3.

男は狼。そう言うけれど。
目の前の彼はまったくそんな風には見えないから、
いくら危ないと言われたって、あまり説得力はない。
現にふたりきりの部屋にいたって、信頼できる男性はいるのだから。

「蔵馬さんってさ、なんであんなに人畜無害なのかしらね」
「千年くらいだっけ? そんだけ生きてたらもう悟りの境地なんじゃない?」
「んーでも、妖狐の姿見る限り、悟り開いてるって感じじゃないけどねー」

とあるカフェで、螢子・静流・ぼたんの会話を雪菜は黙って聞いていた。
というより口を挟めずにいた。

「千年生きてたとしても、性欲ゼロなんてありえないでしょ」
「そこはさすがに魔界に女がいるんじゃないの?」
「あー、それはあるかも。魔界にも蔵馬のファンは多いしね」

どうもこの手の話題はまだついていけないと、
雪菜は目の前の紅茶を一口飲み、窓の外を眺めた。

確かに彼は、優しくて面倒見も良くて、誰にだって頼られる存在だ。
でも、男は狼なんて言葉が誰にでも当てはまるのだとしたら、
彼に女性の影があってもおかしくないのだろう。

恋はしていない。そう言っていたが、
ただ恋人の存在を大っぴらにしていないだけかもしれない。

もし、彼に恋人がいるのだとしたら。
それはとても素敵なことだと思う。
いつもみんなを気遣う彼を、そっと支えてくれるような人がいるのだとしたら。

「あ…!」

窓の外。雑踏の中。彼の姿を見つけた。

「どうしたの? 雪菜ちゃん、急に」
「蔵馬さんが外に…」
「え? 嘘!?」

カフェから見える通りの向こう。横断歩道を渡る蔵馬の姿が見えた。
会社帰りなのだろうか。スーツ姿で歩く彼の横に、寄り添うように女性の姿があった。
肩まで伸びた黒い髪がさらりと風に吹かれて揺れていた。

「噂をすればなんとやらってやつ?」
「隣の人、彼女かな?」
「年上…っぽい?」

蔵馬はこちらに気づくことはなく、そのまま雑踏へと消えていった。

「なんだー、蔵馬くんもやることやってんのね、よかった」
「確かになんか安心した」
「みんなのお節介ばっか焼いてないで、蔵馬にも幸せになってほしいしね」

ぼたんたちはそう言ってひとしきり頷き合ったあと、話はすぐに次の話題へと変わっていった。
雪菜はただ、蔵馬が消えていった方を黙って見つめた。



*



「へぃらっしゃい! …って桑原と蔵馬じゃねぇか」
「よ!」
「こんばんは」

幽助のラーメン屋台に訪れた桑原と蔵馬は、
カウンターの席に腰掛け、いつものチャーシュー麺を頼んだ。

「さっき駅前でばったり会ってよ」
「せっかくだからラーメンでもって話になったんですよ」
「仲良いのな、お前ら」

笑いながら、幽助は麺を茹ではじめる。

「それがよ、蔵馬が女といたんだよ!」
「マジか!」
「黒髪の綺麗なお姉サマでよ。いやぁー、これは浦飯にも報告しねぇとと思って!」
「…俺の話はいいじゃないですか」
「またまた〜。照れんなって!」
「一緒に来ればよかったじゃねぇか」
「何言ってんだ、浦飯!
 あんな素敵なお姉サマをこんなとこに連れてこれるわけねぇだろーが!」
「あ? こんなとこってなんだよ!」
「デートで来るような場所じゃねぇだろ!」
「おめぇ、雪菜ちゃんとよく来てるくせによく言うぜ」
「ゆ、雪菜さんとはだなぁ、別にデートとかじゃなくて…!!」

話が逸れていることには触れないようにして、蔵馬は話題を変えることにした。

「桑原くんは、キャンパスライフはどうなんですか?」
「あ? 大学か? …あー、まぁ楽しーぜ。つっても理系だから男だらけだけどな」
「とかいって、女子大生と毎日遊んでんだろ? 静流さんが言ってたぜ」
「ばっ! ちげぇーよ! サークルとかいろいろ付き合いあんだよ!
 俺は雪菜さん一筋でい!」
「で? その雪菜ちゃんとはどうなんですか? 何か進展ありました?」

蔵馬がそう聞くと、桑原は言葉に詰まるように静かになった。

「あーあー、蔵馬、それ聞いちゃダメだぜ」
「浦飯、うるせー!」
「…つまり進展はないと」
「……」
「何やってるんですか、この数年…」

蔵馬は呆れたように言った。
ひとつ屋根の下にいて、いくらでもアプローチのチャンスはありそうなのに。

「いや、それとなく伝えてはいるんだけどよ、なんていうか手応えゼロというか…」
「そりゃ、あの子にはストレートに言わないとダメだろーぜ?
 未だに何も気づいてないんだろうな」
「いやでもよ、それで伝えてフラれたらどーすんだよ、
 一緒に住んでんだから気まずいだろうが」
「大丈夫じゃねぇーの? 雪菜ちゃんが知ってる男なんてお前ぐれぇなんだし、いけんだろ」
「そんな簡単じゃねぇよ! それに最近は男の影があるっつーか」
「まじで??」

男の影とは川上のことだろう。
やはり桑原も心配しているのだなと蔵馬は思った。

「あーめんどくせぇーなー、もう押し倒しちまえよ」
「な! な、なんてこと言うんだ、てめぇ!」
「んだよ、そんなこといってイロイロ妄想してんだろ?」

にやにやと笑う幽助に、桑原は反論を返したが、いまいち説得力はなかった。

「最近妙に色っぽくなってきたし、発育もいいじゃん」
「ばっか! てめぇー雪菜さんのどこ見てんだ!」
「おめぇーも見てるくせに〜」
「うるせっ! 俺はだなぁ…!」

赤面している桑原に、幽助はからかうように笑っていた。
健全男子たちの会話に蔵馬はため息をつきつつ、一応釘を刺しておくことにした。

「桑原くん、いかがわしい妄想はやめてくださいよ」
「お、おう…もちろんだぜ」

蔵馬の笑顔の圧力に、桑原はなんだか逆らってはいけないような気がした。

「でも、本当に可愛くなりましたよね、雪菜ちゃん」
「蔵馬まで…!」
「そうだ。あれ、撤回してもいいですか?」
「あ? あれってなんだよ?」
「雪菜ちゃんに惚れるなってやつ」
「!」
「あー、おめぇ、蔵馬まで牽制してたわけ?」

必死だな、と幽助は苦笑した。
意地の悪い笑みを浮かべている蔵馬に、桑原は焦りのような顔を見せる。
蔵馬の言葉は冗談だとわかっていても、もし彼がライバルになったら、勝てる気はしなかった。

「あんまりもたもたしてると誰かに盗られちゃいますよ?」
「う! …そうだよな…そうなんだけど…!」

蔵馬の煽るような言葉に桑原は頷くものの、まだまだ決心が固まりそうにない姿に、
こりゃだめだと幽助と蔵馬は思った。



*



紅葉していた木々が枯れ始め、澄んだ空気が肌を刺すように冷たい。
街を歩く人々の服装も、厚手の衣に変わり、冬の足音が近づいていた。

平日の昼下がり。
雪菜は花屋での仕事を終えて、街をぶらぶらしていた。
冬物の新しい服を探そうと思ったのだ。

桑原家に来たばかりの頃は、静流や螢子に選んでもらって買っていたが、
最近ではひとりで買い物に来ることが多くなった。
自分のバイト代で、自分で選んで買えるようになったことが、
雪菜にとっては少し誇らしいことだった。

街を歩いていると、少なからず声を掛けられることもあったが、
かわし方をなんとか心得始めていたし、平日の昼間は人通り自体が少ないことを学んでいた。
ショーウィンドウを眺めながら、気になったお店に立ち寄ってみる。
そんなことを繰り返していると、気づけば荷物は増えていて、
ちょっと買い過ぎたかなと雪菜は内心反省していた。

雪菜が買い物を終えて駅に向かおうとしたとき、見知った声が聞こえてきた。

「あれ? 雪菜ちゃん?」
「!」

振り向くと、そこには赤味がかった髪にスーツ姿の蔵馬の姿があった。
名を呼ぼうとして、しかし、すぐ近くに女性がいることに気づく。
肩まで伸びた黒髪が綺麗な、この間見た女性だ。

「秀一さん、こんにちは」
「こんなところで会うなんて、奇遇ですね。買い物帰り?」

蔵馬は、咄嗟に秀一と呼んでくれたことに礼を込めて笑みを返しつつ、
雪菜が持っているいくつかのショッピングバッグに目を向けた。
雪菜は頷きながら、たくさんの荷物を抱えている姿を見られたことに、
なんだか気恥ずかしくなった。

「秀一くんの知り合い? すっごい可愛い子!」

黒髪の女性が目を輝かせてこちらを見ていた。
もしかしてハーフ?と雪菜をまじまじと見ている。

「麗子さん、こちら雪菜ちゃん」
「こんにちは」
「こんにちは〜。すごい、芸能人みたい! 可愛い〜。
 秀一くんといい、この子といい、世の中にはいるもんなのね、こんなに綺麗な子が」

蔵馬よりは、少し年上だろうか。
明るくてとても笑顔が素敵な女性だと雪菜は思った。

名前で呼び合っている。そのことが気にかかった。
人間界では名字で呼び合うことが多いのを最近の生活で学んでいた雪菜は、
このふたりがただの知り合い程度でないことは理解できた。

――彼女かな?

以前螢子が言っていた言葉が頭をよぎる。
彼女だとしたら、すごくお似合いだと思った。
明るくて、だけど落ち着いた大人の女性。蔵馬の雰囲気にぴったりだ。

「あ、秀一くん、そろそろ電車の時間!」
「え、もうそんな時間ですか? ごめんね、雪菜ちゃん、もう行かないと」
「いえ…」
「じゃぁ、またね」

そう言って、蔵馬と麗子は足早にその場を去って行った。
麗子が振り向きざまに手を振っている。雪菜は会釈をしてそれに応えた。

並んで歩いていくふたりの後ろ姿があまりにもお似合いで、雪菜は取り残された気分になった。
幽助と螢子を見て、お似合いだないいなと思うことはある。
だが、今はそのときとはまるで違う気分だった。



*



麗子の存在が気になる。
そう思いながらも、聞くことが出来ないまま、気づけば季節は冬を迎えていた。
師走に入り、朝には霜が降りるほどの寒々しい天気が続いている。
雪菜にとってはその冷たさはどうってことはなかったが、
花屋の水仕事は、他のバイト仲間たちには堪えるようだった。

クリスマスが近いこともあり、店の花もクリスマス仕様になっていた。
ポインセチアや、サンタの飾りがあしらわれたブーケが、店先に並んでいる。

「桑原さんさ、クリスマスの予定とかあるの?」
「家族で毎年恒例のパーティーがあるんです。あ、でもイブはバイト入れますよ?」

川上の言葉に、雪菜は予定を思い出しながら答えた。
確かシフト入れたはず、と呟く雪菜に、川上はシフトの話じゃないんだけど、
と内心突っ込みを入れた。

「彼氏とかと過ごさないの?」
「え? いえ、いませんよ、彼氏なんて」
「ふーん、そうなんだ。あの人は違うの? ほら、よく迎えに来るでかい人」
「…和真さんのことですか? あの方は、えっと、親戚の方で。彼氏ではないんです」

雪菜のシフトが遅番になるときは、よく桑原が心配だからと迎えに来ていた。
リーゼントのでかい男が店の前でガンを飛ばしていると、
この店ではちょっとした有名人だった。

「超絶イケメンの人は?」
「え? …あぁ、あの方はみんなの保護者、みたいな…」
「あー確かにグループにひとりくらいいるね、面倒見のいいやつね」

うちでいう牧瀬みたいなやつ、と川上は付け足した。
確かに牧瀬は面倒見がよく、少しお節介な面もあるくらいだった。

「じゃぁ本当にフリーなんだ」
「フリー…?」

その言葉の意味がよくわからず雪菜は首を傾げたが、
すいませーんと声を掛けられて、そちらの対応にあたった。

「いらっしゃいませ。…あ…!」
「こんにちは。秀一くんに紹介してもらって来ちゃった」

雪菜が振り向いた先にいたのは、麗子だった。

「雪菜ちゃん、だったよね? また会えてよかった」

麗子はにこにこと笑顔を向けた。
紺のワンピースに淡いベージュのロングコートを羽織った麗子は、
自分では出せないような上品な色香を漂わせていた。

「この間はごめんなさいね、すぐにお暇しちゃって。
 雪菜ちゃんがあまりにも可愛いから、あのあと秀一くんにいろいろ聞いちゃった」
「そうなんですか?」

いろいろとは何を聞かれたのだろう。
きっと蔵馬も北欧設定に合わせて話してくれたのだろうか。

「ここのお花屋さんで働いてるって聞いて、思わず会いに来ちゃった。
 …なんて言ったらなんかストーカーみたいよね、私」

くすくすと麗子は笑った。

「あ、ごめんなさい、私ばかり話しちゃって! おしゃべりだってよく言われるのよ」
「いえ、そんなことは…」
「素敵なお店ね。そうだ、お花はバラが欲しいんだけど」
「バラ…ですか」
「そう、赤いバラがいいかな」
「贈り物ですか?」
「ええ、記念日なの」

そう言って、麗子は少し照れたような嬉しそうな顔をした。
赤いバラ。どうしてもあの人を連想せざるを得ない。
武器としても使うが、普通に花としても好きだと以前言っていたのを雪菜は思い出した。
付き合って何か月目かの記念日とかだろうか。

「男性で花が好きなんて変わってるでしょ?」
「…!」

なぜだろう。
面倒見の良い彼を支えてくれる優しい女性が傍にいてくれればいいのにと思っていた。
きっと目の前の女性はぴったりなはずだ。
笑顔がとても素敵で、大人っぽくて、でもときおり人懐っこい表情を見せる。
まさにお似合いだ。並んだ姿も素敵だと思った。

けれど。
それを嫌だと思う自分がいることに雪菜は気づいていた。

バラの花束を包み終えて、麗子に手渡すと、とても綺麗ととびきりの笑顔を向けてくれた。
きっとこんな素敵な笑顔で、彼女は彼にこの花束を手渡すのだろう。

ざわざわとした想いが広がる。
例えば、兄をとられた妹の気分が、こういうのだったりするのだろうか。
はたまた、下の子に母親をとられた上の子、みたいな?
想像してはみたが、どれも経験のない雪菜には、この想いの答えはわからなかった。



*



「桑原さん、今日メシどう?」

バイト終わりに川上が声を掛けて来た。

――ほいほい付いてっちゃ駄目ですよ?
蔵馬に言われた言葉が頭をよぎる。
けれど、今日は誰かと話して気を紛らわせたい気分だった。

「行きたいです。この間のレストランはどうですか?」

彼との食事は初めてじゃないし。

大丈夫。
間違いは起きない。










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