6. 「雨…酷くなってきたね」 「本当ですね…早めにお帰りになった方がいいんじゃないですか?」 社会の参考書から顔を上げ、雪菜は心配そうに窓の外を見た。 家庭教師に来ていた蔵馬は、天気予報を見ようとテレビを点けた。 曇天の空から降り注ぐ横殴りの雨が、窓を叩きつける音が響いている。 時折強風が吹き、窓ががたがたと揺れた。 ちょうど始まった夕方のニュースが、豪雨の状況を伝えている。 朝から降り続くこの雨が、ここまで強くなることを天気予報士も予測していなかったようだった。 『突如発達した雨雲は勢力を増し、激しい雷雨となるでしょう。 今夜から未明にかけて、落雷や河川の増水にご注意ください。各地の予想降雨量は…』 テレビには、今後の降雨量や交通機関の乱れを報せる情報が流れている。 蔵馬はニュースを見ながら、補習に行っている桑原や、 仕事に出かけている静流と桑原父は帰ってこられるだろうかと心配になった。 「とりあえず、誰かが帰って来るまでは…」 蔵馬の言葉の途中で、一瞬空が明るく光ったかと思うと、轟音が響いた。 「…近くに落ちたかな」 「すごい音です…」 雷の音に驚いた雪菜は、どきどきと鳴る鼓動を抑えながら、窓の傍に立って外を見上げる。 一層激しくなった雨と、ちかちかと光る稲妻が目に映った。 「…雷、大丈夫?」 「大丈夫です…でも、びっくりしますね…」 雪菜がひと息つこうとした瞬間、再び大きな雷の音が轟いた。 びくりと驚いた雪菜の傍に、蔵馬が近寄ったそのとき、辺りが真っ暗になった。 リビングを照らしていた電気が消え、雷雨の情報を伝えていたテレビが消え、 灯りが一切なくなった。 暗い部屋に、雨音が煩いくらいに響く。 「蔵馬さん、電気が…!」 「停電だね…どっかの送電線に落ちたかな」 雪菜は初めて体験する停電に一瞬不安を覚えたが、すぐ傍に蔵馬がいることに安堵した。 焦る様子のない彼の声を聞いていると、自然と心配ないと思うことができた。 「雪菜ちゃん、懐中電灯とかろうそくってあるかわかります?」 「確か、懐中電灯は玄関に…ろうそくは箪笥の引出しにあったと思います」 暗闇にも目が慣れてきて、蔵馬と雪菜はろうそくの灯りでリビングを照らすことにした。 テーブルにろうそくやアロマキャンドルを並べて、マッチで火をつける。 いろんなアロマの匂いがしたが、この際気にしていられなかった。 雷の音に驚いた猫たちは、身を隠せる場所に逃げており、 リビングからは1匹も見当たらなかった。 「電気、すぐに復旧するでしょうか」 「うーん、だといいんですけどね…」 瞬電であればいいと思ったが、なかなか復旧しないところを見ると、 まだしばらく続きそうだと蔵馬は思った。 PiPiPi… 急に鳴った電子音に、雪菜がびくりとする。 「ごめん、俺の携帯。…桑原くんからだ」 停電で固定電話は繋がらないし、雪菜は携帯を持っていないから、こちらに掛けてきたのだろう。 そう思いながら蔵馬は電話に出た。 『よかったぜ、やっと繋がった! 回線混んでてよ』 「桑原くん、まだ学校ですか?」 『あぁ。電車止まっちまってしばらく帰れそうにねェんだよ。オメェ、まだうちか?』 「ええ。雪菜ちゃんといますよ」 『姉貴まだ帰ってねェよな? しばらくうちにいてくれるか?』 「もちろんです。ちゃんと傍にいますから、ご心配なく」 『雪菜さん頼んだぜ! …あぁ! 声聞きてェけど、充電ヤバイから切るわ! じゃな!』 慌ただしく切れた電話に、蔵馬は苦笑する。 桑原の大声は電話越しにも聞こえていたのか、雪菜が心配そうな顔をした。 「電車、止まっちゃったんですね…」 「みたいですね。まぁでも、学校にいるなら安全かな」 蔵馬はそう言いながら、手早くメールを打つ。 おそらく心配しているであろう母親に、居場所だけは知らせておこうと思ったのだ。 ソファーに腰掛けながら、雪菜は揺らめくキャンドルを見つめた。 暗闇と雨音と轟く雷鳴に、ひとりでいたらきっと心細かっただろうと思う。 けれど、同時に申し訳なくも思う。彼にはいつも助けられてばかりだ。 「あの…ごめんなさい。いつもご迷惑ばかり…」 「え…?」 「こんな日に家庭教師をお願いしてしまって……」 「こんなの天気予報見ててもわかんなかったよ」 さっきのニュース見てたでしょ?と蔵馬が笑う。 「でも、蔵馬さんにはいつも頼ってばかりで申し訳ないです…。 お勉強教えていただいたり、体調気遣っていただいたり…」 「そんなのたいしたことじゃないですよ」 申し訳なさそうな遠慮がちな顔をする雪菜を見つめて、でも、と蔵馬は付け足した。 「迷惑かけてるとか申し訳ないって思われてるんだとしたら、なんかやだな」 「え…?」 「そういう遠慮、いらないですよ」 「で、でも…」 「頼ってもらえて俺は嬉しいんだけど」 「…!」 雪菜は驚いたように目を瞬いた。 「でも…でも、蔵馬さんはいろんな方に頼りにされるから、 もし、わたしが少しでも負担になってたらって思うと嫌なんです…」 「そんなわけないじゃないですか」 こちらを伺うように見る雪菜に、蔵馬は少し困ったように苦笑を返した。 「…俺ってそんなにお人好しに見えます?」 「え…?」 「負担だと思ってたら、わざわざ教えに来ないですよ。桑原くんだって教えられるんだし」 「…でも…」 「そんなに気を遣われると、なんだか淋しいな」 「…!」 揺らめくキャンドルのなか、柔らかな表情を浮かべたまま、翡翠の瞳がこちらを見つめていた。 雪菜はなんと答えるべきかわからず、逡巡するようにキャンドルの灯りに視線を移した。 その刹那。 一瞬辺りが明るくなったかと思うと、瞬く間に爆音が轟いた。 「きゃっ…!」 天を裂くような轟音に、雪菜は小さく悲鳴を上げる。 「…今のは流石に凄かったね」 「こんな雷、初めてです…」 「この感じだと電気の復旧はまだまだ掛かりそうですね」 「みなさん大丈夫でしょうか…」 「うーん、とりあえず学校や職場にいるなら大丈夫じゃないかな」 あとで静流さんにも掛けてみようか、と蔵馬は携帯を眺めながら呟いた。 固定電話は繋がらないし、携帯の回線は混み合っているようで、連絡を取るのさえ一苦労だった。 いっそ念信してみた方が早いかもと蔵馬はぼんやり考えていた。 雪菜は未だ轟く雷鳴に、どきどきとはやる鼓動を落ち着けようと、小さく息を吐く。 鳴り止まない雷と雨音、続く停電に、段々と不安が広がっていく。 だが、隣で落ち着いている蔵馬を見ると、瞬く間にその不安が消えていく気がした。 「…きっと、ひとりだったら怖くて心細かったと思います。 蔵馬さんがいてくれてよかった…」 「家庭教師の日にして正解だったでしょ?」 「…! そうですね。正解でした」 迷惑をかけていない。 そう言ってくれるのは、やはり彼の優しさなのではないかと雪菜は思う。 けれど、それに甘えても許されるのではないかと、蔵馬の微笑みを見てそう思えた。 「いつだって力になりますよ」 「…!」 「なんでも遠慮なく頼ってください」 ね?と蔵馬が笑う。 雪菜は途惑いながら、蔵馬を見上げた。 「わたしは…蔵馬さんに何を返せますか?」 「何かを返してほしいわけじゃないですよ」 「でも…」 「…じゃぁ、俺が困ったときは力を貸してくれる?」 「! もちろんです…!」 「ありがとう」 「…え、でも、蔵馬さんが困ることなんてあるんですか…?」 雪菜の問いに、蔵馬はふふっと苦笑する。 「そりゃありますよ。俺だって万能じゃないんですから」 どこからどう見ても万能にしか見えない彼が、困ることなどあるのだろうか。 ましてや、それを自分になんとかできるなど、雪菜には到底思えなかった。 「…完璧なんて存在しないよ。だから、支え合っていくんですよ」 「…!」 「ひとりでできることなんて限られてるんですから、必要なときには頼って助け合わないと。 師範の道場で陣たちの修行してたとき、いろいろ手伝ってくれたでしょ? あのとき、何か見返りを求めてた?」 「そんな、見返りなんて…! みなさんの力になりたくて…」 「でしょ? 俺も今同じ気持ちって言ったら、納得してくれる?」 「!」 雪菜ははっと腑に落ちた気がした。 誰かのために何かをしたい。そう思う気持ちを自分も知っている。 そこに何かの駆け引きなどなくて、ただ純粋に役に立ちたい、そう思う気持ちが確かに存在する。 「雪菜ちゃんのことが好きだから、力になりたいと思うんですよ」 「…!」 「それを疑われるなんて悲しいな」 「疑うなんて、そういうわけじゃ…!」 焦る雪菜に、蔵馬は微笑を返す。 与えられ慣れていない彼女は、見返りのない好意がまだ素直に受け止められないのかもしれない。 彼女自身は、誰かのためなら苦もなく手を差し伸べるだろうに。 遠慮されている。 それがまだ、この少女との距離なのだ。 勉強や体調管理のために、どれだけ一緒に過ごしてみても、まだ彼女は心を許してはいない。 蔵馬にはそう思えた。 ふわりと笑う。 けれど、頑なな意思がそこにはあって、まだ踏み込めないのだと、そんな気がした。 雪菜は雨音を聞きながら、小首を傾げて蔵馬に視線を向けた。 「…でも、だめですよ。そんなにいっぱい抱えたら、いざというときに動けなくなりますよ?」 「…! …雪菜ちゃんは優しいね」 「え…?」 「みんなもそれくらい気を遣ってくれたらいいのに」 蔵馬はそう言って苦笑する。 幽助や桑原など、困ったときはお構いなしだ。 高校の旧友も、会社の同僚も、魔界の知人も、 頼めばなんとかしてもらえると思っている分、人使いが荒い。 なんとかしようとしてしまう世話焼きな性分の自分も、その状況を助長させているわけだが。 「いっぱいなんて抱えてないよ」 「……」 「だから、いつでも呼んで?」 控えめな彼女のために、力になりたい。 頼られる存在でいたい。 彼女との関係を、丁寧に築いていきたい。 雪菜は途惑いながら蔵馬を見つめる。 煩いくらいの雨音が耳に入らないほど、ただ呆然と翡翠の瞳を見つめていた。 こんなふうに優しく諭されて、大切にされたことなどない。 ここまで真摯に向き合ったことなどない。 桑原の真っ直ぐで情熱的な眼差しとはまた違う、 穏やかで静かな優しさに雪菜は途惑いを隠せなかった。 そして、自分が途惑っていることさえ、蔵馬には見透かされていて、 その上で甘えていいのだと包み込まれているような不思議な感覚におそわれていた。 「…本当に、頼ってもいいですか」 「もちろん」 「困ったら、来てくれますか…?」 伺うように見る雪菜に、蔵馬は微笑を返す。 「いつでも飛んで行くよ」 激しく降る雨のように、鳴り響く雷のように、不安が心を襲ったとしても。 いつだって護る盾になる。照らす光になる。 だから、どうか。 その儚い横顔を、閉ざした心を、どうかこの手で護らせて。 5/戻/7 |