9.

「お医者さん…ですか?」
「ええ。やっと腕の立つ医者が見つかりました」
「でも…わたしの主治医は蔵馬さんですよ?」

雪菜の大きな瞳が瞬く。
蔵馬は苦笑を見せた。

「そうですけど…でも、俺は本物の医者じゃないし。
 ちゃんとあなたの種族に詳しい医者がいた方が良いでしょう?」
「え…氷女を診たことがある方なんですか?」

驚く雪菜に、蔵馬は微笑んだ。

「そう。やっと見つけたんだ」



*



電車に揺られて1時間半。さらに、そこからバスで30分。
人里離れた地に、その医者はいた。
妖怪を診る医者なのだから、街中にいないのは当然といえば当然なのだが。

ここまで駆けていくこともできたが、
人間生活の長い蔵馬は、交通機関を使うことには慣れていたし、
雪菜も人間界での暮らしを学んでいるのだから、電車とバスで行くことにした。
それに、雪菜にそこまでの体力はないだろうと思った。

妖怪は人間よりも頑丈な身体を持っている。
傷はすぐ治るし、病には掛かりにくい。
だが、そんな妖怪の中でも、氷女は脆弱な種族であった。
滅多に外界にさらされず、吹雪に閉ざされた里で一生を終える彼女たちは、
強靭な身体を手に入れる必要はなかったのだ。

雪菜がここまで人間界の土地に馴染むことが出来ているのは、
異種族の血が混じっているからだろうと蔵馬は思っていた。
その血はおそらく、とても強大な種族の遺伝子を受け継いでいる。
飛影が幼くして十三層で名を馳せたのは、彼の鍛錬の賜物であることはもちろんだが、
そもそもの素地があった故だったのだろう。

氷女の生態は、今でも神秘に包まれている。
だからこそ、少し医術を心得ているだけの自分よりも、
ちゃんと見識のある医者がいた方が良いだろうと蔵馬は思っていた。


「お待ちしておりました。蔵馬殿」

森の奥にある古ぼけた洋館の扉から、使いの下級妖怪が出迎えに現れた。

「主様は奥でお待ちです」
「ああ。ありがとう」

下級妖怪に通されて、蔵馬と雪菜は広間の奥の部屋へと進んだ。
通された部屋に、佇む女性の姿。
夜空のように深い蒼い髪を後ろでひとつにまとめ、
洋館には些か不釣り合いな菫色の和装姿に身を包んでいた。
妙齢のその女性は、蔵馬と雪菜に向かって微笑みを浮かべた。

「私は蒼露(あおつゆ)と申します。遠路はるばるご苦労様です」
「蔵馬です。やっとお会いできました」
「申し訳ありません。妖怪の医者は少ないもので、予約で埋まっておりまして」

そう言ってから、蒼露は雪菜の方に視線を送った。

「こちらが患者様ですね」
「…! あ、わたし、雪菜と申します」
「初めまして。雪菜様。さぁ、問診をはじめましょうか」

蒼露の湖のように澄んだ瞳が、優しく雪菜に微笑みかける。

「蔵馬様は応接室でお待ちください」
「え、行っちゃうんですか…?」
「あら、殿方のご同席はよろしくないかと」
「…あ、そうですよね……」

雪菜の様子に、蒼露はくすくすと笑う。
恐らく、初めての場所で初めて対面する相手とふたりきりにされることに途惑ったのだろう。

「雪菜ちゃん、蒼露は信頼できる医者ですよ」
「…はい」
「だから、大丈夫」

蔵馬はそう言いながらも、でも、と付け足した。

「何かあれば、すぐ呼んで」



*



雪菜は蒼露から体調に関しての質問を受けたあと、
検査着に着替え、いくつかの部屋でいくつかの検査を受けた。

身体中の至るところを念入りに診察され、ここまでしっかりと診られるのは、
霊界で保護されたとき以来だなと雪菜はぼんやりと思い出した。

診察台に寝転がりながら、
他者に触れられるのにここまで抵抗がなくなったのは、蔵馬のおかげなのだろうと雪菜は思った。
霊界での診察では、だいぶ警戒していたし、初めて蔵馬に診察されたときも、
熱で浮かされあまり覚えてはいないが、自分は怯えていた気がする。
だが、あのとき、絶対に傷つけないと言った彼の言葉で、妙に安心したのを覚えている。
今も、同じ空間に蔵馬がいるから、蒼露に身を任せても問題ないと思える気がした。

蒼露とその助手たちによる検査がひと通り終わり、
雪菜と蒼露は、最初の部屋で向かい合って座していた。

「まだすべての検査結果が出たわけではないですが、健康状態に問題は無さそうですね」

そう言いながら、蒼露は今回の検査結果とは別の書類を手にした。

「蔵馬様の治療のおかげで、もう必要な抗体は十分持っていますし、
 過去の処置も適切になされています。私の出番は無さそうで安心しました。
 蔵馬様は余程あなたを心配しているご様子ですね」
「…!」
「私を見つけるのにも苦労されたはず」

蒼露はふふっと笑う。

「私が信頼に足る者か、見極めるのにも時間を掛けたようですよ」
「…! …そうだったんですね」
「ですから、少しは信用いただいて良いかと」
「あの、別に疑っているわけでは…!」
「良いのです。疑いを持つことは、あなた方には必要なことですから」

あなた方とは、自分の種族のことを指しているのだろうと雪菜は理解した。

「あの…氷女を診察したことがあるんですか?」
「ええ。遠い昔ですけれど。
 私がまだ魔界にいた頃、ある集落に、氷女の一団がおりました」
「集落にですか?」
「はい。国を抜け出してきた者たちが、そこに集まって暮らしていたのです。
 私は医者の腕を磨きながら旅をしている途中で、彼女たちに会いました」

蒼露は、その頃のことを思い出すように目を細めた。

「彼女たちは、とても儚げで美しく、しかし脆弱で、とても傷ついていた」
「……」
「外界で生きていく術も知らず、私が出会ったときには、もう身も心も弱りきっていたのです」

弱肉強食のこの世で、争うことも知らず、他に騙され、搾取され、
途方に暮れながら、身を寄せあって生きていた。

「治療をしていくうちに、彼女たちは氷女についていろいろと話してくれました。
 滅多にお目にかかれない神秘な種族なだけに、私も興味津々で彼女たちの話を聞きました。
 彼女たちは、後世の氷女たちのために、役立ててほしいと話していました」
「……彼女たちは、今は」
「何人かはあのとき看取りました。残った者たちもいましたが、もう長くはなかったでしょう。
 それももう遠い昔の出来事です」
「…そうですか」
「私は旅の中で様々な種族に出逢い、治療をして来ました。
 そして、流れ着いたのが人間界のこの地。
 人間界には、妖怪の医者は少ないですから、役に立てると思ったのです。
 …まさか、氷女にまたお会いできるとは思っていませんでしたけどね」

蒼露は雪菜を見つめる。
あのとき出逢った氷女たちとは違い、脆弱でか弱い印象は微塵も感じなかった。

「この知識を役立てることが出来るのなら光栄です。
 今後は少なくとも年に1回は健康診断にいらしてくださいね。
 もし体調が悪化するようなことがあったら、連絡をしてください」
「はい。ありがとうございます」

それから、と蒼露は少しだけ躊躇った様子を見せたが、雪菜を見つめて言った。

「あなたには異種族の血が混じっていますね」
「…! …はい」
「外界で生きていけるのは、そのおかげもあるのでしょうね。
 多少ですけど、遺伝子の構造が、これまで見てきた氷女たちとは異なっています」
「そうなんですね…」
「性質はすべて氷女のものを受け継いでいますから、
 少し強い身体と適応力の高さが備わっている程度ですが」

人間界の夏の暑さに耐えられる身体になっている。
その適応力こそが、まさしくその証だと蒼露は思った。
過去に出会った氷女たちより、適応力の優れた身体を持っている。
だからこそ、彼女は人間界で生きていけてしまう。

「雪菜様。あなたは氷女の身体のことをきちんと理解していますか?」
「え……?」
「外界で生きていくのであれば、知っておくべきことがあります」

蒼露の眼差しに、雪菜は不思議そうに小首を傾げた。



*



診察がはじまって、どれくらい時間が経っただろうか。
蔵馬が読んでいた書物から腕時計へ視線を移そうとしたとき、名を呼ぶ声が聞こえた。

「蔵馬様。お待たせしていて申し訳ありません」
「いえ」
「雪菜様は今、今後の利用方法について説明を受けています。
 その間に、少しよろしいですか」

蒼露にそう言われ、蔵馬は別室へと招き入れられた。

「雪菜様が、あなたは主治医であり保護者的な存在だと仰っていました」
「ええ、まぁ…そんな感じです」
「雪菜様がこれからも人間界で生きていくのであれば、
 氷女の特徴と彼女の身体のことを理解している方が、本人以外に必要です。
 雪菜様はあなたには話しても良いと」

蔵馬は自分で良いだろうかと思う気持ちもあったが、
知っておくべきだろうと、蒼露の言葉に頷いた。

「ご存知かとは思いますが、氷女は百年に一度、己の分身とも言える子を成します。
 誰の力も借りず、産むことが出来るのです。そして産まれるのは女児だけ。
 けれど、男性と交わってしまえば、周期に関係なく子を身籠もり、男児を産んで死に至ります」
「……」
「雪菜様が本物の愛として死を望むのでなければ、如何なる行為も止めねばなりません。
 見目麗しい彼女が、人間にも妖怪にも誑かされることのないよう注意が必要です」
「もちろん、それは阻止します」

彼女が男の欲望によって死に至らしめられるなんて、そんなことがあってはならない。
彼女自身が自衛する必要があるが、周りが注意をしておく必要があるだろう。

「ですが、抜け道もあります」
「……え」
「氷女が男児を身籠る原理は、他の生物と同じく、子種が宿ること。
 ですから、避妊をすれば、行為は可能です」

人間界では完全な避妊方法はないが、
魔界の避妊具は完全を保証されているものが多数存在する。
奴隷や商品を孕ませないためという裏黒い歴史から生まれたものではあるが、
魔界の技術や妖術を使えば可能であった。

「なぜこんなことを、と思うかもしれませんが、知っておくべきことです。
 外界で生きていくのであれば、いつか誰かを愛するかもしれない。
 そのとき、触れ合いたいと思うかもしれない。
 襲われてしまったとき、せめてもの自衛の手段になるかもしれない。
 死を避ける選択肢があることは知っておくべきです」
「……彼女は、氷女はそういった感情を抱くものですか」
「それは…愛ですか?それとも性欲?」

ふふっと笑いながら直球な言葉を投げかける蒼露に、思わず蔵馬は苦笑する。

「…どちらもです」
「個体差はありますが、異性への愛は抱くことがあります。
 過去にも、自らの意思で男児を産んだ氷女は何人もいるそうです」

これは私も聞いた限りでしか知りませんが、と蒼露は付け足した。

「性欲は、元来は抱きません。もともとその必要はないからです。
 でも、愛を知れば、それを覚える者もいるようです」
「……そうですか。とどのつまり、雪菜ちゃんも恋をしてしまう可能性があるということですね」

そして、異性と交わりたいと思う可能性とリスクも。

「保護者としては心配ですか」
「それは、もちろん。恋を知ってほしいような、
 知らないままでいて欲しいような、複雑な心境です」
「雪菜様は異種族の遺伝子を持っていますから、その分恋心を抱く可能性は高いでしょうね」

ああ、それと、と蒼露は思い出したかのように付け足した。

「氷女の身体は、初めての分裂期が訪れる頃に成熟しますから、彼女の身体はまだ未成熟です。
 といっても、内側がということで、外側はあと数年で成熟しますけれど」
「…つまり?」
「今はまだ子は成せないということです。例え、異性と交わったとしてもです」
「…しばらくは死のリスクはないというわけですね」
「ええ。…ですから、もし、人間と添い遂げたいのなら、今しかないかと思います」
「…! それ、彼女には…」
「もちろんお話ししました」
「…そうですか」
「まぁ、あくまで、身体のことを前提に置いたお話ですけど。
 けれど、氷女は心だけでは想いを成就できないという現実があります。
 それは忘れてはいけません」

誰かを愛してしまえば、命を懸けるリスクが生まれる。
その現実に、蔵馬は苦笑せずにはいられなかった。

「なんとも難儀な種族ですよね。異性を愛するのに死が付きまとうだなんて…」
「ええ、そうですね。非合理なものです。
 単体で種族を増やせるのに、異性とも子を成せてしまう…。
 なんの因果でこのような種族になったのでしょうね」

考えても詮無いことでしょうが、と蒼露は付け足した。

「氷女に限らずですが、稀有な種族は、いつの時代も他者の業に巻き込まれ易いものです」
「……ええ」
「彼女は既に巻き込まれていますね」
「……」
「雪菜様の身体には、至る所に何度も再生した痕がありました」
「!」
「表面上は綺麗に見えても、刻まれた傷は消えはしません」
「……」
「あの若さですから、まだ古い記憶でもないのでしょう。
 …雪菜様の心は、ちゃんと救われていますか」
「………わかりません。でも、良くなっているはずです」

頼りない答えだと、蔵馬自身も思う。

けれど。
少しずつ。少しずつ。
彼女は心を開いてくれている。

いつか想いを打ち明けてくれるだろうか。
頼りにしてくれるだろうか。
信じてくれるだろうか。

安心できる場所なのだと思ってくれるだろうか。

「…私も精神科医ではないので、確実なことは言えないですが、
 私たちの診察に対して、彼女は少しも怯えた仕種は見せなかった。
 それが、あなたを信頼している証なのでしょうね」
「…! …そう願います」

信頼が、少しでも降り積もっているだろうか。
彼女の心の奥底に。



*



帰路についた頃には、空が茜色に染まっていた。
バスと電車に揺られ、桑原家へと続く道を、蔵馬と雪菜は歩いていた。

「すっかり遅くなっちゃいましたね」
「片道2時間はちょっと遠かったね」
「でも、蒼露さんにお会いできてよかったです。ありがとうございました」
「当然のことですよ。いつまでも俺が診るわけにはいかないからね」
「そんなことないです。蔵馬さんの診察の記録は、蒼露さんも褒めてましたよ」
「それでも、俺からは聞けないことを、蒼露は知っていたでしょ?」
「…! …そうですね」

それに、と蔵馬は笑いながら付け足す。

「いつまでも医者でもない俺が診察していたら、役得が過ぎるというか」
「え…?」

雪菜は意味が分からなくて首を傾げたが、蔵馬はただ苦笑するだけだった。

茜色の空を雪菜は見上げる。
先ほどの蒼露の話を思い出していた。

「…わたしも、愛せるんですね。母と同じように」
「……」
「異性と交われば、必ず死ぬのだと教えられていました。それは禁忌なのだと。
 身籠らない方法があると知っていたら、母はそれを選んでいたでしょうか」

ああ、でもきっと、それは違うのだろうと雪菜は思った。

「…きっと双子を産むことを選んだのでしょうね。
 それがきっと、母の望みだったのでしょうから」

望みがなんだったのか。
その答えは、きっと、兄に会うまでわからないのだろう。

「わたしは…」

どうするだろうか。
いつか誰かを愛したとき、どうしたいのだろうか。
誰かを、愛せるのだろうか。

「…まだ恋だなんてものがよくわからなくて」
「…そっか」
「でも、恋ができたら素敵だと思うんです」

たとえ、命を懸けるほどではなかったとしても。
そんな大恋愛ができなかったとしても。

誰かを好きになる。
そんなことが出来たら、それはきっと、とても素敵なことなんだろう。










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