7.

今年は珍しく、皿屋敷市に雪が積もった。
歩くと足が埋もれる程の積雪は、街中では数年ぶりらしかった。
街でこのくらいなら、山はもっと積もっただろう。
雪菜はそう思って、幻海の道場へと向かっていた。

幻海亡きあと、道場に人が定住することはなくなった。
昔は幻海の弟子で溢れていたが、主亡き今、道場には誰も残ってはいなかった。
明示的に道場を継いだものはいなかったのだ。

形式的に言えば、霊光波動拳を継いだ幽助が正式な後継者となる。
だが、幽助が道場を継いだようには見えなかったし、
幻海も特段それを望んでいたようには見えなかった。

道場へと続く階段は、雪で覆われて境い目が見えないほどだった。
だが、雪菜は雪に妖気を通わせ、それをいとも簡単に払い除けた。
雪がなくなった階段を軽々と登り、道場の門へと辿り着く。
門は雪の重みで僅かに重かったが、開くことが出来た。

足を踏み入れると、そこは一面の銀世界だった。
縁側の雨戸に達するまで雪が積もっている。雪を退けねば木が傷んでしまう。
雪菜は預かっている合鍵で道場へと入り、除雪の準備をはじめた。
腕力は無いが、雪の冷たさには難儀しないし、妖気で操ったり、冷気で吹き飛ばしてしまえる。
雪掻きは自分の仕事だと雪菜は思っていた。

雪を見ていると、ふと思う。
否が応にも思い起こされる故郷の記憶。
苦い過去の思い出。
自分の出自や祖国の呪縛、物寂しい過去、己の中に潜む御し難い思い。

滅ぼしてほしいなどと、本気で思った自分がいた。
今はそこまでは思わない。けれど、滅んでもいいとは思っていた。
あの国に帰ることはもうないだろうし、未練などなかった。

愛されてなどいなかった。
ただ、生かされていただけだった。
哀れみか、侮蔑か。
温かみを感じたことなどなかった。

だが、そんな自分が、浅はかにも人間に捕らえられ、絶望を通り越して諦めの境地に至った頃。
温かいものに出会った。光のような、ともすれば、太陽のような。
眩しすぎていつか火傷でもしてしまいそうだと思う。
今まで受けたことのないような、無償に与えられる優しさや愛情に出会ってしまった。

雪菜は小さく息を吐く。
中庭に積もった雪をひと通り除雪して、雨戸を開けて、縁側に腰掛けた。
陽の光を浴びて、溶けかけた雪が煌めいている。

「…雪菜ちゃん?」

急に掛けられた声に、雪菜は驚いて振り向いた。
視線の先には、黒いロングコートに藍色のマフラーを巻いた蔵馬がいた。



*



客間で温かいお茶を出しながら、雪菜は微笑んだ。

「まさかお会いするとは思いませんでした」
「俺もですよ。墓前の雪をそのままにしたら、師範に怒られそうな気がして」

そう言いながら、蔵馬は温かいお茶を啜った。
寒さがさほど得意ではない蔵馬にとっては、お茶の温かさが身に染みる。
点けたばかりのストーブは、まだ暖まってはいなかった。

蔵馬は、道場に来る前に幻海の墓前に寄って、雪を払って来たのだった。
雪菜もあとで行こうと思っていたため、先に除雪してくれたのはありがたかった。
ここで暮らしていたときの慣れだろうか、
雪が降れば真っ先に縁側の雪をどけるのが習慣となっていた。
だが、よくよく考えれば、蔵馬のように先に墓前に行くのが礼儀のような気がした。

「今年も山は結構積もりましたね」
「ええ、そうですね」
「やはり雪は懐かしいですか?」
「……」

そう問われて、雪菜は返答に窮した。
懐かしい、そうかもしれない。
けれど、懐古の念は湧きはしなかった。
あるのは物寂しい思い出だけだ。

雪菜の沈黙に、蔵馬は改めて問いを投げる。

「…雪は嫌いですか?」
「いえ…そんなことは…」
「人間界の雪は、自然が多い場所ほど綺麗で…
 だから、俺は雪が降るとここに来たくなるんです」

蔵馬はそう言いながら、窓の外を眺める。
確かに街で見る雪よりも、格段に綺麗で澄んでいると雪菜も思った。

「…わたしは、雪が怖いと思ったことがあります」

氷女なのに可笑しいですよね、と雪菜が苦笑する。

「故郷の雪は本当に真っ白で…幼いながらに呑み込まれそうだと思っていました。
 だから、綺麗だと思ったことがなくて…」

当たり前のようにそこにあり、暗く冷たい吹雪に覆われていた。
皆戸を閉ざし、どこか閉鎖的で暗澹たる雰囲気だった。

「でも確かに、ここで見る雪は綺麗ですね」

そう言って、雪菜も窓の外を見る。
そして、少し驚いたような顔をしている蔵馬に気づく。

「ごめんなさい、変な話を」

雪菜はそう言いながら、お茶のお代わりいかがですかと、湯呑みに茶を注いだ。

蔵馬の前で故郷の話などしたことがなかったことに雪菜は気づく。
いつぞやかに故郷のことを口にしたのは、飛影に氷泪石を託したあの日。
それ以外は、誰にも話したことはなかった。

蔵馬は雪菜の様子を見ながら、話題を変えた方がいいだろうかと思った。
けれど、彼女のことをもっと知りたいとも思った。
雪菜の話は、いつも幻海の道場で世話になって以降のことばかりだった。
垂金の話をしたくないのはよく分かる。それを聞き出そうとは思わない。
だが、それ以前の話も一切出ては来なかった。

明るい面しか見えていない。見せてはいない。
そのことが違和感でもあった。
親しい間柄になれば、多少なりとも影の部分が見え隠れするものだ。
だが、彼女から未だそれを感じ取れないのは、まだ距離が縮まっていないだけなのか、
本当に無垢なだけなのか、蔵馬にはわからなかった。

蔵馬が思いを巡らせていると、先に口を開いたのは雪菜だった。

「……あの、蔵馬さんは、すぐに人間界に慣れましたか…?」

雪菜が遠慮がちにそう問い掛けた。
蔵馬は少し考える素振りを見せる。

「そうですね…数年は掛かりましたね」

生活にはすぐに慣れた。
けれど、母親というものにはなかなか慣れなかった。あんな無償の愛など知らなかった。
いや、自分も幼い頃は母親の愛情を知っていた。
けれど、それはもう千年近く前のことだ。
ましてや赤の他人――しかも異種族――からの愛情は、途惑いしかなかった。

「まだ慣れないですか?」

蔵馬がそう聞くと、雪菜は少し困ったような顔をして笑った。

「家族、なんて…いなかったので。一緒に生活していくこともなんだか不思議で」
「…氷河の国では誰かと暮らしてなかったの?」
「母はもう亡くなっていて…父は誰だか知らないんです。
 わたしは母の親友に育てられましたけど……家族とは少し違ったと思います」

あの人の中には罪の意識がある。
母との約束を守れなかったこと。兄を国から捨てたこと。
愛情ももちろんあっただろう。
けれど、あの人がどこか儚げな笑顔しか見せていないことは、幼いながらに感じていた。
それが贖罪の意識があったからだということは、あとで理解した。

「…わたしは異端児なんです」
「……」
「氷河の国始まって以来初めての男女の双子だそうですよ。
 …国にとってはありえない存在なんです」

雪菜は努めて明るく話す。
蔵馬は静かに聞いていた。

「わたしはずっと兄の存在を知らなくて…。
 兄のことを知ったとき、兄だけが、わたしを理解してくれる唯一の存在だと思っていました」

でも、と雪菜は少し淋しそうな顔をする。

「わたしは兄を利用しようとしていただけだと気づいたんです」
「利用…?」

訝しる蔵馬に、雪菜は視線を手元に落とした。
湯飲みの底に、お茶の葉が沈んでいる。

「…滅ぼしてほしいと思っていました。故郷を」
「!」

蔵馬が驚いた顔をする。
目の前の可憐な少女からは想像もできない言葉だった。

自分の中に芽生えていた歪み。
その真実を突きつけられたとき、心底自分に辟易した。
ああ本当に異端児だと思った。

「…だから、ときどき思うんです。
 こんなわたしが、あの温かい家庭にいていいのかと」

ときに乱暴な言葉が飛び交ったとしても、そこに愛があるのがよくわかる。
温かくて、優しくて、ともすれば火傷してしまいそうな場所。

「…幻滅、しましたか」

雪菜の言葉に、蔵馬はまさかと返す。

「寧ろ安心しました」
「え…?」
「俺にはあなたが完璧すぎるように見えていたから」

なにひとつ傷のないような、そんな眩しさ。
清廉潔白で、穢れのない純真さ。
けれど、本当は抱えた傷を隠している。

「考えるのと行動に移すのとはまた別ですよ。
 誰しもが、妬みや恨み、エゴや欺瞞を抱いたりするものです。感情がありますからね。
 だから、あなたがどんなことを考えたとしても、幻滅なんてしません。
 …きっとその背後にあなたを突き動かす何かがあったのでしょうから」
「…そう、でしょうか」

赦されるのだろうか。
たったひとりの肉親を利用しようとした自分が。
こんな感情を抱いて何食わぬ顔をしている自分が。

「異端なんかじゃないですよ、あなたは」
「…!」
「どう見たって普通の女の子です」
「それは…きっとわたしのことを知らないから…」
「だったら、教えてください。本当のあなたを俺にも見せてほしい」
「!」

雪菜は目を見開いた。
深紅の瞳は、蔵馬の翡翠の双眸を驚いたように見つめている。

「…でもきっと、本当のあなたは、俺が想像するあなたと変わらないと思います。
 世間知らずで意外と向こう見ずで、ときに頑固なほど芯が強くて、
 とても思いやりと慈愛に満ちている」
「…わたし、そんな風に見えていますか?」
「ええ」

頷く蔵馬に、雪菜は目を瞬かせる。
世間知らずなのは確かにそうだ。でなければ人間に捕まったりはしなかった。
頑固なのも思い当たる節はある。思いやりと慈愛に満ちているかはわからない。
けれど、自分の甘いところが裏を返せばそういうことなのだろうと思った。
短所だと思っていたのをそんな風に言われたことはなかった。

思い返せば、誰かにちゃんと見られていたことがあっただろうか。
これまで生きてきた中で。

「…俺は雪菜ちゃんのことが少し不思議だと思ってました」
「?」
「何も悟らせようとしないから」
「……」
「いつも笑顔ですけど、何か壁があるような気がして」
「!」

蔵馬の言うとおりだった。
これまで、壁を作って生きてきた。
故郷では、笑っていれば周りも泪も困らないと知っていた。
自分のせいで泪に迷惑が掛かるのが嫌だった。

垂金邸では感情を出さないことで壁を作ることにした。
少しでも感情を出してしまえば、また憐れみを掛けてくれた
関係のない人の命を奪ってしまうかもしれないから。

「……なんで、そこまでわかっちゃうんですか?」
「長年者の勘ってやつですかね。千年近く生きてますから」

そう言って蔵馬はにこりと笑う。
雪菜は蔵馬の洞察力に感心していた。
ただ長年生きているからだけじゃなく、彼が人のことをよく見て
理解しようとしていることの表れのような気がした。

「故郷でも…あの屋敷でも、壁を作っていないと誰かを傷つけてしまうから。
 …わたしが傷ついてしまうから……その癖がずっと抜けないんだと思います」

ぽつりぽつりと雪菜が言葉を零す。
深紅の瞳がわずかに揺れる。けれど、涙は零れなかった。
人前で泣いてはいけないと、戒めのように歯止めが掛かるからだ。

雪菜の姿に、言葉に、蔵馬は胸が締め付けられる想いがした。
この少女は一体どれだけの間、どれほどの感情を隠して生きてきたのだろう。

見返りのない愛情を知らない。
本音を吐露することを知らない。
誰かに頼ることも甘えることも知らない。

そんな彼女が急に放り込まれたあたたかい世界。
それに途惑って不安になるのは当然のことだ。

「……よくがんばりましたね」
「…!」
「もう大丈夫ですよ。俺たちは誰ひとり、あなたを傷つけたりはしない」

なんて言葉を掛ければ、この少女が安心するだろうか。
信頼してくれるだろうか。
本音を隠さずに生きてもいいと思ってもらえるだろうか。

「ごめんね、もっと早く気づいてればよかった。……辛かったでしょう?」

改めて言葉にされると、抑えていたものが溢れそうな気がした。

「……だめです、蔵馬さん。…そんなの、わたし…」

雪菜の声が微かに震えていた。
蔵馬はなだめるように声をかける。

「もう泣いてもいいんですよ」
「!」

その言葉に、雪菜の白い頬に一筋の涙が伝う。
畳の上に落ちて、氷泪石へと変わった。
あとからあとから止めどなく涙が零れる。

雪菜は声を抑えながら静かに泣いた。
蔵馬はそっとハンカチを差し出し、雪菜が泣き止むまでただ傍にいた。



*



「…あの、ごめんなさい。お恥ずかしいところを…」

そう言って雪菜は申し訳なさそうな顔をする。
目も頬も紅く染まっていた。

「少しは楽になりました?」
「はい、だいぶ…」

蔵馬の問い掛けに、雪菜は微笑んでみせた。
この微笑みは取り繕ったものではなく、本心だと蔵馬は思えた。

「あまり抱え込んだりしないで、もっと周りを頼ってくださいね」
「…努力します」

そう言って雪菜は苦笑した。
蔵馬はふわりと雪菜の頭を撫でる。

「俺でよければいつでも話聞きますから」
「!」

雪菜はただこくりと頷く。
頭を撫でられたことが嬉しいやら恥ずかしいやらで、耳が熱くなる。
うんと小さい頃に、泪に何度か撫でられて以来だろうか。

そんな雪菜の思いを知ってか知らずか、ただ蔵馬は微笑んでいるだけだった。

少しだけ、距離が縮まったような気がした。
何も知らなかったあの頃とは違う。
戦友たちが守ってくれるだろうと思っていた頃とも違う。

もっと自分も、目の前の少女に関わっていきたいと思った。










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