10.

ズキズキと身体中の痛みを感じて目を覚ます。
カーテンから差し込む日差しはまだ弱く、空が白み始めたばかりだった。
まだ機能を果たしていないままの目覚まし時計を止めて、蔵馬はベッドから身を起こした。

痛みで目を覚ますのは、これで3日目だ。
右腕に巻かれた包帯をほどきながら、蔵馬は軽く溜め息を吐いた。

先日魔界に行ったとき、名を上げたいだけの野盗の集団に囲まれて、
右腕に一太刀あびてしまった。突然の奇襲と数に油断した。
大した使い手たちではなかったため、その場ですぐ追い払うことは出来たが、
受けた刃に仕込まれていた毒が厄介だった。

蛇か蜘蛛だろうか。
恐らく魔界の奥地に生息する特殊な生物の毒のようで、解毒の方法がわからない。
あらゆる毒を解毒できる万能な薬草を試しても、良くはならなかった。
致死量ではないし、傷も酷くはない。
けれど、じわじわと痛みを伴って、毒が身体中を巡っている。
手持ちの薬草が効かない今、体内の毒を妖気で浄化するしかなかった。
魔界に戻って、ツテを辿って調べれば、解毒の方法はわかるのかも知れないが、
そこまでの気力もなく、何日か耐えればなんとかなるだろうと思っていた。

ガーゼを換えて、包帯を巻き直す。
左手で巻くのがやりづらくて苛々する。

おまけに今日は、馬の合わない先輩社員と、厄介な顧客との商談がある。
自信過剰で何かと一言多い男性の先輩は、社長の義理の息子である自分を毛嫌いしている。
キザな振る舞いや容姿が気に入らないらしい。
その先輩が、気難しい顧客の前で調子に乗って余計なことを言うのは目に見えている。
それを取りなすこちらの身にもなって欲しいものだ。

客先から直帰のため、いつもより早く仕事は終わるが、夕方は桑原と会うことになっていた。
模試の結果が良くなかったらしく、解説を頼まれている。

初見では流石にまずいかと思い、昨晩問題を解いて、
どう説明すれば上手く伝わるかを既に考えていた。
こうやって世話を焼いてしまうのが、自分の良くないところだと思いつつも、
頼まれると断れない性分なのだと諦めるしかないのだろうと思っていた。
頼まれなくても勝手に世話を焼いてしまうこともあるが。

蔵馬は重い身体を動かしながら、再び溜め息を吐いて、ワイシャツに着替えた。
ネクタイを結ぶ右手がわずかに痛む。
軽いと言えど、痛みがこう何日も続くと、流石に動くのさえ億劫になってくる。



*



「秀一くん、おはよう」
「おはようございます」

リビングに降りると、義父が朝食を食べながら新聞を読んでいた。
キッチンにいる母・志保利も、蔵馬に微笑みを向けた。
義弟の秀一はまだ寝ているようで、リビングにはいなかった。

息子がふたりとも同じ名前というややこしい状況ではあったが、
母も義父も相手の息子のことをくん付けで呼ぶようになっており、
家庭内では呼び分けが出来ていた。
当人同士は、蔵馬が義弟を「秀一くん」と呼び、義弟は蔵馬のことを「秀兄」と呼んでいる。

「そうだ、母さん」
「なぁに?」
「今日は桑原くんちに寄るから、夕飯はいらないよ」
「またお勉強? 桑原くんも受験生だもの、大変よね」

友人として初めて桑原を紹介したとき、母は少なからず驚いた様子を見せていた。
無理もない。盟王高校には絶対にいないヤンキーという種族だったのだから。
だが、今では、桑原の人情熱い性格を理解していた。

「桑原くんちにお世話になってる女の子…なんて子だったかしら」
「あぁ…雪菜ちゃん」
「そう、雪菜ちゃん。とっても可愛い子なのよね? 今度うちに連れてきて欲しいわ」
「え? うちに?」
「だって秀一の女の子の友達なんて、今までひとりも会ったことないんだもの。
 会ってみたいわ」
「……そんなの彼女が困るよ」

母親の言葉に、蔵馬は苦笑する。

「友達っていうか…雪菜ちゃんにとっては、
 俺はカテキョの先生くらいの認識だから。家になんて呼べないよ」
「そうなの? 残念」

実際のところは、母に会わせたいと言ったら、彼女は喜んで来てくれるのだろう。
だが、母親に女の子を紹介するというのはなんともくすぐったい感覚がする。

「いつか彼女が出来たときは、ちゃんと紹介してよ?」
「……いつかね」

蔵馬は苦笑しながら、コーヒーを飲んだ。
彼女はいないのか、その手の話は高校の頃からちょくちょくと探りを入れられている。
年頃の息子を持つ母親にとっては当然の心配と興味なのだろう。

「秀一くんは会社でも人気だからね。狙ってる女性社員はたくさんいるみたいだよ」
「父さん…そんなことはないよ」
「秀一くんのおかげで取引先のファンも増えたし、我が社は安泰だな」

冗談を言いながら笑う義父に、蔵馬は苦笑を返す。
波風を立てないように、人当たり良く振る舞っているだけなのに、
それを優しさと勘違いされ、勝手にファンが増えていく。
秀一の容姿や、人間関係というものは本当に厄介だと蔵馬は思っていた。
妖狐のときのように、好き勝手に振る舞うことができたなら、どんなに楽か。
だが、そんなことをすればここで生きていけないことはわかっているし、
まだこの場所を捨てる気にはなれなかった。

家族がいて、仕事があって、煩わしい人間関係がある。
それを選んだのは自分で、今でもこの選択に後悔はない。

「そろそろ行くよ」
「いってらっしゃい。桑原くんによろしくね。あんまり遅くならないように」
「母さん。もう子どもじゃないんだから」

蔵馬は笑いながら、いってきますと言ってリビングを出た。
社長である義父は、もう少しのんびりしてから出社するようだった。
結局義弟はまだ起きてこなかったなとぼんやり思いながら、蔵馬は駅へと歩き出した。

こんな生活は、魔界では考えられない。
けれど、あのとき得られなかった温もりや優しさを感じられる。
それが自分には心地よかった。

願わくば、彼女もその気持ちを享受でますように。
あたたかいものに触れることができますように。

ああこれが、頼まれてもいないのに焼いてしまうお節介のひとつだなと思いながら、
それでも彼女の笑顔が浮かんでは消えなかった。



*



「これは、こっちの式から解いて…」

さらさらと綺麗な字がノートに綴られる。
難解な数学の問題が華麗に紐解かれていくようだった。

「あーそういうことか! やっと理解できたぜ!」
「解説はちょっと途中の式を端折りすぎですね」
「だよな! 何回読んでもよくわかんなくてよ…助かったぜ!」

いえいえと首を振りながら、蔵馬はシャーペンをノートの上に置く。
仕事を終えて桑原家に着くと、桑原に出迎えられ、
そのまま彼の部屋で延々と模試の解説をしていた。
模範解答と解説はあるものの、それだけでは理解しきれない箇所が多々あるようだった。

大学入試まであと半年を切った。
附属高校とはいえ、入試の難易度はそれなりに高い。
桑原は毎日受験勉強に明け暮れていた。

「塾でも解説受けたけどよ、やっぱオメェの解説がいちばん分かり易いんだよな」
「そうですか?」
「塾講師になりゃ良かったのに」
「そんな大勢の進路に関わる仕事なんて…責任負えませんよ」

蔵馬は笑いながら、次の問題の解説をはじめた。
リーゼントの不良だった彼が、今や塾にも通い大学を目指す受験生となるだなんて、
出会った頃から考えれば想像もできないことだった。
とはいえ、リーゼントで不良なのは今も変わらないが。

時計の針が19時を指した頃、こんこんと控えめにドアをノックする音が聞こえた。
開いた扉から姿を現したのは、ミントブルーの髪の少女。

「お勉強中にごめんなさい。あの、お夕飯どうしますか?」
「雪菜さん! もうそんな時間ですか…!」
「用意はできてますけど、もう少しあとにします?」
「蔵馬と先に食べててください!」
「え…?」
「俺はあとで食べます。もう一回問題解き直しとかないと、
 教えてもらったこと忘れそうなんで…!」

切実な桑原の言葉に、雪菜ははいと頷いて、先にリビングへと戻って行った。

「いいんですか? 先にいただいて」
「あぁ、構わねぇよ。
 雪菜さん見てると癒されすぎて脳みそ溶けちまいそうだし」

桑原は笑いながら言って、模試の問題に再び向き合った。
問題を解いている間は何も出来ることはないだろうと、蔵馬は夕飯を先にいただくことにした。
静流も桑原父もまだ帰ってきていないから、雪菜とふたりで食べることになるのだが、
それは良いのだろうかと思いつつも、余計な邪念を与えないようにしようと
黙っておくことにした。



*



桑原家に行くと、大抵夕飯をご馳走になることが多かった。
昔はピザのデリバリーが定番であったが、雪菜が来てからは
彼女の手料理が食卓に並ぶようになった。
今日の献立は、ハンバーグにマッシュポテト、シーザーサラダとスープだった。
蔵馬は雪菜と向かい合って、リビングのテーブルに座った。

「いただきます」
「どうぞ。お口に合うといいんですけど…」

不安げに見つめる雪菜の視線を受けながら、蔵馬は食事を口に運ぶ。
人間界の食事の味などほとんど知らない彼女が、
こうして毎日試行錯誤をしながら料理を作ってくれている。
その頑張りだけで、おいしさが増す気がした。
もちろん、それを差し引いても、雪菜の料理はおいしかった。

「おいしいですよ、どれも。また腕を上げましたね」
「本当ですか? よかったです」

雪菜は安心したように笑った。

「幻海さんのところにいた頃は、精進料理とか修行メニューを作ることが多くて…
 だから、ここに来た最初のうちは、味が薄すぎたみたいで」

雪菜は苦笑する。
それでも、おいしいと言いながらバクバク食べていたであろう桑原の姿が容易に想像できた。

「最近は螢子さんの定食屋でもお手伝いをさせてもらって、お料理を教えてもらってるんです」
「そうだったんですね」

どおりで腕を上げているわけだ。
蔵馬は納得しながら、ハンバーグをもうひとくち口に運んだ。

「優しい味ですね」
「え…?」
「まるであなたみたい」
「…!」

雪菜が大きな瞳をぱちくりと瞬いて、蔵馬を見つめた。
蔵馬はただ微笑んだだけだった。

彼女が新しい優しさに触れている。
この世界で生きていこうとしている。
そのことがこんなにも嬉しいだなんて、彼女にはきっとわからないだろう。

月夜を見上げる儚げな視線。怯えた瞳。震える涙。
笑顔の裏にあるそれらの表情を知ってしまってから、
あたたかいものに包まれていて欲しいと願っているこの切なる想いなど、
彼女はきっと知らないだろう。

誰にも見せはしなかった彼女の深奥。
それを垣間見た気がして、けれどまだ遠く距離があるような気がして、
気に留めずにはいられないのだ。



*



食事を終えて、食器をキッチンの流しに運ぼうとしたそのとき。
ずきんと思い出したかのように右腕の傷が疼いた。
食器を取り落としそうになり、慌ててテーブルに置き直す。

ああ、もう、こんなときに。
本当に厄介なものだ。

「蔵馬さん…? 大丈夫ですか?」
「…ん。大丈夫。魔界でちょっとね」
「え? …怪我ですか? 診せてください…!」

大丈夫だよ、そう答えようとしたが、雪菜に右腕のシャツを捲られていた。
そこには包帯が巻かれている。
左手で雑に巻いたせいで、すでにそれは取れかかっていた。

怪我とは反対の手を雪菜に引かれて、半ば強引にソファーへと座らされる。
蔵馬の右隣に座った雪菜に、くるくると包帯を解かれ、ガーゼも外される。
そこには毒気で化膿した痛々しい傷跡があった。

「…グロいでしょ。あんまり見ない方が…」
「これは…蜘蛛の毒ですか?」
「…わかるの?」
「種類までは…。でも、魔界の毒蜘蛛による化膿の仕方ですね」

雪菜はじっと蔵馬を見上げた。

「この刀傷を受けたのはいつですか?
 毒が身体を巡っているんじゃありませんか?」
「……もう3日かな」
「そんなに…!」
「薬草がなかなか効かなくて。体内の妖気で浄化するしかないみたい」
「大丈夫です。わたしの治癒能力で治せます」
「え…でも、体内の毒は…」

驚いた蔵馬に、雪菜は傷口に手を翳しながら答えた。

「ウイルスや病原体のような生物によるものは治せませんけど、毒だったら浄化できます」
「…!」
「わたしだって幻海さんのところで修行してたんですよ? 少しは役に立てます」

雪菜の妖気が、傷口を通して蔵馬の身体の中に入っていく。

「蜘蛛の毒は、拷問にも使われるんです」
「……」
「死ぬほどではないけれど、長く体内に留まって、その身体を蝕んでゆく…。
 だから、浄化には少し時間が掛かります」

傷口に手を翳したまま、雪菜は視線を上げて、ただ蔵馬ににこりと微笑む。
その笑みとは裏腹の先ほどの言葉に、蔵馬はなんと返したら良いかわからなくなった。
ただの知識としての言葉なのか、経験からなのかを問いかける勇気はなかった。

「…ねぇ、蔵馬さん」
「ん…?」
「わたしのことも、頼ってほしいです」
「雪菜ちゃん…」
「いつか、話したのを覚えていますか?
 蔵馬さんが困ったときは、わたしが力になるって」

もちろん覚えている。
雷鳴鳴り響く、大雨のあの日。
無条件の優しさに途惑う彼女と交わした約束。

「蔵馬さんの薬草には敵わないかもしれないですけど、
 こういうときこそ、力にならせてください」
「敵わないなんてとんでもない。俺の薬草はただの気休め程度ですよ。
 現に毒は浄化できないですから。だから、充分勝ってますよ」
「なら、よかったです。わたしが、唯一役に立てることですから」

雪菜の言葉に、違うよ、と蔵馬は首を振る。

「治癒能力だけじゃない…あなたの優しさに俺は癒されてるんですよ」
「え……」
「だから、もうとっくに力になってくれてる」

大きな瞳が蔵馬を見上げたまま静止する。
蔵馬は笑みを向けた。

「でも、今度からは、怪我をしたら真っ先に雪菜ちゃんに頼ることにする」
「…! はい、そうしてください」

にこりと微笑む雪菜に、蔵馬もまた笑みを返す。
ああ、そうだ、この笑顔が見たかったんだ。

話しているうちにみるみると治っていく傷に、蔵馬は少なからず驚いていた。
暗黒武術会のときに少しだけ治療をしてもらったことはあるが、
あの頃と比べて、格段に進歩していた。
飛影の妹なのだから、妖力があるのは知っていた。
だが、ここまでとは思っていなかった。

傷口が塞がった腕に、雪菜が軽く手を置く。
ひやりとする手の感触とともに、彼女の妖気がゆっくりと身体中に流れてくる。
毒が少しずつ浄化されていく感覚が心地よくて、蔵馬は目を閉じた。

冷気を纏う妖気なのに、こんなにも心地よいのはなぜだろう。
まるで彼女を表すかのように、穏やかで優しいからだろうか。

思わずうとうとしていたことに気づいて、蔵馬は目を開ける。
雪菜は治療を続けながら、気遣うように言った。

「どうぞ、そのままで。少しお休みになった方がいいです」
「…ありがとう」

一言だけそう言って、蔵馬は再び目を閉じる。
すぐにまた微睡みの中へと誘われていった。



*



「ゆっきなさ〜ん、やっと終わりました〜」
「和真さん…!」

模試で躓いた問題をひと通り解き終えた桑原が、夕飯を食べにリビングへと降りてきた。
雪菜は慌てて、桑原に向かってしーっと人差し指を立てた。
隣で眠る蔵馬は、ぴくりと反応したものの、目を開けなかった。

「…蔵馬、寝てるんですか??」
「はい。怪我をされてたみたいで…」
「え…! それならそうと言ってくれりゃーいいのに」
「ご自分のことは後回しで助けてくれるのが蔵馬さんですよ」
「……そうっスね」

小声で話しながら、桑原は蔵馬を見た。
いつも頼ってばかりで、申し訳なく思う気持ちはもちろんある。

「…俺、部屋で食べてきますよ」
「え…」
「だから、まだ寝かせてやってください」

冷めたままの夕飯をお盆に乗せて、桑原は2階へと戻っていった。
再び静かになったリビングで、雪菜は蔵馬を伺い見た。
たぶん、今のやり取りで彼は目を覚ましている。
けれど、それでも起きる気にはなれなくて、再び眠りについたのだろう。
3日間、まともに眠れていなかったのだから、当然だ。

雪菜は傷ついていた手にそっと触れた。
少しは役に立てただろうか。
いつも力になってくれる、優しい彼の。

だから、どうか、今は穏やかな眠りを。



*



とん、と肩に重みを感じて、蔵馬は目を覚ました。
視線を向けると、ミントブルーの髪が視界に入った。
自分の肩に凭れて、穏やかな寝息を立てている。
久々に治療のために妖気を使って、彼女も疲れたのだろう。

握られている手に、なんだかくすぐったい心地がした。
こんな姿を桑原に見られたら、きっと殺される。

傷は綺麗に治っていて、身体中を蝕んでいた痛みも、嘘だったかのように消えている。

帰りが遅くならないように、なんて母親に言われていたのを思い出したが、
まだ、もう少しだけこの穏やかな眠りの中にいたくて、蔵馬は再び瞳を閉じた。










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