたくないと思っているのか」 「そういうわけでは、ないですけど……」 「いいか。縁や絆は、枷にはならない。お前は枷なんかじゃない」 「…!」 大きな深紅の瞳が、飛影を見つめる。 研ぎ澄まされた刃のような空気を持ちながらも、 向けられた視線がどこか懐かしいもののような錯覚に陥って、雪菜は目を瞬いた。 だが、その三白眼の瞳からは、何も読み取れない気がした。 「本当に、もういいんだな」 「はい。今を生きると決めました」 「…じゃぁ、もう滅べばいいとは思ってないわけか」 「え? いいえ、思ってますよ?」 「……」 茫然と言葉を失くした飛影に、雪菜は悪戯っぽく笑う。 「滅んでしまえばいいとは思っていますけど、滅ぼしてほしいとは思っていません」 「…そうか」 飛影は苦笑しながらも、納得したかのように頷いた。 故郷の呪縛。 忌み子の呪縛。 そんなものに、いつまでも囚われていては、前には進めない。 いつの間に、こんなに大人になったのだろうか。 頼りなく哀しげに微笑んでいた少女が、確固たる居場所を見つけたのだと飛影は思った。 妹が孤独だと泣くのなら、そのときは迷わず迎えに行く。 だけど。 今はそのときじゃないんだ。 3/戻/5 |