8. 休日の雑踏の中、蔵馬は目当ての買い物を終えて、早々に帰路に着こうとしていた。 人間界の暮らしに慣れたとはいえ、いつまで経っても、 人ごみの喧騒は好きになれる気がしなかった。 やはり静かな空間のほうが心地がいいし、 ひとりで本でも読んでいた方が有意義な時間を過ごせる気がした。 駅に向かおうと大通りに差し掛かったところで、蔵馬の視界に見慣れた人影が目に入った。 ああ、しかも、何やらよくない展開だ。 「俺たち道に迷ったんだよね、教えてくんない?」 「そうなんですか? でも、わたしもあんまり詳しくなくて…」 「大丈夫、一緒に探してくれればいいから!」 「つか、超可愛いね」 2人組の若者にナンパされている雪菜の姿。 しかも、本人はナンパされていることに気づいていないようで、 男達に差し出された地図を懸命に見ていた。 蔵馬は小さくため息をつく。 こういうことが危険だということも、そろそろ覚えてもらわないと。 「すみません、彼女に何か用ですか?」 「…!」 「…んだよ、男いたのかよ!」 笑顔の蔵馬になぜか悪寒を感じて、男達はそそくさと去って行った。 男達の後ろ姿を見ながら、雪菜はぽかんとしている。 「道、蔵馬さんに聞けばすぐわかったのに…」 なぜ去って行ったのだろうと不思議そうな顔をする。 雪菜の様子に、蔵馬は苦笑せずにはいられなかった。 「雪菜ちゃん、今のはナンパですよ」 「…え? でも、道がわからないって…」 「道聞いたのは、声をかける口実です」 「そうなんですか…?」 「知らない人に付いてっちゃいけないって静流さんに教わったでしょ?」 「教わりました…けど、今のは難しいです」 道を聞かれたら教えるのが当然だし、困っている人がいたら助けないと。 雪菜はそう思っていた。 「下心がある人の言うことは聞いちゃ駄目です」 「下心……それは、わかるものですか?」 「大抵はね」 「わたしにもいつかわかるのでしょうか…」 下心、なんてものがあるかないかなど、どうやったら見抜けるか、 雪菜には想像がつかなかった。 そもそも下心というものがなんなのかもよくわからない。 「知らない男の人が声を掛けてきたら、大体そうだと思っておいて」 「え? そんな高確率で下心があるものなんですか…?」 「そうですよ。本当に困ってる人の方が稀です」 言い切る蔵馬に、雪菜はそんなものなのかと、漠然としながらも納得する。 蔵馬はちょっと言い過ぎかとも思っていたが、ただでさえ危なっかしいのだから、 もっと警戒心を持ってもらうためには、これくらいがちょうどいいだろうと思った。 変な男に引っかからないためにも、用心してもらわないと困る。 「妹がいたらこんな感じなのかな…」 「…え?」 「心配で放っておけないね」 「…!」 「気をつけないと駄目ですよ?」 「はい…! ごめんなさい…」 謝る雪菜に、蔵馬は苦笑を返す。 街中までひとりで出掛けられるようになったのは、 行動範囲も広がって良いことなのだが、その分リスクも増えていた。 彼女が早く恋愛ごとを理解してくれれば、ナンパの危険度も わかるようになるのだろうが、それはまだ先のようだった。 出会った頃の幼さはまだ残っているものの、人間で言えば高校生くらいには見えるだろうか。 街中にいても目を引くほど、整った顔立ちをしている。 色の白い肌に、大きな瞳、愛らしい唇が、なんとも可憐で心配せずにはいられない。 「なんだかまた大人っぽくなりましたね」 「…そうですか? あ、身長は伸びましたよ!」 にこりと雪菜が笑う。 蔵馬はそういうことじゃないんだけどなと内心で苦笑する。 だが、確かに、低かった身長も、今では蔵馬の肩くらいまでに伸びていた。 「まだ用事あるの?」 「いえ、もう帰ろうかなと…」 「じゃぁ、一緒に帰ろっか」 そう言って歩き出した蔵馬に、雪菜は慌てて付いて行った。 駅の改札を通って、電車に乗る。蔵馬の家は桑原家から2駅離れているが、 蔵馬は当然のように雪菜と一緒に電車を降りて、桑原家へと向かった。 雪菜は隣を歩く蔵馬を上目遣いに見る。 いつでも親切で、心配をしてくれる。 面倒見が良くて頼りがいがあり、安心できる存在だと雪菜は思っていた。 「…兄がいたら、蔵馬さんみたいな感じなんでしょうか…」 「……うーん、それはどうかな」 蔵馬は、自分とは似ても似つかない飛影の姿を思い浮かべながら、苦笑する。 「雪菜ちゃんが心配でたまらないって点では同じかな」 「!」 その言葉に、雪菜は驚いた顔をしたが、しばらくして目を伏せた。 「……兄は、わたしを捜してくれていると思いますか?」 「当然ですよ。家族ってそういうものです」 「…!」 もちろん兄のことを知らなければ、そんな無責任なことは言えない。 けれど、兄を知っている。 激痛に耐えて邪眼を移植し、些細な噂話でも真相を確かめに行く。 深傷を負いながらも必死になって捜し続けていた、その姿を知っている。 「わたしは……ここにいて良いんでしょうか」 「捜しに行きたい?」 「……」 「…まだ迷ってる?」 滅ぼしてほしいと思っていた自分に。 「…そうかもしれません」 「焦る必要はないですよ。捜したい、そう思ったら行動すれば良いんですから」 雪菜は少し躊躇うように思案して、口を開いた。 「…以前、飛影さんに形見の氷泪石を託したんです」 「…! そうなの?」 「魔界に帰ると仰っていたから…同じものを持った方に会ったら 渡してほしいとお願いをしました」 今考えたら、途方もないお願いですね、と雪菜は苦笑した。 「…どうして飛影に?」 「どうしてでしょう…。炎を纏っているから…それだけかもしれません」 「直感みたいなもの?」 「そうですね…」 雪菜は飛影の姿を思い出す。 いつも思い出すのは、助けに来てくれたときのあの背中だ。 救われた、そう思えた力強い背中。 「…初めは、ひとりででも魔界に行こうと思ったんです。 あの頃は兄しかいないと思ってたから…。でも、幻海さんに止められました」 「…それは…みんな止めますよ」 苦笑する蔵馬に、雪菜はそうですよねと笑う。 「今のわたしにはそれだけじゃないんだって、思えるようになりました。 兄だけがすべてじゃない…そう思えるんです」 兄だけに依存して、兄の存在だけを頼りにしていた。 自分をわかってくれるのは、兄しかいないのだと思っていた。 けれど、それは世界を知らないだけだった。 誰かと深く関わって生きてきたことがないだけだった。 「もちろん、会いたいとは思いますけど…それだけに縋って生きていくのは違うのかなって。 和真さんや静流さんやおじ様、蔵馬さん、幽助さん、螢子さん、ぼたんさん… たくさんの方がわたしを支えてくれている。だから、まずはその方たちを大切にしたい」 雪菜は空を見上げて、ふふっと笑う。 「今では、運命を誰かに託してみるのも悪くないかなって思うんです」 「…そっか」 「飛影さんからしたら迷惑な話ですけどね」 笑う雪菜に、蔵馬はそれもいいんじゃないかと思う。 形見の氷泪石が、ふたりの関係性を繋ぎ止めている。 飛影がそれを返しに来るときは、彼の中で答えが出たときだ。 そして、それはきっと、一択しかないと蔵馬は信じていた。 「雪菜ちゃんはほんとに賢いね」 「…え、そうですか? …周りに恵まれたんだと思います。 みなさん、いい方達ばかりですから」 「でも、力になりたいと思わせるのは、雪菜ちゃんに魅力があるからですよ」 「…! …み、魅力なんてあります…?」 「あなたが思っている以上にね」 蔵馬はにこりと微笑む。 魅力だなんて言葉を初めて言われた気がして、雪菜は照れた顔をする。 「誰かの好意に誠意を持って応えれば、それがまた好意で返ってくる。 関係性はそうやって成り立つものです。 雪菜ちゃんが真っ直ぐに応えてくれるから、こちらもまた世話を焼きたくなるんですよ」 「…ちゃんと応えられていますか?」 「もちろんです」 真っ直ぐで思いやり深くて優しい彼女を、 悪意にも悲劇にも染まらずにいられた強い彼女を、支えたいと思うのだ。 「良い子に育ちましたね」 「…!」 「…なんて感慨深くなるのは年寄りの悪い癖ですね」 蔵馬は苦笑する。 誰にも頼れなかった彼女が、社会性を身につけて、成長していく。 嬉しい変化だと思う反面、妹どころかまるで娘のように思っているようで、自分でも驚いた。 雪菜は蔵馬の言葉を聞きながら、あ、と何か気づいた顔をする。 「蔵馬さんって先生みたいです」 「先生?」 「いろんなことを教えてくれて、出来たら褒めてくれる。 それが嬉しくて、また頑張ろうって思えるんです」 先生か。 なるほど、お父さんよりはしっくり来るか、と蔵馬は内心で納得する。 「これからもいろんなこと教えてください」 「俺でよかったらぜひ」 彼女は救われるのだろうか。 救えるとしたら兄だろうか。 彼女の儚さを初めて目の当たりにしたとき、そう思っていた。 けれど、こちらの心配をよそに、彼女は確実に成長していた。 完全に傷が癒えたのか。苦痛が取り除かれたのか。 それはわからないし、すぐには無理なのだろうとも思う。 だが、周囲の優しさに気付いて、受け入れて、応えようとしている。 孤独ではないことを理解しはじめている。 大事にされることを知って、心を開きはじめている。 耐えることを覚え、壁をつくることを身につけ、 誰にも頼らず生きてきた彼女が、一歩ずつ歩き出している。 その姿を、これからもずっと見護り続けていきたいと、 陽だまりのように優しく微笑む姿を見て、蔵馬は思った。 7/戻/9 |