3. 「蔵馬さん、これはなんて読むんですか?」 「ん、どれ? ああ、それは“わがはい”って読むんですよ」 「ワガハイ…?」 「私って意味ですよ。俺とか僕とかの一人称のひとつ。最近じゃ使わないですね」 「そうなんですね」 「なに? 夏目漱石?」 「はい。猫ちゃんのお話みたいだから読んでみようと思ったんですけど、 タイトルで躓いてしまって」 雪菜はそう言いながら苦笑した。 ここ数ヶ月で、雪菜の読み書きの能力は格段に進歩していた。 まだ意味のわからない言葉や、読めない漢字はあるものの、 ある程度の文章なら読めるようになっていた。 ほぼ平仮名で構成されている児童文学は読めるようになったため、小説に挑戦しようとしていた。 だが、夏目漱石の『吾輩は猫である』に挑戦するのは、時代背景の理解も必要で、 雪菜にはまだ早いと蔵馬は思った。 「現代文学にした方が良いんじゃないかな」 「これは難しい本ですか?」 「うーん、明治の話だからまだ難しいかもしれないですね」 「メイジ…?」 「昔の時代ってこと。1905年くらいの話って言われてるから、90年くらい前かな。 読めなくはないと思うけど、言葉とか時代背景とかを調べながら読まないといけないから、 ちょっと大変かも」 勉強にはなるだろうけどね、と蔵馬は付け足した。 それを聞いて、雪菜は少し残念そうな顔をする。 「今度もう少し読みやすい本を持って来ますよ」 「ほんとですか? ありがとうございます」 「それに、雪菜ちゃんならすぐその本も読めるようになると思うよ」 「そうでしょうか? まだわからないことが多すぎて、何から覚えて良いやらで…」 雪菜は机に広げた教材を見渡した。 一般常識や教養、国語、数学に歴史と、覚えることが山のようにあった。 桑原が小中で使っていた教材や、静流が就活で使用した一般教養の参考書を貸してもらったが、 ここで暮らしていくためには、こんなにも知識が必要なのかと思うと、 途方もないことのように思えた。 ひとりで勉強するには限界があり、最初は桑原に教えてもらっていたが、 桑原も日々の宿題や定期的なテストに追われ、満足に教えることができていなかった。 そこで、白羽の矢がたったのが蔵馬だった。 高3の3学期ともなれば、受験勉強があるため自由登校となっていた。 受験対策の特別授業や補習はあるものの、就職が決まっている蔵馬は、 毎日暇だからと雪菜の家庭教師を買って出てくれたのだった。 「全部覚える必要はないですよ。国語と一般教養は覚えておいた方がいいですけど、 数学なんて基本的な計算さえできれば困らないし、 理科や歴史は急いで勉強する必要もないしね」 「でも、どれが必要かそうじゃないかがよくわからなくて…」 「その線引きは俺がしますよ。そのための家庭教師ですからね」 にこりと笑う蔵馬に、雪菜は急に不安や焦りが和らいだ気がした。 たくさんの教材、たくさんの知識。それらを一気に与えられて、不安に駆られていた。 「雪菜ちゃんは頭いいし、すぐ覚えられますよ」 「そんなことないですよ」 雪菜は謙遜しているが、実際のところ彼女は頭が良いと蔵馬は思っていた。 飲み込みは早いし、理解力もある。 日常生活に支障のない知識は、すぐに覚えられるだろう。 「人間の皆さんは大変ですね。こんなにお勉強することがあって」 「まぁ、魔界じゃ考えられないね」 勉学を学ぶ場は、魔界にももちろんある。 だが、あくまで専門的な知識を学びたい者が行く場で、 こんな風に義務教育として全員が等しく教育を受けるなど、そんな制度はなかった。 足並みの揃った生活もしないし、共通の制度もないに等しい。 魔界は弱肉強食が基本だ。平等に何かを与えられること自体がなかった。 「あの…」 「ん?」 「蔵馬さんはなんで人間界で暮らしてるんですか?」 「……話したことなかったっけ」 蔵馬は自分の生い立ちが仲間内に知れ渡っている気でいたが、 そういえば雪菜には話したことがなかったなと思った。 知らなければ、疑問に持つのも当然だろう。 妖気を放ちながらも、人間の風貌をして、人間の家庭に暮らし、学校に通っている。 確かにおかしな話だ。 「俺が昔は盗賊だったって話は、聞いたことある?」 「はい。銀髪の妖狐だって、暗黒武術会のときに…」 「妖狐だった頃、俺は人間界で盗賊をやっていたんですけど、 霊界のハンターに追われてしまって…。 深傷を負った俺は、ある女性の胎児になる前の生命体に憑依したんです」 「…!」 「融合と言った方がいいかな。俺はそのまま人間の子として生まれて育てられました」 「じゃぁ、その身体は人間の…?」 「ええ。ただ、俺の妖力は消えてはいなかったから、この身体は妖化されてしまったけどね」 雪菜は驚いたように蔵馬の姿を見ていた。 妖怪が人間から生まれたなど、今まで聞いたことがなかった。 「本当は、すぐにでも姿を消そうと思いました。 人間のふりをして生きていく必要なんてないと思っていたから。でも…」 蔵馬は子どもの頃の母の姿を思い出す。 身を挺して庇う母の姿。与えられる無償の愛。 そんなものに心揺さぶられる自分に驚いた。 初めは人間と融合したせいだと思っていた。 けれど、次第に納得しはじめた。 母親を大切に思う自分の気持ちに、嘘偽りはないのだと。 「俺は母さんの傍にいたいと思うようになった。 俺を本当の子だと思って愛情を注いでくれる彼女に、 いつしか応えたいと思うようになったんです」 「……」 「…本当は、彼女の子を奪ったのは俺なのに。 せめてもの罪滅ぼしなのかもしれないし、騙し続けることへの負い目なのかもしれない。 俺の中に人間の感情が残っていて、感化されているだけなのかもしれない。 …それでも、俺にとっての母さんはあの人だけで、何に変えても護りたいと思うんです」 母さんと、新しくできた父親と弟を、なにがなんでも護りたい。 こんな感情を教えてくれたのも、この気持ちが素晴らしいものだと感じるように 育ててくれたのも、母親である彼女だった。 彼女のためなら命を懸けることもできる。 それぐらい大切な存在になっていた。 蔵馬は自分の掌を見つめて、でも、と自嘲気味に笑う。 「この身体は長くは保たない」 「…!」 「妖狐の力が戻るたびに、秀一の生命力が削られていくのがわかるんです」 「そんな…」 「いつかこの身体は朽ちて、妖狐に戻るときが来る。そしたらもうここにはいられない。 …俺は彼女をまた欺いて、哀しませなければならない。いちばん哀しませたくない人なのに」 「……」 「人の子を奪った天罰かな」 拳を握って、ぽつりと呟く。 妖狐の力が戻りつつあること。それは嬉しいことだった。 鈴木にもらった前世の実の副作用に、初めは感謝した。 だが、秀一の生命力が削られていくのは誤算だった。 この人間の姿のまま、外見の歳を取るのが遅くなっていく。 そうやって生きていけるのだと思っていた。 若く見える、それだけなら、ぎりぎりまで母の傍にいられた。 けれど、身体が朽ちてしまっては、妖狐に変わってしまっては、傍にはいられない。 「わかってはいたんですよ。 俺は妖怪だから、どっちみちずっと傍にはいられないことは…」 そこまで話して、蔵馬は雪菜に視線を移し、苦笑を浮かべる。 「……なんであなたがそんな顔するんですか」 「だって……」 雪菜の顔は今にも泣きそうだった。 淡々と話す彼の口調と表情が、余計に雪菜を切なくさせた。 「俺の存在が罪だとはわかっているけど、でも、後悔はもうしてないんですよ。 とても自分勝手だけどね…。だから、天罰なら甘んじて受け入れる」 「……」 「彼女を哀しませることが、唯一の心残りだけど……」 己の存在は罪だと、欺いているのは赦されないと、それを知りながら、離れられなかった。 そして、もう正しい道には戻せないことも知っていた。 この身体を、生命を、返すことなど出来やしないのだ。 だから、犯した罪を受け入れて、後ろめたさを抱えながらも、生きていくしかないのだ。 この嘘を、一生抱えて生きていかなければならないのだ。 傍にいる覚悟を決めた。 だから、後悔はないんだ。 「蔵馬さんは、今幸せですか?」 「…! …もちろんです」 「だったら…罰だとか、罪だとか、そういうことじゃないんだと思います」 雪菜の言葉に、蔵馬は目を瞬く。 「きっと、奇跡なんだと思います」 「え…?」 「蔵馬さんが人間界で新しい生命に宿ったのは、 きっと、お母様と蔵馬さんを引き合わせるための素敵な奇跡です」 「…!」 「いつか離れなければならないのだとしても、それがとても哀しいことだとしても… 出逢えないよりずっといい。…そう思いませんか?」 奪ったものを悔やむよりも、与えられたものへの喜びを、どうか。 「…奇跡、か」 それはまるで、存在を肯定されたかのような眩しい言葉に思えた。 別に自分を否定したり悲観していたわけではない。 けれど。 「そうだね…そう考える方が素敵だね」 優しく微笑む笑顔に、掬い上げられた気がした。 * 「…わたし、ちょっと不思議だったんです」 「?」 「蔵馬さんがなんでこんなに優しいんだろうって。…謎が解けた気がします」 「…そう?」 「優しくて面倒見も良くて頭も良くて、きっと自慢の息子さんですね」 「!」 にこりと雪菜は微笑む。 面と向かって褒められて、蔵馬は少しくすぐったい心地がした。 「…わたし、この世界で生きていくのが、本当は不安もあったんです」 「……」 「でも、人間全部を嫌いにならないでと和真さんに言われて、信じてみようと思いました」 見ず知らずの自分のことを、命懸けで助けてくれた。 だから、彼の言葉を信じようと思った。 「蔵馬さんの話を聞いて、もっと信じられる気がしてきました」 「…そうですよ。不安に思うことはないですよ。意外とやっていけるものです」 かつての自分を思い出す。 途惑いや苛立ちや不安。 新しい世界に、新しい生き方に、馴染めずにいた時期があった。 そして、あたたかさに触れるたびに、どうしていいかわからずにいた。 その途惑いを、きっと彼女も感じている。 「あなたには俺たちがいる」 「!」 「だから、大丈夫です」 微笑む蔵馬に、雪菜は、はいと頷いて返した。 この世界に懸命に馴染もうとしている彼女の姿を見て、少しでも力になりたいと思う。 だって、きっと。 彼女との出逢いも、奇跡のひとつなのだから。 2/戻/4 |