5. 雪菜はしばらく微睡みの中にいたが、熟睡できる気がしなくて身を起こした。 居間へと行くと、テーブルに座しているのは蔵馬だけだった。 蒼露の処方箋をもとに、薬の調合をしている。 「あれ…? みなさんは?」 雪菜の姿を認めて蔵馬は微笑を見せたが、その問い掛けを受けて、苦笑に変わった。 「それが、みんな帰ってしまって…」 「え? …あ、そうですよね、平日ですもんね」 のんびりとした口調の雪菜に、蔵馬はふたりきりにされたという事実は隠しておくことにした。 桑原はかなり渋っていたが、静流と螢子に言いくるめられていた。 雪菜のバイト先には、既に静流が連絡を入れており、 しばらく休む必要があるため、食中毒ということにしてあった。 「蔵馬さんはお仕事は…?」 「今日は休みました。大丈夫ですよ、数日休んだところで支障はありません」 実際、蔵馬の能力は並外れて高いため、仕事の遅れはすぐに挽回できる。 居間の戸口に立ったままの雪菜に、蔵馬が座るように勧めると、 雪菜は遠慮がちに蔵馬の隣に座った。 雪菜としては無意識だったが、テーブルの向かい側ではなく隣に座ってくれたことが 蔵馬にとっては嬉しかった。 「体調はどう?」 「大丈夫です。たくさん寝ましたし、たくさん妖気を分けてもらいましたから」 「こんなに怪我させて、ごめん」 「蔵馬さん…」 「ごめんね」 蔵馬が雪菜の左頬に触れる。 ガーゼで覆われているため傷痕は見えなかったが、あのときの姿を鮮明に覚えている。 脳裏に焼きついて、離れない。 「俺のせいで、巻き込んでごめん」 「違います…! 蔵馬さんのせいじゃないです」 「でも…」 「巻き込んだのはあの方です。だから…蔵馬さんも、巻き込まれたんですよ」 ね?と雪菜が蔵馬を窺い見る。 原因は確かに穹鬼だ。 けれど、雪菜を巻き込んだ原因は、庇護の証を身に付けていたからだ。 そのせいで、彼女はこんなにも傷つけられてしまった。 理不尽な暴力に晒してしまった。 「わたしの方こそ、ごめんなさい。山奥には行くなと言われていたのに…」 「ああ…そのことで、お客さんが来てますよ」 「え…?」 雪菜が小首を傾げると、蔵馬は縁側に面した障子を開ける。 縁側には、耳の長い小さな妖怪が、所在無さげに佇んでいた。 雪菜を心配してずっと屋敷にはいたが、なかなか会うタイミングを掴めなかったのだ。 「藍兎! 無事だったのね」 雪菜がそう声をかけると、藍兎は嬉しそうに飛び跳ねて雪菜の傍へと駆け寄った。 だが、すぐにその表情は曇りだす。 「雪娘様、ごめんなさい、ごめんなさい! 私が余計なことをしたせいで…!」 「違うの、藍兎。あなたは正しいことをした。それを利用されてしまっただけよ」 泣き出した藍兎を、雪菜が諭す。 うなだれた長い耳を優しく撫でた。 「あなたは悪くないの。 わたしが蔵馬さんたちに相談しなかったのがいけないのよ。 だから、また何かあったら教えてね?」 雪菜の言葉に、藍兎はぶんぶんと何度も頷く。 その姿が可愛くて、雪菜は思わず笑ってしまった。 藍兎は、雪菜が早く良くなるようにと、 山に棲む仲間たちと集めた木苺や木の実や山菜を手渡して、 いつもどおり嬉しそうにぴょんぴょんと跳ねて帰って行った。 その後ろ姿を見送りながら、蔵馬が微笑んだ。 「相変わらず、懐かれていますね」 「ふふ、可愛いお友達ですから」 「藍兎たちと話してるときの雪菜ちゃん、いつ見ても新鮮なんだよなぁ…」 「…?」 「話し方が違うから」 「あ…そうかもしれません」 桑原家の猫たちやプーに対しては、主人への敬意を払ってか敬語のままだが、 藍兎や他の動物たちには、特に敬語を使ったりはしていなかった。 普段聞くことが出来ないこの話し方が、蔵馬にとっては新鮮で可愛いものだった。 「あの、蔵馬さん」 「ん?」 「もう一度、わたしに庇護の証をくれませんか」 「…!」 「藍兎たちのような小さな妖怪たちにとっても、 わたしが蔵馬さんの庇護を受けている方が棲みやすいと思うんです。 ここにも、悪い妖怪が現れたりはしますから、そういうとき、 わたしと懇意であることは、即ち蔵馬さんや幽助さんとも繋がりがあるということで、 遠慮する妖怪たちもいるんです。だから、確固たる証がある方が、 もっとあの子たちを護ってあげられるかなって…」 雪菜の話を聞きながら、蔵馬は少しだけ逡巡の色を見せる。 「…俺との繋がりを明示的にしたせいで、また、危ない目に遭うかもしれないよ」 「それでも、護られていることの方が多いです。からかってくる妖怪も減りましたし…」 雪菜が氷女であるということを知らずとも、見た目で声を掛けてくる妖怪は少なからずいる。 そいつらの牽制としても役に立っているのかと蔵馬は内心で思った。 「それに…」 「?」 「その……蔵馬さんからアクセサリーをもらったようで、嬉しくて…」 「!」 雪菜が頬を染めながら、はにかむ。 蔵馬はその言葉に、くすぐったそうに笑った。 「アクセサリーなんて、いくらでもプレゼントしますよ」 「え? あ、そういうつもりでは…」 「怖い思いさせちゃったし、お詫びになんでもしますよ」 「なんでも…ですか?」 「何がいいか考えておいて」 そう微笑まれて、雪菜は断るタイミングを逸してしまった。 そして、なにより、蔵馬から何かが欲しいと思ってしまった。 * 夕飯を食べて、湯浴みをして、床に着く。 おやすみと言葉を交わして別れたはずなのに、雪菜はなかなか寝付けなくて、 廊下をうろうろしたあげく、蔵馬の部屋の前に来ていた。 「…まだ、起きてますか?」 襖越しに聴こえてきた声に、蔵馬は起きてるよと返して、襖を開けた。 そこには、申し訳なさそうな顔をして雪菜が佇んでいた。 「眠れない?」 蔵馬が尋ねると、雪菜はこくりと頷いた。 おいで、と蔵馬が雪菜を招き入れる。 眠れば、おそらく悪夢を見てしまう。 雪菜はそんな予感がしていた。 いくら大丈夫と思っても、囚われて、手足を縛られ、暴力を受ければ、 嫌でも過去の記憶が呼び起こされてしまう。 辛うじて心は保たれているものの、少しでも気を抜けば、恐怖が押し寄せてきそうだった。 そんな雪菜の心情を理解してか、一緒に寝ようかと蔵馬はもう一組布団を敷いた。 蔵馬としても、おやすみと言って別れたものの、雪菜の様子が気になっていた。 何もしないとはいえ、無理に男と一夜を過ごさせるのも憚られ、引き留めることはしなかったが、 ひとりで耐えることなくこうして頼ってくれたことが嬉しかった。 畳の上に座した雪菜は、何かを言いかけて、しかし、躊躇うように口を閉ざす。 その様子に、蔵馬はせかすことなく、雪菜が話すのを待っていた。 「蔵馬さん、あの…」 「ん?」 「えっと……ですね…」 「?」 「さっきの、お詫びのことなんですけど」 「ああ…決まった?」 「本当に、なんでもいいんですか?」 「いいよ。アクセサリーでもバッグでも、なんでもプレゼントしますよ」 「その……ものじゃなくても、いいですか…?」 「…?」 ものじゃない、となると、なんだろうか。 蔵馬が不思議そうな顔をしたとき、雪菜は意を決したように口を開いた。 「………もう一回、ぎゅってしてほしいです」 「…!」 頬を染めて、雪菜が見上げる。 彼の腕の中にいると、安心できるのだ。 だから、そのぬくもりが、もう一度欲しかった。 蔵馬は驚いた顔をしていたが、雪菜の髪をそっと撫でて、 その身体を自分の方へと引き寄せた。 華奢な身体を腕の中に収めて、ぎゅっと抱きしめる。 「…こんなんじゃ、お詫びにならないよ」 「なりますよ。安心、できるんです…」 「…!」 「初めて抱きしめてくれた、あのときから…」 雪菜は蔵馬の胸に顔を埋めて、瞳を閉じた。 バイト先の先輩に襲われそうになったとき、助けに来てくれた。 抱きしめて、慰めてくれた。 あたたかなぬくもりで、包み込んでくれた。 安心をくれた。 いつだって、そうなんだ。 彼はいつだって安心をくれる。 今までに感じたことのないあたたかさをくれるのだ。 「…雪菜ちゃん。ごめんね」 蔵馬の謝罪の言葉に、雪菜は顔を埋めたまま首を振る。 蔵馬は雪菜の頭を撫でて、微笑んだ。 「ありがとう」 言葉では足りなくて、抱きしめる力をさらに強くする。 愛おしくてたまらない。 この気持ちが、少しでも伝わればいいのに。 * どれくらいの時が経っただろうか。 雪菜はとんでもないお願いをしたことに、徐々に気づきはじめてしまった。 不安を和らげてほしくて、蔵馬に抱きしめてもらっていたが、 触れる身体の熱に、掛かる息に、恋心が顔を出す。 どきどきと鼓動が高鳴って、頬が上気しはじめた。 「…蔵馬さん、あの…もう、大丈夫です…! ありがとうございます…」 そう言って、蔵馬から離れようとする。 しかし、雪菜の真っ赤な顔を見た蔵馬は、その可愛さに思考が止まる。 腕を解く気にはなれなくて、まじまじと雪菜の顔を見つめた。 左頬のガーゼに、唇の端の絆創膏。 手首と足首にある包帯。浴衣で隠された、腹部の包帯。 こんなにも傷を負ったのに、それでも、こんなにも可愛い視線を送ってくれる。 信頼と安心を求めてくれる。傍にいようとしてくれる。 それが、可愛くて、愛おしくて、たまらない。 蔵馬は雪菜の左頬を、ガーゼの上からそっと撫でる。 左手首を掴み、包帯の巻かれた手首の内側に優しく口付けた。 ひゃっと、雪菜から小さな悲鳴が上がる。 「く、蔵馬さん…! もう…」 「ん……まだ駄目」 「え…!」 「まだ、このままでいたい」 「!」 「このまま、ずっと閉じ込めていられたらいいのに」 蔵馬の一連の行動に翻弄されたあげく、そんなことまで言われて、 雪菜の鼓動はもはや早鐘のように鳴っていた。 蔵馬は雪菜を抱きしめたまま、その肩に顔を埋めた。 雪菜がびくりとしたのは言うまでもない。 このまま、大切にしまっておきたい。 誰にも触れさせたくない。 誰かを愛してほしくなんかない。 彼女が欲しい。 そう、思ってしまった。 熱を帯びた身体をそっと離す。 見上げるその瞳に、途惑いこそあれ、疑いの色は微塵もなくて、 蔵馬は内心で苦笑する。 いつまで、彼女にとって安心な存在でいられるだろうか。 自分の理性は、いつまで持つのだろうか。 いつかそれを壊してしまうような気がしながら、それでも、 彼女を護りたい気持ちが勝つのだろうと思うのだった。 「そろそろ寝ようか」 「………はい」 赤い顔で頷きながらも、雪菜は眠れる気がしなかった。 どきどきと鳴る鼓動が、しばらく静まりそうにない。 触れられた頬が、口付けられた手首が、熱を持っているようだった。 * その夜見た夢は、やはり過去の記憶であった。 苛まれる日々が、鮮烈に甦る。 苦痛と恐怖が、際限なく襲う。 その暗い閉ざされた記憶に飲み込まれそうになった瞬間。 ふわりと香る花の匂いがしたかと思うと、 力強く引き寄せられて、咲き誇る花々の世界にいた。 あたたかい光と、優しい香り。 それらに包まれて、深い深い眠りに落ちた。 朝の陽の気配を感じて目を覚ますと、雪菜は蔵馬の腕の中にいた。 ぱちぱちと目を瞬いて、寝起きで働かない思考を無理やり起こす。 別々に敷かれた布団で、別々に眠りについたはずなのに。 今や、雪菜の布団から半ばはみ出すように蔵馬がいる。 片方の腕を枕にし、もう片方の手は雪菜の背に回されている。 密着する身体に、昨夜のこともあってか、また雪菜の体温はみるみる上がってしまった。 そして、はたと気づく。 魘されていた自分を、引き寄せて救ってくれたのだと。 蔵馬を起こさないように、視線だけ動かして、彼の顔を見つめる。 深い翡翠の瞳は閉じられ、その綺麗な顔は、静かな寝息を立てていた。 彼が大切な家族といるために、この姿を護ることができて、少しは恩を返せただろうか。 自分も彼を大切に思っていると、護りたいのだということが、伝わっただろうか。 力に、なれただろうか。 もう少しこのぬくもりに包まれていたくて、雪菜は再び眠りについた。 4/戻/6 |