8. 「桑原さん、そろそろ上がる時間じゃない?」 牧瀬の言葉に、雪菜は店内にある時計に目をやった。 時刻は17時を過ぎており、早番の雪菜の勤務時間終了を指していた。 「あ、今日新人くんが来てると思うから。 スタッフルームにいたら、もう少し待っててって伝えてもらえる?」 「新しい方、今日からでしたっけ?」 「そうそう。大学1年生の男の子だって」 「確か、伊藤さんの後輩なんでしたっけ?」 「うん。チャラいけどいい人らしいよ。なにそれーって感じだけどね」 牧瀬が笑いながら言った。 伊藤とは、ここのバイトメンバーで、よくランチをする大学2年の女性だった。 その彼女の紹介で新しく採用されたバイトスタッフは、 今日の夜番が初日で、牧瀬が教育係を担当することになっていた。 雪菜は退勤の挨拶をして、2階にあるスタッフルームへと向かった。 この花屋では制服らしいものは黒のエプロンしかなく、それ以外は私服で良かったため、 更衣室はなく、男女兼用のスタッフルームがひとつあるだけだった。 スタッフルームの扉を開けると、中央にあるテーブルに、 茶髪の男が携帯を弄りながら腰かけていた。 彼は、雪菜に気づいて一応会釈はしたものの、すぐに軽薄そうな笑みを浮かべた。 「へぇ、可愛いじゃん」 「…!」 「いくつ?」 「…え? えっと…17です…」 「高校生?」 「あ、いえ…高校には行ってなくて」 「ふーん、そうなんだ」 雪菜は些か緊張しながらも、人間界での設定を思い出しながら話した。 「あ、あの、牧瀬さんがもう少し待っててって…」 「あーっと…それバイトリーダーの人だっけ?」 そう言いながら、新しいバイトの男は立ち上がって雪菜の方に近づいた。 「俺、風間。あんたは?」 「え? あ…桑原雪菜です」 「ユキナちゃん、ね」 値踏みするような風間の視線に、雪菜は気圧された。 この場から逃れたくて、雪菜は自身のロッカーの方へと向かおうとする。 「あの、わたしもう、上がるので…」 「ちょっと待ってよ」 「!」 風間に腕を引っ張られて、雪菜はびくりとする。 壁に押し付けられて、風間の両腕に挟まれる。 逃げ場がなくなり、雪菜は驚いて風間を見上げた。 「随分素っ気ないじゃん」 「あの……」 「ユキナちゃんって、彼氏いんの?」 「え? …いないです、けど……」 「マジで? じゃぁさ、今度メシ行こうよ」 風間の言葉に、雪菜はふるふると首を横に振る。 「えー、なにそれ、かわい」 「…あの、離してください……」 雪菜が小さな声でそう言ったとき、ばたんとロッカールームの扉が開いた。 入ってきた牧瀬が、一瞬茫然とする。 「ちょっと! 君、何してんの」 「え? 口説いてる」 「は? やめなさいよ!」 「えー、ここってバイト内恋愛禁止っすか?」 「そういうことじゃなくて…! 桑原さん困ってるでしょ」 少しも悪びれた様子のない風間に、牧瀬は呆れた顔をする。 牧瀬に嗜められて、風間は壁から両腕を離して雪菜から離れた。 「困ってた? ごめん」 「…いえ……」 風間の謝罪に、雪菜は俯く。 その様子に、さすがの風間もまずいことをしたという気になったようだった。 「やっべ、ビビらせちゃったかも」 「君ねー、ほんと何やってんの! 桑原さん、大丈夫?」 「あ、大丈夫です…! ちょっと、びっくりしましたけど……」 「や、だって、こんな可愛い子いたら口説くじゃん、普通」 「普通は初対面で口説かないって! もう伊藤ちゃんに聞いてたとおり、チャラいわ〜」 「え、伊藤先輩そんなこと言ってました? 酷いなー。ノリが良いって言ってくださいよ」 「もう次やったらクビね!」 「マジっすか?」 「それに、この子に手出したら、長身リーゼントに絞められるから気を付けなよ」 「え! なんスか、それ! 怖いんスけど…!!」 ヤンキーでもバックにいんの?と風間は雪菜を見たが、雪菜は何も答えなかった。 牧瀬は『いい人』という部分が嘘だったら、店長にクビにしてもらおうと思いつつ、 シフトは絶対に雪菜と被らないようにしようと心の中で誓ったのだった。 風間にエプロンを付けるように言って、桑原さんごめんね、と言いながら、 牧瀬は風間を伴って、スタッフルームから出て行った。 ひとり残された雪菜は、ふーっと息を吐いた。 予期していなかった展開に気圧され、今更になって心臓が速くなった。 以前の自分なら、風間の行動にぽかんとしていただけだろう。 だが、今は、下心というものを理解できるようになっていた。 一瞬感じてしまった恐怖が、じわじわと甦ってくる。 どうってことはない。 急に腕を掴まれて、驚いただけ。 大丈夫。すぐに治る。 そう、思うのに。 怖い。 そう自覚した瞬間、どうしようもなく居た堪れなくなってしまった。 どきどきと鳴り続ける鼓動。言いようのない不安。 こんなとき、彼に会いたくなってしまう。 会って、安心したくなってしまう。 だめなのに。 こんなに頼ってばかりでは、本当に離れられなくなってしまう。 迷惑を掛けたいわけではないのに。 頼ってばかりなのは嫌なのに。 なのに。 あの優しさを思い出したら、耐えられなくなっていた。 * 『雪菜ちゃん? どうかした?』 「…あの、急にごめんなさい」 優しい声を聞くだけで、安堵が広がっていく。 携帯を握り締めながら、雪菜は声を振り絞るように話した。 「今から…会えますか?」 『え…?』 「会いに行ってもいいですか…?」 突然の雪菜の申し出に、蔵馬は一瞬驚いたが、次の瞬間には言葉が出ていた。 『今どこ?』 「え、あ…バイト先です。今終わったところで…」 『迎えに行く』 「え! でも…」 『待ってて』 そう言って切れた携帯を、雪菜は呆然と見つめた。 迎えにだなんて、そんなわざわざ申し訳ない。 なのに、その優しさがたまらなく嬉しかった。 雪菜が帰り支度を済ませて店を出ると、店の前にはすでに蔵馬の姿があった。 息を切らした様子もなく、こちらに気付いていつもの微笑を向けてくれる。 休日のため、蔵馬は紺のTシャツにジーンズといったカジュアルな服装だった。 「ごめんなさい、急に…」 「全然。…とりあえず、うちでいい?」 蔵馬の言葉に、雪菜はこくりと頷く。 自宅ではなく、カフェなどの別の場所も考えたが、もし雪菜に何かあったのだとしたら、 人目を気にせず泣ける場所の方が良いのだろうと蔵馬は思ったのだった。 * 蔵馬の部屋に着いて、ふたりはソファーに並んで腰かけた。 蔵馬が気遣うように雪菜に視線を送る。 「なにかあった?」 「あの…えっと………」 「…?」 「……腕を掴まれて、怖くなってしまって…」 「…! え? 誰に?」 「あ、あの…そんな深刻なことじゃないんですけど…! 新しく入った方が、ちょっとふざけてただけなんですけど…… その、いろいろと思い出してしまって…」 なんてことはないただの戯れのような行為だ。 けれど、川上のことが頭をよぎってしまった。 怖いのを思い出してしまった。 さらに、穹鬼のことがあったせいで、今は余計に恐怖に敏感になっている。 「…それで、安心したくて……会いたくなってしまいました…」 「!」 雪菜はちらりと蔵馬を見る。 彼は驚いたような顔をしていた。 「……ごめんなさい」 「なんで謝るの」 「…こんなの…困りますよね……」 いつだって親身になってくれる。助けてくれる。 だから、こんなとき彼が優しいのは当然で。 それを利用して甘えている。 なんて、自分は狡いのだろう。 雪菜の言葉に、蔵馬はしばらく黙っていた。 その表情は、何かを逡巡しているように見えた。 だがすぐに、真っ直ぐと雪菜へ視線を送る。 「……ほんとに、俺を困らせるのはあなただけだよ」 呆れられた、そう思った瞬間、雪菜の身体は蔵馬の腕の中へと引き寄せられていた。 強く抱きしめられて、鼓動がうるさいくらいに鳴り響く。 あたたかさに包まれて、安心と緊張と喜びが入り乱れる。 蔵馬は雪菜を抱きしめたまま、ソファーに深くもたれかかった。 「その腕掴んできた奴って?」 「え? あ、えっと…今日入った大学生の方で…。 あの、でも、たぶん…悪い人ではないんだと思います…」 「そんな庇わなくてもいいのに」 「ホントに…きっと、わたしが過剰に反応しすぎただけで……。 男の人に触れられたのが、怖くて……」 「………今、俺が触れてるのは平気?」 「え…? あ……」 触れられるのが怖いと言っておきながら、蔵馬の腕の中で安心しきっている自分がいる。 言葉と状況があまりに矛盾していて、自分の言葉に雪菜は思わず笑ってしまった。 「言ってることがめちゃくちゃですね、わたし」 「いや…怖くないならいいんだけど」 「怖くないです。全然。…蔵馬さんに触れられるのは、安心するから好きです」 「…!」 雪菜の言葉に、蔵馬はしばらく呆気に取られていたが、そのあまりの無防備さに苦笑を浮かべる。 「…雪菜ちゃん、安心してくれるのは嬉しいけど、俺も男だって忘れないでね?」 「…! そうですけど……蔵馬さんが危険だなんて思えないです…」 「そう? 部屋に誘って抱きしめてる時点で、十分危険だと思うけど?」 「!」 「しかも、これで2回目だし」 意地悪く笑う蔵馬に、雪菜はすぐに反論の言葉が出なかった。 雪菜は何と言うべきか迷うようにしばらく逡巡していたが、 意を決したように、口を開いた。 「…だったら……これが危険だっていうなら、ちゃんと教えてください…」 「…ん?」 「蔵馬さんがどれくらい危険なのか…教えてください」 雪菜は蔵馬を見上げた。 蔵馬が目を瞬いてこちらを見ている。 「……ごめんなさい。本当はわかってます…。 わざとそういう言い方をして、わたしを心配してくれてるんだって…」 危険だなんて言って、本当はなにひとつ危険などないことくらい、わかっているのに。 彼が、ただ、用心するよう心配しているだけなのに。 そんなこと知っているのに、心配してくれる彼を困らせている。 勝手に頼って、困らせて、なんて理不尽なことをしているのだろう。 「蔵馬さんが危険だなんて、そんなわけ……きゃっ…!」 途切れた言葉。零れた小さな悲鳴。 雪菜の華奢な身体はソファーに倒され、その上に蔵馬が覆い被さっていた。 息が掛かるほどの距離に、端正な顔がある。 翡翠の瞳が真っ直ぐにこちらを見ていた。 その視線に、どきりと鼓動が跳ねる。 ほんの少し動けば、鼻が触れそうなほど、あまりにも近い距離だった。 「…ほんとに無防備だね」 そう言って、蔵馬が雪菜の頬に触れる。 雪菜は目を見開いて、息を飲んだ。 深い色の瞳に囚われて、視線が逸らせない。 無言のまましばらく見つめられたかと思うと、蔵馬の親指が雪菜の唇に触れた。 愛らしい唇の淵をゆっくりとなぞる。 雪菜は何も反応できずにされるがままで、蔵馬はその様子にふぅっと息を吐いた。 「もうちょっと抵抗して?」 「……え、あっ…あのっ……!」 ふと我に返って焦り出した雪菜に、蔵馬は苦笑しながら親指を唇から離した。 「俺も危険だってわかってくれた?」 「!!」 「雪菜ちゃんに怖い思いをさせたいとは思わないけど…無害じゃないとは言わないよ」 「………」 「安心もして欲しいけど、警戒もして欲しい。…なんて、俺も言ってることが矛盾してますね」 蔵馬はそう言って微笑を浮かべながら、雪菜の身体を抱き起した。 茫然としたまま頬を染める雪菜の瞳を覗き込む。 「少しはどきどきしてくれた?」 耳許で囁かれて、雪菜の鼓動は再びどくんと跳ねる。 照れた瞳で見上げると、蔵馬はいつもどおりに余裕そうな微笑みを浮かべていた。 「……今のは、ずるいです…」 「雪菜ちゃんに俺のこと意識してほしくて」 「…! ……意識、してますよ」 「ほんと? 家庭教師くらいにしか見てないのかと思ってた」 「そんなことないです…!」 「…あ、言っとくけど、誰にでもこんなことしないからね? 雪菜ちゃんだからですよ」 「!」 「ちゃんと用心してね」 困って見上げる雪菜に、蔵馬はただ微笑を返すだけだった。 その微笑みは、どこまで本気なのだろう。 諭されているだけなのだろうか。 何事も用心しろという警告なだけなのだろうか。 「あ、あと」 「…?」 蔵馬が雪菜の頬に再び手を添えた。 びくりと雪菜が反応する。 蔵馬はその顔を上げさせて、途惑う雪菜の顔を覗き込んだ。 「そんな顔、他の男の前でしないでね」 「……え?」 言われてから、雪菜は自分が真っ赤になっていることに気がついた。 顔が熱くて、溶けてしまいそうだ。 そんな顔を蔵馬にまじまじと見られているなんて、恥ずかしすぎる。 蔵馬はふっと笑いながら、雪菜を再び抱きしめた。 「……ごめん、安心したいって言ってくれたのに、意地悪しすぎたね」 「い、いえ……!」 「安心できなくなっちゃったかな?」 「そんなことないです、大丈夫です…」 でも、と雪菜は付け足した。 「……どきどきが止まらないです……」 「…! ………ごめん」 切実な雪菜のつぶやきに、蔵馬は少しやりすぎたことを反省する。 だが、どきどきしてくれているということは、 男として意識してくれているのだろうかと期待してしまう。 「………それってさ」 「…?」 「……どこまで自覚して言ってるの?」 「え……?」 「………いや、なんでもない」 「??」 疑問符を浮かべている雪菜に気づかれないように、蔵馬は小さく溜め息を吐く。 わかりやすいほど特別扱いをしているつもりなのに、 雪菜には親切心以上には思ってもらえていないようだった。 桑原の気持ちにさえ気づいていないのだから、当然と言えばそうなのだが。 ちゃんと男として意識してほしいのに。 好意があると気づいてほしいのに。 好意だとわかった上で、自分との関係を考えてほしいのに。 だけど。 好意だとわかった瞬間に、安心できる存在ではなくなってしまうのは避けたかった。 雪菜が安心できる数少ない場所でいられているのに、それを壊してしまうなんて出来ない。 いちばんに頼ってくれて、いちばん傍にいられる。 今はただ、それだけで十分かと思いながら、蔵馬は雪菜をさらにぎゅっと抱きしめた。 雪菜は一瞬びくっとしたが、身を預けるように蔵馬に凭れかかった。 このままずっと時間が止まればいいのに。 お互いがそう想っていることなど知らず、ただこの温もりを感じていた。 * さすがに泊まらせるわけにもいかなくて、蔵馬は雪菜を桑原家まで送った。 家の前に着いて、雪菜は申し訳なさそうに蔵馬を見上げる。 「あの…本当に、いろいろとごめんなさい……」 「謝らなくてもいいですって。…少しは落ち着けた?」 蔵馬の言葉に、雪菜は、はい、と頷いた。 その様子を見ながら、蔵馬は雪菜に微笑みかけた。 「何かあったらいつでも呼んで」 「…!」 「すぐに飛んで行くから」 雪菜は目を見開いて、そして、ありがとうございます、と微笑み返した。 その優しさが、あたたかくて、嬉しくて、切ない。 だけど、それでも、離れがたいと思ってしまうのだ。 傍にいたいと、思ってしまう。 7/戻/9 |