9. 「まるで保護者だな」 突然降ってきた声に、蔵馬は視線を背後に送る。 隣に並ぶように腰掛けた凍矢の視線を追って、ああ彼女のことかと蔵馬は納得した。 蔵馬と凍矢は、幻海の客間の縁側に座していた。 客間では、幽助・桑原・螢子・静流・雪菜のいつものメンバーに加え、 久々に人間界に来た酎・鈴駆・鈴木・陣・死々若丸が宴に興じている。 暗黒武術会のことや、幻海の道場での修行のこと、 魔界統一トーナメントのことなど、思い出話に花が咲いていた。 その話の輪を、蔵馬と凍矢は縁側から遠巻きに見ていた。 「あなただって気にかけてるでしょ」 「俺のは同属意識とかそんな感じさ。…さっきからずっと彼女を見てるな」 「…俺のことよく見てますね」 「あの子がどうかしたのか」 「別に……酔っ払いに絡まれないか心配なだけですよ」 凍矢は雪菜に視線を戻し、まぁ確かに、と内心で納得する。 道場で共に暮らしていたときも、異性への警戒心がまるでなさすぎて、危なっかしい限りだった。 氷女という種族の特性だろうか。それともただ幼いだけか。 あれだけ見た目が整っているのだから、少しは用心をしてほしいものだ。 心配して見守っている。その気持ちは理解できる。 だが、それだけではないという気が凍矢にはしていた。 ふたりに漂う空気が、いつもと違う心地がしたのだ。 特に、彼女の様子が。 「…なんとなく、お前を避けている気がするが」 「…!」 凍矢の言葉に、蔵馬は驚いた顔をする。 そんなに観察されていたのかと内心で感心した。 元忍びだからか、観察眼は今でも健在のようだった。 「ちょっと…ちょっかい出して困らせちゃいまして」 「…!」 蔵馬の答えに、今度は凍矢が驚く番だった。 ちょっかい? 蔵馬が? 凍矢がそんな表情をしていると、蔵馬が意外ですか?と苦笑した。 実のところ、今日は一度も雪菜と話が出来ていなかった。 目が合っても、会釈を返して雪菜はそそくさと姿を消してしまう。 原因は分かっている。 彼女を押し倒したりなんかしたからだ。 「保護者なんかじゃないわけか」 「…まぁね」 「庇護の証まで授けたのは、そういうことか」 ひとり納得したように凍矢が頷く。 蔵馬は何も答えずに、ただ笑みを浮かべているだけだった。 昔は保護者のつもりだった。 人間界での生活を見守っていたあの頃は。 けれど、今は違う。 自覚したこの想いは、日増しに募っていくばかりだ。 こんな恋情に溺れる日がくるなんて。 自分でも意外に思いながらも、そんな変化を心地よく思う自分がいた。 視線を再び雪菜に戻すと、ちょうど酔っ払った酎が彼女の隣に座ったところだった。 赤い顔をした上機嫌な酎に絡まれても、雪菜は丁寧に対応をしている。 「早速変な虫が付いたな」 「みたいですね。あんなの、相手にしなくてもいいのに……」 「のんびりしてていいのか? あいつは酔うとキス魔だぞ」 「…! …そうでした」 凍矢の言葉に、蔵馬は慌てて立ち上がる。 酔っ払った酎のあまりにも赤い顔に、雪菜が心配して覗き込む。 そんな純粋な彼女に、酎の顔が迫る。 間一髪で、蔵馬は酎を引き離した。 「彼女に手を出したら、命は無いと思った方が良いですよ?」 脅しではなく、事実だった。 にこりと微笑みながら囁かれた言葉に、冷たい空気を感じ取った酎は、 酔いが醒めたように冷や汗を浮かべた。 「そ、そんなことしねぇーって…!」 「それならいいですけど」 蔵馬はそう言いながら、酎と雪菜の間に座る。 一連の流れを見ていた雪菜は、ただぽかんとしていた。 そして、隣に蔵馬がいることを急に意識したのか、視線を逸らした。 「あ、あの…! 空いたグラス片付けますね…!」 誰に言うでもなくそう呟いて、雪菜はそそくさと客間を出ていく。 その後ろ姿を、蔵馬は苦笑交じりに見つめていた。 * 逃げるように台所に来た雪菜は、皿やグラスを乗せたお盆を流しに置いて、 ふぅっと小さく息を吐いた。 どう蔵馬と接したらいいのか、雪菜にはもはやわからなくなっていた。 これまで、蔵馬のことを意識はしていた。 だけど、あの日、初めて彼を男性として認識したのだった。 見つめられた視線、唇に触れた親指。 覆い被さったその身体に包まれて、どきどきと鳴り止まない鼓動。 親切で優しい。 それだけではないことを初めて実感した。 あれはただの忠告だ。 教育的指導なのであって、深い意味などない。 期待などしてはいけない。 何度そう自分に言い聞かせても、 あのときのことを思い出すだけで、鼓動が高鳴って、頬が上気してしまう。 意識しすぎて、蔵馬とどう顔を合わせればいいかわからなかった。 ざわざわとする心を落ち着けようと、雪菜は皿やグラスを洗い始めた。 「手伝いますよ」 「ひゃっ…!」 背後から聞こえた声に、雪菜はびくりとして小さな悲鳴を上げる。 完全に不意を突かれた。 雪菜の驚愕ぶりに、蔵馬は苦笑した。 「ごめん、驚かせた?」 「いえ、大丈夫です…!」 どきどきと鳴る鼓動を落ち着かせながら、雪菜は答えた。 隣に並んだ蔵馬は、雪菜が洗った食器をふきんで拭き始めた。 立つ距離が、些か近い気がするのは、気のせいだろうか。 「この間の人は平気?」 「あ、はい…! あれから何もないですし、シフトが重なってないので、大丈夫です…!」 「もし何かあったら、すぐに知らせてね」 「もう大丈夫ですよ…! ほんとに…」 「…それなら、いいんだけど」 この間の話が出て、雪菜はどきりとした。 蔵馬の顔を見られなくて、雪菜の視線は食器へと向けられたままだった。 そんな不自然な様子に、蔵馬が気づかないわけがなかった。 少しの沈黙のあと、蔵馬は食器を拭いていた手を止めて、雪菜の方へ向き直る。 「ごめんね」 「え…?」 「あんなことして、嫌われちゃったかな」 「…!」 「困ってるよね、ごめん」 蔵馬の言葉に、雪菜は思わず顔を上げる。 相対した翡翠の瞳は、いつもの優しい微笑みを湛えたままだった。 雪菜はその瞳を見つめながら、自分が情けなくてたまらない心地がした。 自分から言い出して、危険だと教えてくれと頼んだのに、 それを実際にされて、動揺を隠せずにいる。 まともに顔を見られなくなって、蔵馬をずっと避けている。 そして、気を遣わせて謝らせてしまっている。 なにをしているんだろう。 優しい彼をまた遠ざけるようなことなんてしたくないのに、 高鳴る鼓動に翻弄されて、どうしたらいいかわからなくなってしまう。 「…嫌うだなんて、そんなわけないです…。 ……でも、その、どうしたらいいか、わからなくて……」 「……」 「…その……どきどきしちゃうから……」 「え…?」 不思議そうな彼の顔。 その顔を見つめているうちに、雪菜の頬が桃色に変わっていく。 顔を見ながら話せる気がしなくなって、雪菜はまた視線を逸らした。 「…蔵馬さんのこと考えると、どきどきしすぎて、 どうしたらいいかわからなくなっちゃって……。 それに、顔も熱くなっちゃうから、それを見られたくなくて……」 「………」 「だから、その……避けるようなことして、ごめんなさい……」 「………いや」 蔵馬は茫然と雪菜の言葉を聞いていた。 予想もしていなかった答えに、思考が止まる。 どういう意味だろうか。 どこまで自覚して彼女は話しているのだろうか。 蔵馬がそっと雪菜の頬に手を伸ばす。 雪菜はピクリと小さく震えたが、添えられた手の力に抗えなかった。 「…こっち向いて」 困って見上げる雪菜に、蔵馬はふふっと笑う。 「本当だ、真っ赤」 「…! ……意地悪、しないでください…」 「ごめん、可愛くてつい」 微笑む蔵馬に、雪菜はさらに頬を染めた。 触れられている手に、距離に、どきどきする。 蔵馬は微笑を零しながら、そっと手を離した。 「…なんで急にこうなったの?」 「え…? だって、あんなことされたら、そんなの……」 意識せずにいられるわけがない。 どきどきしないわけがない。 「俺のこと、ちゃんと男として意識してくれるようになったってことかな」 「…!」 蔵馬の言葉に、雪菜はうっと言葉に詰まったような顔をした。 雪菜は頬を染めたまま、再び顔を逸らす。 その仕種に、蔵馬はくすぐったそうに微笑を浮かべた。 「あの……勝手に意識して、勝手にどきどきして、ごめんなさい…」 「え…?」 「…だって、蔵馬さんにとっては、どうってことないことなのに… …わたしだけ、こんな、過剰に反応してしまって……」 恥ずかしいです、と雪菜は両手で顔を覆った。 蔵馬はそんな雪菜の反応を、驚いたように見ていた。 その言葉も、表情も、まるで恋する乙女のようだ。 こんな反応を見せられて、蔵馬は途惑わずにはいられなかった。 「……雪菜ちゃん。それは、どういう意味?」 「…え…?」 「どきどきするって、どういう意味で言ってる?」 「どうって………意味なんて、ひとつしかないです……」 両手で頬を抑えたまま、雪菜が蔵馬を見上げる。 蔵馬は茫然と雪菜を見つめていた。 彼女の真意がわからなくて、混乱する。 だって、まだ、恋なんて知らないはずで。 ただ、異性というものを意識しただけのはずで。 自分はただ、信頼されているだけの存在で。 だから。 だけど。 それが間違っているのだとしたら? だとしたら、見上げる彼女のこの瞳は。 頬を染めて、切なげに見上げるこの表情は。 蔵馬がそっと雪菜に手を伸ばす。 自分の頬を抑えている白く細い指ごと、蔵馬はその手を包み込んだ。 雪菜が大きな瞳を瞬かせたその刹那。 「おつまみってまだあったっけ?」 「お酒も足んないわね……って、あれ? 蔵馬くんと雪菜ちゃん」 聴こえてきた声は、螢子と静流だった。 彼女たちの視界には、流しに向かう雪菜と、その隣に佇む蔵馬の姿が映った。 「あら…お邪魔だったかしら?」 にやにやと笑う静流に、蔵馬は苦笑を返す。 雪菜は背を向けたまま、答えない。 顔が真っ赤な自覚があったため、振り返れなかった。 「おつまみなら、確かこっちにまだありましたよ」 蔵馬はそう言いながら、おつまみが入った袋を探して、螢子に手渡す。 静流は冷蔵庫から6本パックのビールとハイボールのボトルを取り出した。 横目で雪菜を見ると、耳が赤くなっているのが見えて、その姿に思わず笑みを零した。 ごゆっくり〜、と言いながら、去っていく螢子と静流を見送って、 蔵馬は雪菜へと向き直った。 「雪菜ちゃん」 「…! …はい」 「場所、変えようか」 「え……」 「ここじゃ、また、誰か来そうだし」 「え、あの、でも……」 「まだ、話終わってないから」 「!」 蔵馬に言われて、雪菜はどきりと振り返る。 「おいで」 そう言われて差し出された手を、雪菜はまじまじと見つめて、 そして、その手を掴んでいた。 8/戻/10 |