2.

彼女の名を初めて聞いたのは、深傷を負ってうわ言のように呟く飛影の寝言だった。
切羽詰まった彼の姿に、余程大事な女性なのだろうと思った。
どういう関係なのかは、あのときは教えてくれなかったが。

飛影という人物を知れば知るほど、
ひとりの女性を大事にしているのが意外に思えてならなくなった。
彼をここまでさせる女性とは、一体どんな存在なのか。
次第に興味が深まった。

そして、暗黒武術会で初めて彼女を目にし、
彼との関係性を聞いたとき、妙に納得したのを覚えている。

「まさか“ユキナちゃん”にお目にかかれる日が来るとは思ってませんでしたよ」

裏御伽チームの視察が終わったあと、蔵馬は飛影に声を掛けた。
飛影は不機嫌極まりない顔をしている。

「よかったですね、見つかって」
「……あぁ。だが、いいとは言えない」
「…?」
「あいつは…5年も人間に捕まっていた」
「!」
「…5年だぞ…。…この邪眼は肝心なときに役に立たない…。
 なのにあいつは、懲りずにまたこんなところに来て、何考えてるんだ……」

拳を握る飛影を見て、蔵馬は彼の地雷を踏んだことを理解した。
よかっただなんて、なんて軽率な言葉か。
こんなところに来てしまったのは、兄を探すため、すなわち自分のせいだ。
そのことが更に飛影の苛立ちを募らせているように見えた。

雪菜救出の任務には、蔵馬は関与していなかった。
BBC(ブラックブッククラブ)の連中が相手で、戸愚呂と邂逅することになった任務。
それくらいの認識だった。

だから、吏将との闘いで突如現れた彼女が飛影の妹だと聞いたときは、心底驚いたものだった。
しかも桑原が相当惚れ込んでいるが、飛影が兄だということは知らないようで、
事態は無駄にややこしくなっていた。

暗黒武術界が終わってから、蔵馬は霊界で救出任務の調書を読んだ。
そこに記されていたのは、垂金権造という宝石商の強欲さと、
彼がいかにのし上がったかが事細かに記載されていた。

一方で、雪菜への調書にはほとんど子細は記されていない。
闇ブローカーに捕まった経緯と、救出後のメディカルチェックの結果くらいしかない。
それはつまり、霊界の聴取で彼女が何も語らなかったことを意味している。
だが、彼女が何も語らずとも、垂金の飛躍っぷりや金の動きを見れば、
その影で、どれほどの氷泪石が搾取されたのかは容易に想像がついた。

おっとりとした空気を放ち、柔らかく微笑む少女は、
戦闘のたびに怪我を気遣って治療にあたってくれた。
5年も監禁されていたなど、話を聞いていなければ気づきもしなかっただろう。
それほど彼女はとても穏やかだった。

飛影が必死で探し続け、見つかってからも離れた場所で大事に見守り続けている。
それほど大事なら、さっさと名乗り出てしまえばいいのにと思う。
けれど、飛影は名乗らないと決めていた。
巻き込んで傷つけたくないからと、近づかないことを頑なに決意していた。

不器用に愛するその姿が、もどかしくもあり、歯痒くもあった。
彼にとって彼女が大事な存在であるように、彼女にとっても兄の存在がどれほど大きいものか、
わかっているはずなのに。



*



幽助の妙案で開催された魔界統一トーナメントは煙鬼の優勝で幕を閉じた。
蔵馬は魔界と人間界を行き来する慌ただしい日常からは解放され、
高校生としての最後の夏休みを過ごしていた。
お盆も過ぎ、酷暑ではなくなってきたものの、まだ気温は高く汗ばむ陽気が続いている。

燦燦と降り注ぐ日差しの中、蔵馬は桑原の家の前にいた。
夏休みの宿題が終わらないという桑原に助けを求められ、勉強の手伝いに来たのだった。
インターフォンを鳴らすと、程なくして玄関の扉が開いた。
緑がかった蒼い髪の少女が、ちょこんと顔を出す。

「こんにちは」

にこりと笑う雪菜の姿に、蔵馬は苦笑する。

「こんにちは。すぐ玄関開けちゃ駄目ですよ? 悪い人だったらどうするんですか?」
「…! そうでした…! ごめんなさい、蔵馬さんが来るって聞いてたから、つい…」

インターフォンが鳴ったら、訪問者を確認してから扉を開けること。
静流にそう教わったのに、すっかり失念していた。

「俺が来るときは別にいいけど、気をつけてくださいね?」
「はい…!」

雪菜は頷きながら、蔵馬を家へと招き入れる。
来客用のスリッパを出して、蔵馬に勧めた。

「あ、和真さん、コンビニに行ってしまって…。すぐ戻ってくると仰ってました」
「そうなんですね。じゃぁちょっと待たせてもらおうかな」

そう言って、通されたリビングのソファーに腰掛ける。
最近やっと懐き始めた猫たちが、蔵馬の足に頭をすり寄せた。
雪菜はキッチンへと行き、グラスに氷を入れて烏龍茶を注ぐ。
リビングのテーブルに置き、蔵馬にどうぞと出した。

雪菜が桑原の家に来て、まだ2ヶ月ほどだった。
この家に彼女がいることに蔵馬もまだ慣れなくて、なんだか変な感じがする。
雪菜は、見慣れたひとつ結びの髪に、シンプルなTシャツとロングスカート姿だった。
道場にいた頃や桑原家に来た初日のジーンズ姿に比べると、
なんだかこちらの方がしっくり来る気がする。

「生活には慣れましたか?」
「…まだまだです」

雪菜は苦笑した。
街の喧騒や人の多さ、車や電車といった乗り物、スーパー、カフェ、学校など、
初めて見るものばかりで、いつも途惑ってばかりだった。
数字は覚えられたが、人間界の文字はまだほとんど読めなくて、情報を得るのでさえ苦労する。
人間界の常識もなく、突拍子もないことをしてしまいそうで、
街に出るのはまだ不安なことも多かった。

「幻海さんのところにいた頃とは全然違って…同じ国なのに不思議です」

山奥の長閑な場所で、幻海や弟子の霊能者、妖怪たちに囲まれて
暮らしていた頃とは勝手が全然違う。
魔界がその存在を明らかにしたからといっても、すぐに妖怪が市民権を得られるはずもなく、
周りには妖怪であることを隠して生きなければならなかった。

ましてや、雪菜は氷女だ。
涙が至高の宝石に変わるなどと知られれば、またいつ裏社会の人間に見つかるかわからない。
人前で泣いてはいけないのはもちろんのこと、むやみに警戒を解くこともできなかった。

「たくさん覚えることがあって大変ですけど…でも、毎日楽しいです」
「何かあったら言ってくださいね。力になりますから」

蔵馬の言葉に、雪菜は嬉しそうに笑った。
その無邪気な笑顔に、こんな可愛い子とひとつ屋根の下にいて、
桑原は大丈夫だろうかと心配になった。



*



「で、どうなんですか? 最近」
「どうって…まぁ、なんていうか、夢のようっつーか」

コンビニから戻って来た桑原と彼の自室に移動して、
蔵馬は勉強道具を広げながら、桑原に近況を聞いた。
高校受験のときほど頻繁にではないが、今でもテストの時期が近くなると、
桑原の家や近くの図書館で一緒に勉強をしていた。
といっても、どちらかというと桑原が蔵馬に勉強を見てもらっているといった方が正しいが。

「天使が家に舞い降りたっつーの? もうまさに毎日天国よ」
「…幸せそうで何よりです」

浮かれる桑原に、蔵馬は呆れた顔をする。

「昼間は雪菜さんひとりになっちまうから、最初は心配してたんだけどよ、
 ドラマの再放送とか見て意外と満喫してるらしい」
「まぁ、社会勉強にもなるでしょうしね」
「散歩にも行くようになったみたいだし。
 この前は近所の八百屋でおまけしてもらったって喜んでたな」

相変わらずにやけ顔のままだったが、桑原は目を細めて笑みを浮かべる。

「ちょっとずつだけどよ、雪菜さんがこの街に馴染んできてるのが嬉しいんだよな」
「そうですね。慣れてくれればデートにも行けますしね」
「デ…!! デートって…!!」
「え? 行きたいと思わないんですか?」
「いや、行きたいけどよ…! そ、そういうのは、まだっつーか…」
「でも、一緒に出かけたりはしてるでしょ?」
「そりゃ、スーパー行ったり茶店行ったりはあるけどよ…」

にやにやと笑う蔵馬に、桑原は照れ隠しのように目を逸らした。

「そういうのはまだ先なんだよ…!」



*



夕刻になり、蔵馬がそろそろ帰ろうと、桑原とともにリビングに降りると、
ソファーで眠る雪菜の姿があった。
膝に猫を乗せ、両脇にも猫が寝そべっていた。
ソファーの背凭れに乗った猫が、雪菜の頭に寄り添うように寝ている。

「…大人気ですね」
「雪菜さんは動物に好かれるからな」

猫に埋もれて眠る雪菜の姿に、蔵馬は珍しいものを見た気がした。

「いつもこんなに無防備なんですか?」
「…まぁ、最近は多いな。新しい生活での疲れもあるんじゃねぇか?
 ちょっとぼーっとしてるときもあるみたいだし」

いやーまじで天使だな。そう呟きながら、
桑原はまじまじと雪菜を見つめて、改めて実感したようだった。

「…! …あ、ごめんなさい、わたし寝ちゃって……」

話し声に気づいたのか、雪菜が目を覚ました。
膝の上にいた猫を抱きしめながら、恥ずかしそうな顔をする。

「ごめんね、起こしちゃって」
「いえ…!」

蔵馬は雪菜の隣に座り、その顔を見つめた。

「…あの…?」
「ちょっ、蔵馬! なにしてんだよ…!」

途惑う雪菜と憤慨する桑原を無視して、蔵馬は雪菜の額に触れる。
桑原から声にならない悲鳴が上がった。

「…雪菜ちゃん、もしかして体調悪い?」
「…!」
「夏バテかな」

額から手を話して、蔵馬は雪菜にいくつか質問をした。

「食欲がなかったりする?」
「…少し」
「ダルかったり、疲れやすい?」
「…ここ最近は」
「目眩が起きたりする?」
「…たまに」
「それに、今もちょっと熱っぽいよね?」
「……はい」
「完全に夏バテですね」
「えぇ!! そうだったんすか、雪菜さん! なんで言ってくれないんっすか!」
「…あ、あの疲れてるだけかなって思って…」

雪菜自身にも倦怠感がある自覚はあったが、慣れない生活での疲労だと思っていたようだった。
桑原も、雪菜の食が進んでいない気はしていたが、
少食だなくらいにしか思っていなかったのである。

「ここは幻海師範のところとは気温差がありますから。
 日中出歩くのは控えて、こまめに水分をとって、
 しっかりビタミンとミネラルを摂るようにしてください」
「…はい」
「室温ももう少し下げた方がいいですよ」
「で、でも…」
「雪菜さん、大丈夫っす! 姉貴には俺から話しておきますから!
 うちは暑がりなんで問題ないっす!」

そう言って桑原はエアコンの温度をがんがん下げた。
すかさず、蔵馬が下げすぎとツッコミを入れる。
人間の夏バテ対策には、外気との温度差がありすぎるのは良くないが、
雪女である雪菜の場合、そもそもの基準温度があまり高くはない。
とはいえ、人間と共存するには極端な下げ過ぎも良いとはいえなかった。

「蔵馬さん、すごいですね。お医者さんみたい」
「たいしたことないですよ」

というか、と蔵馬は雪菜を見る。

「雪菜ちゃんが我慢し過ぎです」
「!」
「あなたは元々暑さに弱い種族なんですから、無理しないでください」
「ごめんなさい…」
「体調悪くなったら、すぐ言ってくださいね」

蔵馬に咎められて、雪菜は申し訳なさそうにはいと頷いた。
彼女はきっと我慢することに慣れている。蔵馬はそう思った。
体調が悪いことにさえ気づかないほど、耐えることに慣れてしまっている。
そんな生活を送らざるを得なかったのだろう。
あの牢獄の中で、痛みに耐えて、苦しみに耐えて、そして、感覚が麻痺していくのだ。
擦りよってきた猫を撫でている雪菜を見ながら、蔵馬は彼女の危うさを垣間見た気がした。



*



「ちょっと気をつけて見てあげてください。
 たぶん、人間界のウイルスには免疫ないでしょうから」

帰り際、玄関まで見送りに来た桑原に、蔵馬は釘を刺した。

「なんで雪菜さんが体調悪いってわかったんだ?」
「なんか顔色良くなかったし」
「…オメェ、やっぱすげぇのな」

なんでもないようにさらりと言ってのける蔵馬に、桑原は改めて感心した。
桑原は雪菜のことを見ているつもりでいたが、顔色の悪さには気づかなかった。
いつも通りの色の白い透き通った肌にしか見えていなかった。
暗黒武術会のときも、蔵馬は症状を見ただけで解毒剤を作って見せたりと、
薬学だけでなく医学にも精通しているようだった。
洞察力もあり、博識で、文武両道で、その上顔も整っている。
まさに非の打ちどころがないとは、彼のことを言うのだろうと桑原は思った。

「雪菜さんになんかあったら頼んでいいか?」
「…俺は医者じゃないですけどね」
「オメェだったらなんにでもなれんだろ」
「買い被りですよ」

蔵馬は苦笑する。
だが、もしものときのために、氷雪系の妖怪の生態について、少し調べてみようと思った。

幻海の道場で、月を眺めていた雪菜の姿を思い出す。
月夜に照らされた深紅の瞳は、複雑な色を秘めているように見えた。
それがとても儚くて美しく、彼女の強さと弱さを表しているようだった。

その姿が、脳裏に焼き付いたまま、ずっと消えないでいた。










13