5.

もっと人との繋がりを持った方が良いと幻海に強く勧められ、
桑原家で暮らすことになったのが、昨年の初夏のことだった。

後から考えれば、己の死期を悟った幻海が、次の居場所を探してくれたのだろうという気がした。

四十九日の法事を終え、雪菜は幻海の墓前に改めて手を合わせる。
線香の煙が、青い空に流れて消えていく。
幻海が亡くなった当初は、目を腫らすほど泣き続けた。
無数に転がる氷泪石の哀しい色に、さらに淋しさが増して、涙が止まらなかった。
親しい身近な人を亡くすのは初めてだった。

いろんなことを教えてくれた。
たくさん叱ってくれた。
たくさん励ましてくれた。
たくさん、優しさをくれた。

ずっと、忘れはしない。

「…大丈夫?」

背後からかけられた声に、雪菜は振り向く。
ブラックスーツ姿の蔵馬が、心配そうにこちらを見ていた。
雪菜は、大丈夫です、とにこりと微笑む。

「幻海さんは、無事にあの世へ旅立てたでしょうか」
「…そうだね。きっと辿り着いてますよ」

蔵馬の言葉に、雪菜は静かに頷く。
淋しくない、辛くないと言えば、嘘になる。
けれど、今なら幻海を穏やかに見送れる気がした。

「…さ、桑原くんたちが待ってますよ」

蔵馬に促されて、雪菜は歩き出す。
蔵馬はちらりと幻海の墓前を返り見て、見守っててくださいね、と小さく呟いた。



*



蔵馬は高校を卒業し、春から社会人となっていた。
就職すると周りに告げたときは、勿体無いと何度も大学進学を勧められたが、
蔵馬自身は大学には興味がなく、義父の会社経営の方が魅力的だった。

中小企業でもともと新卒をあまり採用していないため、同期入社はいなかった。
新入社員として扱き使われる立場にいたが、社長の息子ということを抜きにしても、
そつなくこなすその姿に、周りは一目置き始めていた。

一番途惑ったことといえば、畑中という苗字を使うようになったことだろう。
高校の途中で母親が再婚し、南野から畑中に変わったが、
学校側の配慮で名簿上は南野のままだった。
だが、社会人ともなればそうはいかない。
社員証も名刺も、当然ながら「畑中秀一」となっている。

社会人になってからも、雪菜の家庭教師は続けていたし、主治医としての健康管理も行っていた。
抗体検査は粗方終わり、ワクチン接種を定期的に続けている。
雪菜が注射器に怯える姿を見せることはなく、あれから大きく体調を崩すこともなかった。

彼女が怯えた姿を見せたのは、あのときだけだった。
それ以来、相変わらずふわふわと優しい笑みを浮かべているだけで、
彼女の本心は少しも見えなかった。
だが、雪菜は着実に順応し始めている。そのことが蔵馬には嬉しいことだった。

飛影が名乗り出ることは、恐らくないのだろう。
あったとしても、それは今すぐではない気がした。
その代わり、と言っては何だが、雪菜の傍には、
彼女のことを真っ直ぐに見て情熱を注ぐ存在がいる。
彼の真っ直ぐさなら、彼女の心を救えるのかもしれない。蔵馬はそんな気がしていた。



*



「で? もうヤったわけ?」
「!!? な、なんてこと言うんだ、浦飯!」
「一緒に住んでもう1年だろ? まだなんもねぇーの?」
「そ、そういことはだな…なんだその、じっくりっつーかなんというか…」
「ははーん、さては脈無しなわけだ」
「な…!? んなこと言ってねぇーだろ!?」

幽助のラーメン屋台のカウンターで、蔵馬はラーメンを啜りながら、
幽助と桑原の言い合いを黙って聞いていた。

桑原と雪菜がふたりで出歩いている姿は、よく見かけるようになった。
長身リーゼントと色白美少女の組み合わせは、今では見慣れたツーショットだ。
だが、話を聞く限りでは、一向に進展していないようだった。
別に、雪菜の支えになってくれるのであれば、色恋に発展する必要などないとは思うが、
あんなにも恋焦がれているくせに、彼の奥手ぶりには驚かされる。

「…いやー、でも実際、雪菜さんが可愛すぎて毎日つらいぜ…」
「んだよ、幸せな悩みだな」
「無防備すぎるっつーか、無用心というか…」
「男として見られてねぇんじゃねぇの?」
「…なんつーか、まだそういうのを知らないっつーか…」

幽助と蔵馬は、ああ、と桑原の言いたいことをなんとなく理解した。

「そういうことにはまだ疎そうですよね」
「そうなんだよなー…。鈍感っつーよりそもそもわかってないというか…」
「強引に迫るか気長に待つかだな」
「んなこと言ったって……。なぁ、蔵馬、恋のカテキョもやってくれよ」
「…それは桑原くんの役目でしょ」

蔵馬は呆れたように桑原を見る。
雪菜の生活のサポートはしていきたいが、さすがにこればかりは無理な相談だ。

「でも、強引に迫ったりしたら赦さないですからね?」
「わーってるよ! んなことしねぇーよ! 俺はぜってぇ雪菜さんを泣かせたりはしねぇ!」
「…ならいいですけど」
「じゃぁ、気長に待つしかねぇな。桑原の春はまだまだ先かー」

幽助の言葉に、桑原はがくりと肩を落とした。
中2のとき雪菜に一目惚れをして、あれからもう3年だ。
ひとつ屋根の下で、すぐ手の届く場所にいられるようにはなった。
だが、桑原の想いは一向に届く気配はなかった。



*



「ただいま帰りました」
「おかえり」
「え…? 蔵馬さん…!」

スーパーから帰ってきた雪菜は、リビングで蔵馬に出迎えられて驚いた顔をした。
今日は自分の家庭教師の日ではない。ということは、桑原と勉強会だろうか。
リビングの机には教科書や参考書が広げられていた。

蔵馬はさっと雪菜の手からスーパーの袋を受け取って、冷蔵庫に入れるのを手伝った。
雪菜は礼を言いつつ、そのスマートな動作に、
いつもこうやって母親の手伝いをしているのだろうかと思った。

「和真さんは…?」
「部屋で参考書探してますよ」

古文の参考書が見当たらないって騒いでたな、と蔵馬はぼやいた。

「…あ、この間貸していただいた現代史の本、とても分かり易かったです!」
「でしょ? あの参考書シリーズはお勧めですよ」
「ほんとに蔵馬さんはなんでもご存知ですね」
「年の功ってやつかな」
「でも、わたしの勉強も見ていただいて、和真さんともお勉強して、
 弟さんにも教えてるんですよね…? 大変じゃないですか?
 社会人になってからお忙しいって聞きましたけど…」

蔵馬は博識で面倒見が良いため、いろんな人から頼りにされている。
困ったことがあれば蔵馬に相談すれば解決できる、周りからそう思われていた。
そして、実際蔵馬ならなんでも解決できてしまうから、
当てにされるのも当然といえば当然なのだが。

「社会人っていっても、まだ1年目だから、
 電話応対とか書類作ったりとかしかしてないし、忙しくはないんですよ」
「そうなんですか?」
「定時で帰れるし、土日も暇だし、大変じゃないですよ」
「…なら、いいんですけど。でも、来年は和真さんの受験ですし、
 わたしのお勉強は程々で大丈夫ですからね…?」
「桑原くんの受験はね…附属って言ってもしっかり勉強しないと厳しいからね。
 その点、雪菜ちゃんは基礎的なところは覚えられてるし、ペースを落としても大丈夫かもね」

高3の3学期は、毎日のように桑原家に通い、雪菜の家庭教師をしていた。
社会人になってからは、初めは週一で通っていたが、最近は隔週になってきている。
基本的な読み書きはできるし、計算もできる。
社会の仕組みの大枠や、一般常識も基本的なところは理解していた。
中学や高校で習うすべてを理解できたわけではないが、
この1年で、雪菜の知識は生活をする上で支障のないレベルにはなっていた。

「…まぁ、俺的には女の子に勉強教えてる方が楽しいですけどね」
「え…? そうなんですか?」

蔵馬の言葉に、雪菜は不思議そうな顔をする。
蔵馬の言っている意味が理解できていないようだった。

「今年いっぱいは今のペースで家庭教師しますよ。もうちょっと教えたいこともありますし」
「はい! ありがとうございます」

雪菜は買い物袋を片付けながら、お茶出しますねと蔵馬にソファーへ座るよう促す。
湯呑みにお茶を注いで、ソファーの傍のテーブルに置いた。

和真さん遅いですね、そう呟きながらキッチンに戻ろうと一歩踏み出した瞬間、
雪菜の足元を、突然、猫の永吉が横切った。
驚いた雪菜はバランスを崩し、テーブルの方へと転びそうになる。
蔵馬はとっさにその身体を引き寄せた。

「…!」
「…大丈夫?」

引き寄せられた遠心力で、雪菜はソファーに座る蔵馬に覆い被さるように倒れ込んだ。

「…ごめんなさい、大丈夫です…!」

雪菜は申し訳なさそうに身を起こす。
突進して来た当の永吉は、軽々とソファーの背に乗り、雪菜の方を見てにゃーと鳴いた。

「永吉さん、ダメですよ! 急に飛び出したりして」
「猫は急に突進して来るから困るね」
「そうなんですよ。いつの間にか背後にいたり、急に飛び乗って来たり…いつも驚かされます」

でも可愛いから許しちゃうんですけど、そう言いながら雪菜は永吉の額を撫でた。
永吉は嬉しそうに喉を鳴らす。

ゴロゴロと聞こえて来るご機嫌な声を聞きながら、ああこれはまずいな、と蔵馬は思う。
雪菜は蔵馬の左半身に身を寄せて、背凭れに向かって座り込みながら、永吉を撫でている。
その細い腰には、倒れ込んだときに支えたままの蔵馬の左腕がある。
今桑原が戻ってきたら、非常にまずい。

蔵馬の心情を知らない雪菜は、永吉から蔵馬に視線を移し、ふふっと笑う。

「蔵馬さんっていい香りがしますね」
「…! …そう?」
「お花の香り…?」
「柔軟剤かな…匂いきつい?」
「いえ…なんだか安心する香りです」

にこりと雪菜が笑う。
その無垢な笑顔に、蔵馬は内心でどきりとした。

「蔵馬! やっと見つけたぜ! 引き出しの奥に…」

勢いよく扉を開けてリビングに戻ってきた桑原の言葉が、途中で止まる。
蔵馬はしまったと思った。

「く、蔵馬テメェ! 雪菜さんに何やってんだ…!!」
「桑原くん…これは不可抗力です」
「んだと…!?」

桑原は額に青筋を立てている。
冷や汗を掻く蔵馬とは対照に、雪菜はきょとんとしていた。

「和真さん、どうかしたんですか?」
「どうって…! 今すぐそいつから離れてください!」
「え…?」
「そんな雪菜さんの、こ、腰に触れるようなやつ…!」

腰と言われて、雪菜はああと声を出す。

「永吉さんがぶつかって来て、こけそうになったのを助けていただいたんです」
「…へ?」
「それに蔵馬さんっていい香りがするんですよ」
「…はぁ」

にこにこ笑いながら、蔵馬にお礼を言って、雪菜はキッチンの方へと向かう。

「お夕飯の準備しますね」

いつもの笑顔の雪菜に、桑原は、とりあえずいかがわしいことを
されていたわけではないことを理解する。

「誤解ですよ、桑原くん」
「…そうらしいな」
「大体、俺が何すると思ってるんですか」
「…いや、だってよ…」

まぁそりゃそうか、と桑原は納得した顔をしながら、ソファーの傍のスツールに腰掛けた。

「…あれは困りますね。無防備というか、無自覚というか…」
「……だろ?」
「桑原くんの大変さがよくわかりました」

蔵馬は苦笑する。
異性という意識もなく、人を疑うこともなく、無防備すぎて心配になるくらいだ。
彼女が恋というものを知る日は、果たしていつ来るのだろうか。

「…それにしても、細かったな」
「オイこら。今すぐその感触忘れろよ…!」










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