6.

あれから、何度悪夢で目覚めただろう。
あと何日経てば、この暗闇から醒めるのだろう。

引かれた記憶の引き金。
フラッシュバックするように、様々な光景が甦る。
忘れていた些細なことさえ、夢に現れる。

雪菜はベッドから身を起こして、携帯を手にした。
表示された時刻は、まだ深夜の2時半。
なんの夢を見ていたかは覚えていない。
けれど、背筋が凍る心地がして目が覚めた。

――何時でもいいから電話して。

蔵馬の言葉を思い出す。
雪菜は携帯を見つめたが、掛けることはしなかった。

わかっているのだ。
時間が経てば、この状況は和らぐと。
だから、頼れるわけがない。
まして、こんな夜更けに。

雪菜は左腕のシルバーのブレスレッドに触れた。
蔵馬からの庇護の証。
この証に触れるだけで、心が落ち着くような気がした。



*



5日間の休養を経て、金曜日に雪菜は花屋のバイトに復帰した。
シフトに穴を開けてしまい、雪菜は恐縮し切った様子でいたが、
店長やバイトリーダーの牧瀬のおかげで、店は難なく回っていた。
休養中は、桑原が甲斐甲斐しく看病し、蔵馬や螢子が何度か見舞いに訪れ、
蒼露の助手が経過観察に来た。

蔵馬の薬草のおかげで傷はすぐに回復したし、呪詛で弱った体力も元に戻っていた。
あとは、毎夜の悪夢だけが残っていたが、こればかりは仕方がないと雪菜は諦めていた。
時間が解決してくれるのを待つばかりだ。
幸い、悪夢で怖い思いはするものの、
恐怖に支配されて生活がままならないというほどではなかった。

大丈夫。乗り越えられる。
それは、強がりではなく、そう思える自信があった。

「桑原さん、あんまり無理しないでね」
「ありがとうございます。でも、もう大丈夫なので…」
「もうすぐ上がる時間でしょ? そろそろいいよ」

夕方5時に差し掛かり、牧瀬が雪菜に声を掛ける。
久々だったせいか、あの出来事があったからか、
朝からたくさんの人と会話をして、どっと疲れが押し寄せてきた。
それは、体力的にというよりは、精神的な疲労だった。

「それに、もうお迎え来てたよ」
「お迎え…?」

牧瀬の言葉に、雪菜は首を傾げる。
今日は早番だし、特に桑原や静流と迎えの話はしていなかったはずだ。
桑原が心配して様子を見に来てくれたのだろうか。
そんなことを考えながら、店の窓から外を見遣って雪菜は驚きの表情を浮かべた。

店の前の舗道の鉄柵に寄り掛かっているスーツ姿の人物。
綺麗な顔立ちが、道行く人々の視線を集めていた。

「蔵馬さん…!」

雪菜は驚いて、エプロン姿のまま店外へ出て、蔵馬に声を掛けた。

「どうしたんですか…!?」
「セミナーで直帰だったから、会えるかなと思って」
「そんな、わざわざ…!」
「一応、メールしといたんだけど…」
「え…! ごめんなさい、バイト中は見れなくて…」
「だよね、ごめん」

蔵馬が苦笑する。

「もう上がり?」
「はい」
「このあと、時間あります?」
「え…?」
「あ、すぐ帰んないと駄目かな」
「いえ…! そんなことは…」

連絡すれば大丈夫です、と雪菜は付け足した。

「少しだけ、コーヒーでも飲まない?」
「…!」

蔵馬の申し出に、雪菜は頷こうとして、しかし、少し躊躇った。
その様子に、蔵馬が首を傾げる。

「…まだ本調子じゃないなら、今日じゃなくても…」
「あ、いえ、違うんです…!」
「…?」
「あの……せっかくなので、ごはん、食べませんか…?」
「…!」
「…あ、でも、お忙しいですよね…!」
「いや、行く行く。大丈夫…!」

一瞬呆気に取られていた蔵馬が、急いでそう答えると、雪菜は嬉しそうに笑みを返した。
着替えてきますね、そう言って、雪菜は店内へと戻って行った。

雪菜の負担への遠慮もあって、コーヒー程度でと思っていたが、
彼女の方から食事の誘いをしてくれたことに、蔵馬は少なからず驚いていた。
コーヒーでさえ、断られる覚悟をしていたのだ。

一緒にいてもいい。
そのことを改めて赦されたような気がした。



*



駅周辺を少しぶらぶらしてから、雪菜のおすすめのカジュアルイタリアンのお店に入った。
花屋の周辺のお店は、バイト先の先輩とよく食事に行っているおかげで詳しくなっていた。
レースのカーテンで仕切られた半個室の席に通され、料理を注文する。
ミネラルウォーターをひと口飲んでから、雪菜は蔵馬に視線を向けた。

「すみません、わざわざ来ていただいて…」
「ん? あぁ…だって、雪菜ちゃんが全然電話くれないから」
「…!」

蔵馬が笑いながら肩を竦める。
半分冗談だが、半分は本気だった。

「何時だって、よかったのに」
「そういうわけには……」

ちゃんと眠れているか、とは、蔵馬は訊かなかった。
あの夜、魘された彼女を抱きしめたときから、眠れぬ夜が続くだろうことは予想していた。

「あの…あんまり責任感じないでくださいね…」
「そんなんじゃないですよ」

申し訳なさそうにする雪菜に、蔵馬は微笑を返す。

「会いたかったから来ただけ」
「!」

どくんと鼓動が高鳴る。
翡翠の優しい眼差しに、雪菜はただただ翻弄されていた。
なんと返せば良いか迷っているうちに、料理が運ばれてきた。
雪菜はおいしそうですね、と笑顔を浮かべ、話題を変えられたことに内心で安堵した。

怖い思いをした。
そのことがあったからといえ、抱きしめられたり、手首に口付けられたり、
一緒の部屋で眠ったりと、思い返せばドギマギする出来事が何度もあった。

事件が起きたせいだ。
そう思っても、恋心が顔を出してしまう。

蔵馬にとってはどうってことはない。
わかっているのに、仕種や言葉のひとつひとつに、どうしてもどきどきさせられてしまうのだ。

「久しぶりのバイトはどうでした?」
「楽しかったですけど…たくさんの人に会って、ちょっと疲れちゃいました」

雪菜は少し苦笑する。

「でも、蔵馬さんの姿を見たら、なんだかほっとしちゃって…」
「…!」
「いつも、いてくれますね。わたしが不安なときは、いつも…」

恐怖の記憶が、安心の記憶に置き換わっていく。
何か起きても、傍にいてくれる、どうにかしてくれる、そう信じることができる。
それが、大きな力になっていた。

「…本当は、あのとき、すごく怖くて……今も、まだちょっと怖いんですけど、
 でも、わたしには、大切にしていくべきものがあるから…だから、大丈夫でいられるんです」
「……」
「あの頃のわたしには、何もなくて、未来もなかった…。でも、今は違うんです。
 生きていく場所があって、大切な方達がいるから……負けないでいられるんですよ」

恐怖に苛まれても。
絶望が襲ってきても。
今なら、今の自分なら、なんとか乗り越えられる。
仲間のような家族のような存在に出逢えたから、そう思えるのだ。

「独りで耐えてるわけじゃない。
 それを知っているから…だから、そんなに心配しないでくださいね?」

雪菜が微笑む。
蔵馬は、その微笑みに魅せられたかのように、ただ黙って見つめた。
強くあろうとする彼女が、とても美しく見えて、けれどまだ、
どこか危なっかしくも見えるのだった。

「……心配しないなんて、無理だけど…大丈夫っていうのはよくわかったよ」

心が壊れてしまわないか。
その危うさをまだ秘めていたとしても、乗り越えようとする雪菜を、
見護っていこうと蔵馬は思った。

多少の不安なら、彼女は口にはしない。
だから、その分、こちらが距離を詰めれば良いだけだ。
今日、会いに来たみたいに。

「あのさ…」
「…?」
「俺にとっては雪菜ちゃんが大事な存在だから、
 弱点になるのは、もうどうしようもないんですよ」
「…!」
「でも、それが枷になったりはしないから」
「……」
「あなたを護るために例えどんなことになっても、それは、俺が決めたことだから。
 俺の決意を、自分のせいだなんて思わないでほしい」

そんなのは嫌だと言うのかもしれないが、それでも、
枷だなんてそんな風に自分を思わないでほしい。
護りたいから護るのだ。
何にも変えられないから、どうにかしようと足掻くのだ。
それは足枷なんかじゃない。
何にも変え難い大切なものだからだ。

返答に窮している様子の雪菜に、蔵馬は深紅の瞳を見つめながら、言葉を続けた。

「それに、なんだか、今回のことで…
 これからも支え合っていけるんだろうなって思えたんですよ」
「!」
「俺も雪菜ちゃんに護られてる。それを忘れないで」

そう微笑んで、蔵馬は食後に運ばれてきたコーヒーをひと口飲んだ。
雪菜はその動作を茫然と見つめる。

ただ護られて、心配をかけるだけの存在だと思っていた。
支え合っていける。そう思ってもらえるほど、彼の力になれているだろうか。
少しは、役に立てているだろうか。
彼の幸せを願っている。それが、伝わっているだろうか。

茫然とこちらを見つめる雪菜に、蔵馬は思い出したかのように付け足した。

「ああ、でも、俺の過保護は変わらないからね?」

笑う蔵馬に、雪菜も微笑んで、はいと答えた。

支え合って生きていける未来が見えた。
例えこの恋心が叶わずとも、ともに歩んでいける道があるような気がしたのだ。










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