4.

「秀一、電話よー」
「ありがとう。誰から?」
「桑原くん。なんか急用みたいだけど」

母から受話器を受け取り、蔵馬は電話に出る。
そこには、母の言う通り切羽詰まった様子の桑原の声があった。

『蔵馬! 今すぐ来てくれ!』
「どうしたんですか?」
『雪菜さんが倒れた!!』
「え…!?」

蔵馬は母親への説明もそこそこに、急いでコートを着て家を出た。
木枯らしが吹き荒れる夜の街は冷たい空気に包まれ、どこか物寂しい雰囲気だった。

蔵馬が桑原の家に着くと、すぐに雪菜の自室に通された。
ベッドには、苦しそうに息をする雪菜の姿があった。

「雪菜さん大丈夫だよな!?」
「今から診察しますから」
「スゲェ苦しそうだけど…なんかの病気じゃねぇよな!?」
「桑原くん。気が散るから部屋から出て」

蔵馬にそう言われて、桑原は押し黙る。

「私たち下にいるから、何かわかったら教えてくれる?
 ほら、カズ! 行くよ!」

静流は桑原を引っ張って、リビングへと降りて行った。

静かになった部屋に、雪菜の息遣いだけが響いていた。
蔵馬は雪菜の額に触れる。
熱を持った身体は、氷女の平均体温を遥かに上回っていた。
汗ばんだ額を、近くに置いてあったタオルで拭う。

蔵馬は持ってきた医療道具を広げ、聴診器を手にする。
心音、呼吸を念入りに確認する。
聴診と触診の後は、血液を採取し、簡易の検査キットで血液を調べる。
真っ白い腕に残った注射針の跡が、痛々しく見えた。

蔵馬は検査を進めながら、ああまた無理したのだろうなと思った。
早めに不調を訴えていれば、ここまで悪化しなかっただろうに。

蔵馬はそっと雪菜の頭を撫でる。
上手く人に頼れない彼女を、責めることは出来やしない。
こうなる前に、こちらが気づかなければならなかった。
まだ簡単には周りに甘えられない。深部に残る不安は消えていない。
そんなこと、かつての自分を思い起こせば、わかったはずなのに。

熱に浮かされながら、その深紅の瞳がうっすらと開いた。
苦しそうな息をして、雪菜が蔵馬を見上げる。

「雪菜ちゃん? 気がついた?」
「……」
「脱水が酷いから点滴に繋ぐね。ちょっとチクッとするけど我慢して」

そう言って蔵馬が注射器を手にする。
雪菜の腕に針を刺そうとした瞬間、雪菜が手を振り払った。

「…!」

蔵馬は驚いて雪菜を見る。
雪菜は怯えた目でいやいやと首を振っていた。

「…いや…」
「…雪菜ちゃん、すぐ済むから」
「…いや…! …もう、やめて……」

焦点の合わない目で、うわ言のように呟いた。
雪菜のその目に、蔵馬は映っていないようだった。
過去を思い出しているかのように、彼女は震えていた。

蔵馬は再び雪菜に触れる。
振り払われるかと思ったが、その気力はもうないようだった。
妖気が伝わるように出来るだけ雪菜に近づき、なんとか落ち着かせようと優しく声をかける。

「雪菜ちゃん。俺だよ…蔵馬です。わかる?」
「……」
「治療をさせて欲しい。絶対に危害は加えないから。俺を信じてくれる?」
「……」
「…治療、してもいい?」

蔵馬が聞くと、雪菜は小さく頷いた。
青ざめた唇から、熱い吐息が溢れる。
朦朧とする意識の中、腕に感じた痛みにぴくりと反応する。
だが、拒絶はしないまま、されるがままだった。

点滴に繋ぐ間、雪菜は端正な顔を一瞬歪めたが、程なくしてまた眠りについたようだった。



*



診察を終えて蔵馬がリビングへと行くと、桑原が掴みかからん勢いで詰め寄ってきた。

「雪菜さんは!?」
「大丈夫です。今は落ち着いて寝てます」
「本当に大丈夫なんだろうな!? なんかの病気なのか!?」
「…桑原くん、近い」

蔵馬は桑原を押し返して、診断の結果を告げた。

「あれは、ただの風邪です」
「……へ?」
「言ったでしょう? 雪菜ちゃんは人間界のウイルスに免疫がないって。
 例え風邪のウイルスでも、抗体のない彼女には脅威なんですよ」
「…じゃぁ、大丈夫なんだな??」
「インフルエンザではないと思いますけど、念のため今夜は近づかないように」
「! なんでだよ! 傍で看病させてくれよ…!」
「俺がついてますから、今日は我慢してください。ウイルスが変異しないとも限らないし、
 もし桑原くんに移ったら、雪菜ちゃんがどれほど哀しむかわかりますよね?」

蔵馬の言葉に、桑原は言葉に詰まる。
返す言葉がない様子の桑原に、蔵馬は話は終わりだと言うように、静流に視線を向ける。

「すみません、今日は泊まらせてもらいます。電話、借りてもいいですか?
 あと、雪菜ちゃんの着替えとタオル用意してもらえます?」
「電話は好きに使って。着替えとタオルもすぐ用意するわね」

風邪がこんなに厄介とはね、と静流はぼやきながら、蔵馬に頼まれたものを取りに行った。

蔵馬は電話の受話器をとって、使い慣れた電話番号を押す。
なんて言い訳しようかと考えながら、自宅に電話をかけた。



*



雪菜の自室で、蔵馬は窓に凭れて腕を組んで立っていた。
部屋の主である雪菜は、ベッドで静かに眠っている。
点滴が効いたのか、呼吸も落ち着き、少しだが熱も下がりはじめていた。
汗ばんでいた寝巻きも、静流に着替えさせられている。

少し前まで、魘されているかのように顔を顰めていたが、今はそれも治っていた。
いつも以上に白くなった顔を、蔵馬は見つめる。
先ほど掴んだ腕は、あまりにも細く頼りなかった。

もう、やめて。
彼女は確かにそう言った。
その怯えようは尋常ではなかった。

蔵馬の胸中に苦いものが広がっていく。
5年にわたる拷問。何をされたのかは、誰も知らない。
彼女は霊界の聴取でも、一切語らなかったという。
コエンマもそこには追求しなかった。

彼女の苦しみや絶望は誰も知らない。
誰にも語らない。何も悟らせない。

氷泪石のために行われた非道な行為は、今でも彼女を苛めている。
だが、それを、慰めるすべはどこにあるのだろう。

兄がいれば、何か違っただろうか。彼女の不安は消えただろうか。
傍にいられないという飛影の言い分もわかる。
過去に己がしてきたこと、いくつもの恨みを買っていること。
それを考えれば、妹を遠ざけることが護ることだというのは理解できる。
だが、本当にそれでいいのか。果たしてそれで護れるのか。

飛影の問題だ。それは蔵馬もわかっている。
彼の決断に、口出しはできても強制はできない。
ましてや、何が正しいのかと導いてやるすべもない。
だが、ただ関係性を繋ぐだけで、救われるものもあるのではないかと思う。
簡単に考えてもいいのではないかとも思うのだ。

彼の心はいつか変わるだろうか。
では、それはいつだ?
それを待っている間に、彼女は救われるのだろうか。

「……ん…」

熱い息を零して身じろいだ雪菜の額から、タオルがずり落ちる。
蔵馬はタオルを拾い上げ、氷水につけて絞り直し、雪菜の額にそっと置いた。

蔵馬は眠る雪菜を見つめ、あらゆる抗体検査と予防接種をしておくべきだったかと反省する。
ここまで体内の抵抗力が弱いと思っていなかったし、ここまで我慢するとも思っていなかった。
夏バテのときもそうだが、彼女は不調を不調だと思っていない節がある。
まずはそこから自覚してもらう必要があるなと、蔵馬は小さく溜息をついた。



*



カーテンから陽が差し込み、辺りが明るくなり出した頃、雪菜は目を覚ました。
頭がぼーっとするが、額にはひやりとする感触がある。
目を開けて辺りを見回すと、ベッドの向かいの学習机の椅子に蔵馬の姿が目に入った。

「………? …蔵馬さん…?」
「…おはよう。気分はどう?」

驚いて身を起こした雪菜を、蔵馬は支える。
凭れて座れるように、その背に枕を挟んだ。

「…あの、わたし…?」
「覚えてない? 熱出して倒れたんだよ」

蔵馬に言われて記憶を辿る。
そうだ。なんだか熱っぽいと思っていたら、リビングでそのまま倒れたのだ。

「また無理しましたね」
「……ごめんなさい」
「お説教は元気になってからするとして…とりあえず、水分摂らないと」

そう言って渡されたグラスを雪菜は受け取る。
ストローに口をつけて飲むと、口内に冷たさと甘さが広がった。
どうやら中身はスポーツドリンクのようだった。
飲み終えた雪菜からグラスを受け取り、蔵馬は雪菜の額に手を当てた。

「昨日よりは下がってきたけど、まだ休んでた方がいいですね」
「あの……もしかして、昨日からここに…?」
「当たり前じゃないですか。俺はあなたの主治医ですよ?」

当然のことのように言いながら、蔵馬は雪菜の細い手首に手を当て、脈を測った。

「…ごめんなさい。わざわざ…」
「構いませんよ。雪菜ちゃんの体調の方が大事です」
「……でも…」
「桑原くんたちが心配してたから、早く元気にならないと」
「…! …そうですよね」
「みんなに心配かけないためには、体調が悪くなったらすぐに言うこと」
「…はい」
「我慢しちゃうとこは直さなきゃね」

蔵馬はしゅんとする雪菜を見る。
本当は彼女に無理して欲しくない。
それがいちばんだが、周りが心配するからと言った方が、
雪菜には効果があることを蔵馬は理解していた。
誰かのため、そう言われれば、彼女は従わざるを得ない。

「…あの、わたし…夜中に何か言ったりしました…?」
「…どうだったかな。熱で苦しそうにはしてたけど」
「そうですか…」
「なにか怖い夢でも見た?」
「…内容はあまり覚えてないですけど、怖い夢を見ていたのかもしれません…」

過去の苦い記憶。
遠いようで、まだ近い過去。
まだ、苦しめられている。

「こんな風に体調崩すなんて…人間界が合わないんでしょうか…?」
「そんなことないですよ。抗体がないだけで、そのうち免疫がつきますから、大丈夫です。
 山奥のほとんど無菌の地で暮らしてたから、都会の空気にまだ慣れないだけですよ」

蔵馬の言葉を聞いて、雪菜は安心したような顔をする。

「でも、さすがに全部のウイルスに対して抗体ができるまで待ってたら
 身が持たないでしょうから、出来るだけワクチン接種をした方がいいですね」
「ワクチン接種…」
「簡単に言えば、注射です」
「……」
「ごめんね、夜中にも採血と点滴させてもらいました」
「…!」

雪菜は自分の腕を見る。うっすらと注射針の跡が残っている。
針の感覚が蘇ったかのように、身体が強張るのを感じた。

「…注射は苦手?」
「………でも、必要なんですよね」
「雪菜ちゃんが元気でいるためにね」
「…だったら、大丈夫です」

蔵馬に、というよりは、自分に言い聞かせるように言っているように見えた。

「注射も採血も上手い方ですから、安心してください」
「…はい」
「絶対に傷つけたりしないから」
「…! …はい」

雪菜は落ち着きを取り戻したのか、蔵馬に微笑を向けた。
人を素直に信じることができる。好意を素直に受け入れられる。
それが出来るということは、彼女が疑心暗鬼になるまで
酷い状態には陥っていないことの証左でもあった。
その状態で踏み止まれた精神の強さに、蔵馬は感服する。
そして、人を信じることをやめない彼女にとって、信頼できる存在でありたいと強く思った。

「…昔、俺も風邪を引いて寝込んだことがあって、母さんがうさぎのりんごを作ってくれたな」
「うさぎさん、ですか…?」
「うん。あとで雪菜ちゃんにも作ってあげるよ」

嬉しそうに笑う雪菜の頭を撫でて、蔵馬は優しく声をかける。

「もう少し眠った方がいいよ。うさぎのりんごができたら、また起こしに来るから」

ベッドに寝かされて、また額に冷たいタオルが置かれる。
ひやりとする感触が心地良くて、雪菜はすぐに目を閉じて眠りについた。










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