10. 蔵馬は雪菜の手を引いて、裏口から出て、 屋敷の裏手にある小さな丘へと続く道を進んだ。 夏の終わりを告げる夜空には、たくさんの星が輝いている。 山の空気は街よりも涼しく、心地よい風が吹いていた。 蔵馬が空を見上げると、月がまばゆい光を放っていた。 今夜は満月。 蔵馬が振り返って手を離すと、満ちたその月の光に照らされて、 雪菜の赤く染まった顔が見えた。 「月、綺麗だね」 「…そ、そうですね…!」 「あのときも、一緒に月を見たね」 「え…?」 あのときとはいつのことか。 雪菜が目を瞬く。 それは、この道場で、初めて雪菜の儚い横顔を見たときだった。 初めて、彼女のことを何も知らないのだと自覚した日だった。 「雪菜ちゃんが、あまり月を見たことがないって言った、あの日」 「……」 「あの日から、あなたが気になって仕方なかった」 「…!」 「はじめは…護ってあげたいとか力になりたいとか、 そんな風に思って、保護者のようなつもりでいたんだけど…」 蔵馬は少し、苦笑を見せる。 本当は、こんなはずではなかった。 大事にしまっておくはずで。 見護り続けるはずだったのに。 「今は違うんだ」 「……」 「見護るだけじゃなくて……雪菜ちゃんを、誰にも渡したくないと思ってる」 「…!」 雪菜は蔵馬を黙って見つめた。 聞こえてくる言葉が、どこか現実味のないように思えて、夢を見ているかのようだった。 だけど、どきどきとうるさく鳴り続ける鼓動だけが、現実であることを実感させた。 「雪菜ちゃん」 「……」 「好きだよ」 「!」 「純粋で優しいところも、一緒にいて落ち着くところも、無垢で危なっかしいところも、全部。 本当は、痛みや孤独も知っていて…それでも、真っ直ぐさを失わないその強さにも惹かれてる」 茫然と立ち尽くす雪菜に、蔵馬は微笑みかけた。 「これからも、ずっと、俺の傍にいてほしい」 「…!」 翡翠の瞳に射抜かれて、雪菜は言葉を失った。 叶わない恋だと思っていた。 何度も諦めようとした。 苦しくて、切なくて、仕方がなかった。 初めての恋に途惑って、親切にされることに慣れてないからだと言い聞かせて、 けれど、蔵馬への特別な気持ちは募るばかりで、消えることはなかった。 蔵馬が雪菜に歩み寄る。 顔を覗き込まれて、雪菜ははっとした。 真っ赤に頬を染めて、蔵馬を見つめ返す。 「………ほんとう、ですか…?」 「ほんとだよ」 「……でも、わたし…………わたしじゃ、全然釣り合わなくて……」 「そんなことない」 「蔵馬さんは完璧で……でも、わたしは、まだまだ子どもっぽくて……」 「俺は全然完璧なんかじゃないし、雪菜ちゃんはもう子どもっぽくなんかないよ。 少なくとも、俺のことを慮って護ってくれたあなたを、幼いだなんて思わない」 「で、でも…歳だって離れてて……」 「…千年も歳上は嫌?」 「嫌なんて、そんなわけ…!」 「なら、よかった」 にこりと微笑む蔵馬に、雪菜は驚きを隠せないまま、言葉を続けた。 「……わたし、わからないことがまだたくさんあって……きっと、困らせてしまうと思うんです」 「うん、いいよ。困らせて? 雪菜ちゃんに振り回されるなら、それも悪くないし」 「…! ……ほんとうに、いいんですか? …わたし、蔵馬さんの傍にいても、いいですか…?」 雪菜が見上げると、蔵馬は微笑んで頷いた。 「傍にいてくれたら嬉しい」 「…!」 「雪菜ちゃん。俺と付き合ってくれますか?」 「…はい」 頬を朱に染めた雪菜が頷くと、翡翠の瞳が優しげに煌めいた。 綻ぶような笑みを見て、雪菜は夢と現実の狭間にいる心地がした。 月光に照らされた雪菜の薔薇色に染まった頬を、蔵馬は右手で包んだ。 見上げる雪菜の顎を持ち上げて、さらに上を向かせる。 不思議そうに見上げる雪菜に、蔵馬は苦笑を落としながらも、そのまま顔をよせる。 柔らかな唇が押し当てられる感触に、雪菜は目を瞑ることさえ忘れて茫然としていた。 数秒触れて、離れていく唇。 雪菜の瞳に、再び微笑む蔵馬が映った瞬間、我に返ったように、 その頬は今まで見たことがないほど真っ赤に染まった。 言葉さえ出ず狼狽する雪菜に、蔵馬は愛おしさで笑みが零れた。 雪菜をぎゅっと抱きしめて、腕の中に閉じ込める。 「………ホントにもう、可愛いなぁ」 「!」 洩れ出た蔵馬の言葉に、雪菜の鼓動がどくんと高鳴る。 先程から展開について行けずに、頭の中は軽くパニックだった。 ふわふわと気持ちが浮ついて、一向に落ち着かない。 「……ごめんね、愛しくて、可愛くて、もう我慢できなかった」 耳許で囁かれた声に、雪菜はびくりと震えた。 ああ、だめだ。もう、どきどきが止まらない。 耳まで真っ赤にした雪菜は、辛うじて首を振る。 蔵馬はその反応を見やって、ふふっと笑った。 抱きしめた身体から伝わる雪菜の体温が、いつもより高く、聞こえる鼓動も早鐘のようだ。 こんな状態にして申し訳なく思う一方で、自分とのキスでここまでどきどきしてくれる彼女が、 可愛くて仕方なかった。 * 蔵馬は雪菜をぎゅっと抱きしめたまま、 彼女がいつから想いを寄せてくれていたのだろうかと記憶を辿った。 まだ恋など知らないと思っていた。 だが、それが間違いであったのなら、いつから彼女は恋をして、 自分を想ってくれていたのだろうか。 信頼はしてくれていた。頼りにもしてくれていた。 だが、幸せになってほしいと距離を置かれた。 そこまで考えて、蔵馬ははっとあることに思い当たった。 なぜ、気づかなかったのか。 「………もしかして」 「…?」 「……卒業って…そういう意味?」 「え…?」 「俺といると辛くなるから?」 「…!」 「だから離れようとしたの?」 「…………はい」 蔵馬の言葉に、雪菜が小さく頷く。 思い返せば、どこか腑に落ちない気はしていた。 襲われそうになったことを思い出してしまうというわけでもなく、 世話を焼きすぎて煙たがられているというわけでもなく、 ただ、いつまでも甘えていられないからだと告げられた。 もう助けがなくても大丈夫なのだと、謙虚な彼女の気遣いなのだと納得はしたものの、 明確に線引きをされることに違和感を覚えたのも確かだった。 けれど、彼女が自分に恋をしているなどとは、微塵も考えはしなかった。 まだ知らないと思っていた。 そんな感情を抱くようになるのは、ずっと先だと思っていた。 「蔵馬さんの親切心を、勘違いしちゃいけないって思って……。 絶対、無謀な恋だと思って、何度も諦めようと思いました………」 傷つく前に、苦しくなる前に、離れようと思った。 でも、どうしても諦めきれなかった。 想いが消えることはなかった。 「ごめんね、たくさん傷つけてたんだね」 「そんなことないです…! わたしが勝手に………」 「あのとき、引き留めておいてよかった」 「え…?」 「幻蝶華を一緒に見たあのとき」 「…!」 好きだと自覚したあのとき。 魔界の光り輝く花々に囲まれて、一緒にいたいと告げた。 もし、自分の想いに気づかなければ、一緒にいたいと告げていなければ、 この瞬間はなかったかもしれない。 「雪菜ちゃんが恋をするのは、まだ先なんだと思ってた」 「……」 「…でも、そっか……とっくに両想いだったんだね」 「…!」 蔵馬の言葉に、雪菜は驚いた顔をして、そして、微笑んだ。 いつしか信頼が降り積もって、そして、それが恋心に変わっていた。 大切に育まれてきたその想いは、その関係は、丁寧に積み重なって、 こんなにもかけがえのないものになっていた。 いつまでも赤いままの雪菜の頬を蔵馬が撫でると、雪菜がびっくと反応した。 それを見て、蔵馬は笑う。 雪菜が困ったように眉根を寄せているのを見て、 蔵馬はその華奢な身体をそろそろ解放しようとしたが、 腕の力を緩めた瞬間に、力が抜けて傾いた身体を慌てて支え直した。 「おっと……大丈夫?」 「…ごめんなさい…その、力が、入らなくて………」 「え? あぁ……これのせいかな」 そう言って、蔵馬が雪菜の唇を親指でなぞる。 びくっと震えた雪菜が、声にならない声を上げた。 「………や…だめです、もう………しんじゃう………」 「…!」 困り果てた雪菜が切実に訴える。 蔵馬はその様子に苦笑を浮かべながらも、あまりの可愛さに愛しく感じるのだった。 蔵馬は屋敷に戻ろうと、雪菜の身体を抱き上げた。 驚いた雪菜が、小さな悲鳴とともに、蔵馬へ途惑いの視線を送る。 その視線を受けて、蔵馬はさらりと答えた。 「だって、歩けないでしょ?」 にこりと微笑む蔵馬にお姫様抱っこされたまま、雪菜は屋敷へと運ばれたのだった。 * 宴をしている居間ではなく、女性陣が泊まることになっている部屋へと雪菜は送られた。 当然、顔は赤いままで、みんなのもとに戻れる気がしなかったし、 そんな顔を他の男に見られたくないと蔵馬に言われてしまったため、 居間へと戻る蔵馬を見送って、螢子たちが戻ってくるのをひとりで待っていた。 雪菜は畳の上に座り込み、先ほどまでのことを思い返しては、茫然としていた。 恋が実っただなんて、信じられなかった。 相手にされていないと思っていた。 親切で優しい。それだけだと思っていた。 だけど。 雪菜は無意識のうちに自分の唇に触れた。 触れたあの柔らかさと熱さが、急に脳裏に甦る。 思い出すだけで、鼓動が速くなった。 あの感触は、夢ではない。 掛けられた言葉も、真摯な眼差しも、優しい微笑みも、なにひとつ、幻ではないのだ。 じわじわと雪菜の中で実感が伴ってきたとき、 襖の向こうの障子から足音と声が近づいてくるのが聞こえた。 螢子とぼたんと静流が戻ってきたのだ。 障子を開けた静流が、雪菜の姿を見つけて、あ、と声を上げる。 宴会の途中から消えた彼女が、赤い顔をして佇んでいる姿を見て、 螢子たちに根掘り葉掘り質問攻めにあったのは、言うまでもなかった。 * 翌日、宴会で散らかした部屋を皆で分担して片づけを行なった。 雪菜が台所で食器の片づけをしていると、居間のごみを集めて持ってきた螢子が、 そういえば、と思い出したように雪菜の左手首を見た。 「雪菜ちゃんが付けてるそれってさ、庇護の証ってやつでしょ?」 「え? あ、はい。蔵馬さんにいただいたんです」 「鈴木くんから聞いたんだけど、庇護の証って、仲間や部下の保護以外に、 別の意味もあるんだって」 「別の意味、ですか?」 「うん」 螢子はにこりと笑いながら、雪菜の耳許で囁いた。 「寵愛の証、とも言うんだって」 「ちょうあい…」 普段の生活では聞き慣れない言葉に、その意味を理解するのに雪菜は時間を要した。 「蔵馬さんってば、意外と独占欲が強いのね」 「…!!」 真っ赤になった雪菜を見て、螢子はふふっと笑った。 その真っ赤になった顔が、あまりにも可愛い。 よかったね、と囁いて、螢子は居間へ戻るために去って行く。 螢子とすれ違いざまに台所へと来た蔵馬が、雪菜の赤い顔を見て不思議そうな顔をする。 「どうかした?」 「…いえ、その、螢子さんが変なこと言うから……」 「螢子ちゃんが? なんて?」 「その…庇護の証には、寵愛の証という意味もあると……。 で、でも、そういう意味じゃないですよね? わたしを護ろうとしてくれただけで…」 「……あぁ、もちろん護りたいって意味もあるけど…ちゃんと言ったよね?」 「…?」 「俺のものって意味だって」 「!!!」 ふっと微笑んだ蔵馬に、雪菜はさらに頬を赤く染めて絶句した。 9/戻/ |