4.

あれから、雪菜は川上とバイト帰りに何度か食事に行った。
大学での話を聞いたり、花屋らしく花の話をしたり、
流行りのお笑いや芸能人を教えてもらったりと、他愛のない話をして盛り上がった。
川上は、親切で話し易く、バイトでも頼りになる先輩であり、
雪菜にとっては、幽助や桑原のように信頼できる存在になりつつあった。

「ごちそうさまでした。おいしかったですね」
「ホント、ここ、ノーマークだったね。みんなにも教えてあげよ」

今日は、今までに行ったことがないお店で食べようということになり、
初めてのレストランに入ってみたが、大当たりだった。
ふたりで食事をするとき、大体割り勘だが、たまに川上が奢ってくれた。
雪菜は申し訳ないと言ったが、年上の意地だと言って譲ってくれなかったので、
甘えておくことにした。

もうすぐクリスマスということもあり、街はすっかりイルミネーションで彩られていた。
帰り道に通りかかった広場も、綺麗な電飾で飾られている。

「わぁ、綺麗…」
「ちょっと寄ってく?」

川上の言葉に、雪菜は嬉しそうに頷いた。
広場にはたくさんの種類のイルミネーションがあり、人気のスポットのようだったが、
平日の夜ということもあって、あまり混んではいなかった。
綺麗な灯りに吸い込まれるように、雪菜は広場の奥へと進んでいった。
はしゃいでいる雪菜の姿に、川上は笑いながら言った。

「スウェーデンにはイルミネーションなかったの?」
「わたしが住んでたところは寒すぎて…こんな風に飾るなんてなかったです」

スウェーデンではなく、故郷のことを思い浮かべながら雪菜は話していた。
イルミネーションなんて華やかなもの、あの国には存在しない。
人間界に来て、桑原家で暮らすようになってまだ数年。
雪菜にとっては見るものすべてが未だに新鮮だった。

「意外と広いですね」
「だね。結構歩いたな」

イルミネーションは思った以上に広く、広場を抜けて大通りまで続いており、
夢中で見ているうちに、随分駅から遠くへ来てしまった。

「桑原さん、今日まだ時間ある? …ちょっと、休憩してく?」

時計の針はまだ19時半。一応門限は21時になっている。
休憩していくくらいなら大丈夫だろうと雪菜は思った。

「そうですね、どこ行きますか? カフェとか?」
「いや……あそこは?」

川上の目線の先。
通りの少し奥にある、小洒落た建物。
店名は凝った筆記体で書かれているためよく分からなかったが、
確かに「ご休憩」の文字が見える。
なんの店なのか雪菜にはわからなかったが、休憩所か何かなのだろうと思った。

「ああいうところ、よく行くんですか?」
「いや…そんなには行かないけど……。……その、嫌…かな?」
「いえ、大丈夫です」
「…! …じゃぁ決まりで」

川上が何やら嬉しそうな顔をしたが、雪菜にはその意味がわかってはいなかった。

建物の中に入り、川上が部屋を取る。
鍵を受け取って、雪菜に付いてくるよう促した。
エレベーターを上がると、個室がずらりと並んでいた。
なんだかホテルみたいと、雪菜は以前旅行で泊まった観光地のホテルを思い出していた。
だが、そこと比べて、なんというか内装はメルヘンな創りだった。

部屋に足を踏み入れると、ど真ん中に貝殻をかたどったベッドが鎮座していた。
休憩でこんなところを使うのか、と雪菜は辺りを見回した。
コートを脱いで、近くにあったハンガーに掛けたところで、川上に声を掛けられた。

「桑原さん、先にシャワー浴びていいよ」
「え…?」
「あれ、浴びない派?」
「えっと………」
「それとも、一緒に浴びる?」
「…あの、わたし……その……」

雪菜は急に怖くなった。
この場所の意味を徐々に理解しはじめた。

「ごめんなさい、わたし…そういうつもりじゃ……」

そう言って後ずさろうとする。
だが、強く腕を引かれた。

「ホテルまで付いて来といて、それはないでしょ」
「川上さん、待って…! やっ…」

抵抗も虚しく、雪菜の小柄な身体は貝殻のベッドに押し倒された。
覆い被さる川上の顔が見れなくて、雪菜は視線を逸らした。
腕を強く押さえつけられて、身動きが取れない。

「何度もメシ行ってさ、思わせぶりな態度取ったのそっちじゃん」
「え? ち、違うんです…! わたし、友達として…!」
「だめだ、俺もう限界」
「やめて、やっ…!」

川上が唇を塞ごうとしてくるのを、顔を逸らして避ける。
唇は頬を掠め、そして、耳たぶ、首筋へと押し付けられた。
背筋に悪寒が走る。

川上は雪菜の両手を片手で抑え、服に手を掛けようとした。
雪菜が抵抗を見せると、川上が乱暴にブラウスのボタンを外した。
ボタンが弾け飛び、白い肌が露わになる。
川上は服の上から雪菜の胸に触れた。

「いやっ! 誰か…っ!」
「大きな声出しても無駄だよ。防音だから」
「!」

覚えている。この絶望。
誰も助けに来てはくれない、この恐怖。
力でねじ伏せられる圧倒的な無力感。
金縛りにあったかのように怖くて動けなくなる。

でも。

川上が雪菜の服の中に手を入れようとした瞬間、最後の勇気を振り絞って雪菜は抵抗した。



*



どれくらいこうしていただろう。
震えが未だにおさまらない。
貝殻のベッドの上。
傍には気を失って倒れている川上の姿。

どうしよう。どうすれば。

なんて自分は愚かなのだろう。あれだけ気をつけろと言われていたのに。
こういうことにならないために、みんな心配してくれていたのに。

雪菜は震える身体を奮い立たせて、自分のバッグを探した。
とりあえず誰かに電話しなければ。
携帯を取り出して、電話帳を開く。

だが、誰に掛ければいい?
誰に、なんて言えば。

こんなこと、誰にも言えない。

ぱっと浮かんでは消える姿に、雪菜ははっとして、財布から1枚のカードを取り出した。
「畑中秀一」と書かれた名刺に、会社の電話番号が書いてある。
蔵馬の携帯の番号は知らなかった。
だが、ここに掛ければ繋がるかもしれない。

雪菜は祈るようにその番号を押した。

時刻は午後20時。
残業はあまりないと言っていた彼が、まだ会社にいることを願った。

しばらくの呼び出し音の後、社名を告げる声が聞こえた。



*



今日は急な提案資料の作成が必要になり、蔵馬は予定外の作業に追われていた。
だが、それも漸くひと段落し、退社しようかと思ったまさにその時。
電話を取った後輩社員に呼び止められた。

「あのー、畑中さん」
「ん?」
「なんか変な電話が掛かって来てるんですけど、どうします?」

男性社員は怪訝そうな顔をしている。
畑中さんのファンとかですかね、と首を傾げた。

「取引先とかじゃなさそうなんですけど、あの、ユキナさん?って心当たりあります…?」
「!! 繋いで!」

蔵馬の勢いに男性社員は驚いた様子で、慌てて1番ですと内線番号を告げた。

「もしもし? 雪菜ちゃん??」
『……蔵馬さん…?』
「そうだよ、どうしたの?」
『………たすけて……』
「!!」

それは今にも消え入りそうな小さな声だった。

「今どこ!?」
『花屋の近くの…ホテル?』
「なんて名前!?」
『…わからないです……名前…』
「パンフとかルームキーとかに書いてない?」
『…えっと………あ、ありました。ホテルマーメイド…』

電話で話している間の同僚の視線や、なんでホテルなんかにいるんだという苛立ちや、
早く行かなければという焦りや、いろんな感情が蔵馬の中を駆け巡っていた。

ホテルマーメイドの場所を、会社のパソコンで検索する。
あぁ、もう、やっぱりラブホテルじゃないか。



*



電話が繋がった安心感と、忠告を守らなかったことへの罪悪感と、
いつ彼が目を覚ますかわからない恐怖感。
雪菜はベッドから離れた位置に座り込み、胸元を隠すようにコートを抱きしめた。

早く来て欲しい。
祈るように雪菜は待ち続けた。

勢いよく開く扉の音。
息を切らした彼の姿。
その姿を認めて、雪菜は小さく息を吐いた。

「雪菜ちゃん!」

その声を聞いて、今にも泣きそうになる。
雪菜はその名を呼ぼうとしたが、掠れて声にならなかった。
蔵馬は雪菜の傍に駆け寄り、倒れている男の姿を見て、すぐに状況を理解する。
頭にカッと血が昇るのを感じた。

「何やってるんですか、あなたは…! あれほど気をつけろと言ったのに!」
「…ごめんなさい…」

声を荒げた蔵馬に、雪菜はびくりと震えた。
それを見て、ごめん、と取り乱した自分を落ち付けようと蔵馬は小さく息を吐く。

「あの男は…」

そう言って蔵馬は、ベッドで倒れている川上に視線を向けた。
雪菜は震える声で蔵馬に告げた。

「…怖くなって、とっさに妖気を当ててしまって…。
 …どうしよう…大丈夫、ですよね…?」
「あんな男、氷漬けにすれば良かったのに」
「…! そんな…」

こんな状況なのに、自分をホテルに連れ込んだ相手を気遣うなんてお人好しすぎる。
そう思いながら、蔵馬は川上の様子を見に行った。

呼吸は正常なようだ。
意識が戻る様子はなかったが、悔しいことに、まったく問題はなさそうだった。
とりあえず、魔界の植物の力を借りて、今日の記憶は消しておくことにした。

「大丈夫ですよ。あなたが気に病むことは…」

そう言いかけて、蔵馬はあることに気づく。
不自然な、コートの持ち方。なぜ、すぐ気づかなかったのか。

蔵馬は雪菜の前に屈み、胸の前で握りしめているコートを掴んだ。

「あの…っ」

雪菜はほんの少し抵抗したが、すぐに観念したのか、握りしめる力を弱めた。
コートはすぐに剥ぎ取られ、胸元が露わになる。
淡いブルーのブラウスのボタンがいくつかちぎれ、桃色の下着が見え隠れしている。
陶器のような真っ白い首筋に、不釣り合いな赤い跡。

蔵馬はまた冷静さを失いそうになる。
あの男、殺してやろうか。
言葉にはしなかったが、一瞬本気でそう思った。

「…とりあえず、早くここから出ましょう」

蔵馬は雪菜にコートを着せて、立ち上がらせた。
雪菜のバッグを持ち、忘れ物がないか辺りを確認する。
ちょっと走るよ、そう言って、雪菜を抱えてその場を立ち去った。



*



新築の高層マンション。
雪菜の手を引いて、蔵馬はオートロックを解除して自室に入った。

数ヶ月前に実家を出て、蔵馬はひとり暮らしをはじめていた。
自立したいというのももちろんあったし、何より、ひとり暮らしの方が
魔界と人間界を行き来するのに、何かと都合が良かった。

蔵馬はリビングのソファに雪菜を座らせて、自分もその隣に座った。
コートを着たままうつむく雪菜に、蔵馬はそっと声を掛けた。

「…もう大丈夫ですよ」
「!」

顔を上げた雪菜の目から、一粒の涙がこぼれ、氷泪石となって床に落ちた。
耐えていた涙が、あとからあとから、堰を切ったように溢れ出す。

氷泪石を気にして、外では泣かないようにしていることに、蔵馬は気づいていた。
怖かったはずなのに、ずっと気を張っていたのだ。

泣きながら小さく震える雪菜の頭を、蔵馬はそっと撫でた。



*



「あの…服までお借りしてごめんなさい」

そう言って浴室から出てきた雪菜は、蔵馬に借りたTシャツの上に、
紺色のパーカーとスウェットのパンツを履いていた。
小柄な雪菜にとっては、細身の蔵馬の服であってもぶかぶかのようで、
袖をまくらないと手が出なかった。

雪菜がシャワーを浴びている間に、蔵馬の服装もスーツから部屋着に変わっていた。
トレーナーにスウェットパンツ姿が、なんだか新鮮だった。

ひとしきり泣いたあと、蔵馬の勧めもあって、シャワーを浴びて、服も着替えることにした。
自分の服はボタンが飛んでしまっているし、何よりさっきまでの感触を
綺麗に洗い流してしまいたかった。

蔵馬は、雪菜の首筋から胸元にかけて、不自然に赤くなっているのに気づいた。
シャワーで火照ったからじゃない。明らかに強く擦った跡だった。

あぁ、と蔵馬は苦い顔をした。
きっと、あの男に触れられた場所なのだろう。

雪菜はソファに腰掛け、蔵馬に手渡されマグカップを両手で包む。
ココアの甘い優しい香りが心地良かった。

「わたし…本当にばかですね…」

男は狼。なんて、ただの例え話だと思っていた。
簡単に信用して、簡単に騙される。なんて、軽率なのだろう。

「…なにがあったの?」
「……最近、川上さんとよくごはんを食べるようになって」

俯きながら、雪菜はぽつりぽつりと話しはじめた。

「今日もごはんを食べて、帰ろうとしたんですけど、イルミネーションを見つけて…。
 見ているうちに、だんだん遠くへ来てしまって。それで…休憩しようって話になったんです」

目に止まったご休憩の文字。

「休憩が…そんな意味だと思ってなくて…」
「それで、ホテルに?」
「…ごめんなさい…」

しゅんとする雪菜に、蔵馬は小さく溜息をつく。
確かに、ホテルの休憩がそういう意味を表すなんて、誰が教えてくれるだろうか。
彼女が知らなくても無理はない。
そして、そんな彼女を引っ掛けのようにホテルに連れ込んだあの男に腹が立つ。

「…これ…」

蔵馬はそっと雪菜の赤くなった首筋に触れた。
雪菜がぴくりと小さく震える。

「…感触が、残ってるみたいで…」

息遣いも熱も感触も、まだ残ってるみたいだった。
パーカーで隠れてはいるが、強く掴まれた腕にも、まだ痕が残っている。

「キス…しようとしてきて…」
「!」

蔵馬の顔が険しくなる。
それに気づいた雪菜は慌てて続きを話した。

「あの、でも、されそうになっただけなので、大丈夫です…!」
「あとは?」
「え?」
「何されたの? あの男に」
「えっ、その…耳とか首とかに口が触れて…それで、身体を触られて怖くなって…」

妖気を当てて撃退したのだった。

「それ以外のことはされてない?」
「はい」
「ほんとに?」

念を押して聞いてくる蔵馬に、雪菜はこくこくと頭を縦に振った。

「……ごめんなさい…」
「なんで雪菜ちゃんが謝るの」
「だって…気をつけなさいって言われてたのに、わたし…」

涙がまたじわりと滲む。
迷惑をかけてばかりだ。

そこで雪菜は、何かをはっと思い出したような顔をした。
その様子に、蔵馬は怪訝そうな顔をする。

「ごめんなさい、わたしったら…! こんなの彼女さんが嫌がりますよね…」
「え?」
「どうしよう…! あの、わたし帰った方が…」

急に焦り出した雪菜の様子に、蔵馬はまったく付いて行けなかった。

「待って待って…彼女って?」
「え?」
「彼女って…なに?」
「なにって……」

怪訝そうな顔をする蔵馬に、雪菜の方こそ訳が分からなくなってきた。

「だって、麗子さん…」
「麗子さん?」
「お付き合い、されてるんじゃ…」

雪菜の言葉に、蔵馬はぽかんとした顔をした。

「麗子さんと俺が?」
「違うんですか…?」

不思議そうな顔をする雪菜の様子に、蔵馬はくすくすと笑った。

「雪菜ちゃん、麗子さんは結婚してますよ」
「…え…?」
「しかも二児の母」
「!」
「なんでそういうことになったのかな」
「だって…! …じゃぁ、薔薇の花束は?」
「薔薇…? …あぁ、旦那さんの趣味がガーデニングで、特に薔薇が好きなんだって」

ただの職場の先輩ですよ、と蔵馬は苦笑した。
盛大な勘違いをしていたことに、雪菜は恥ずかしくなった。
仲が良さそうに見えたから、そう言うと、あの人は誰にでもああなんですよ、と蔵馬は笑った。

「…雪菜ちゃんは?」
「?」
「あの人のこと、気になってた?」

あの人とは、もちろん川上のことである。
よく話すし、よくふたりでごはんを食べに行く仲だった。
だが。

蔵馬の言葉に、雪菜は静かに首を振った。

「…いいえ、そういうのではなかったです。
 だから…気をつけないといけなかったんですよね…」
「そうですよ、簡単に信用しちゃ駄目ですからね」
「…はい」
「わかってます? ホントはこんな風に俺とふたりきりも良くないんですよ?」
「!」

そう言って、蔵馬は少し意地の悪い笑みを浮かべた。

確かに、言われてみれば本当にそうだ。
男の人の部屋で、服まで借りて、こんな深夜にソファーに並んでふたりきり。
何かあったって、なんの言い訳もできない。

雪菜は困ったような顔をして、蔵馬を見上げた。

「…蔵馬さんも、狼ですか?」

問われた蔵馬は、少しの沈黙のあと。

「…かもね」

そう言って、雪菜の腕を引き寄せて、胸の中におさめた。
その華奢な身体を強く抱きしめる。
突然の出来事に、雪菜の鼓動は速くなった。

「…ちゃんと用心してくれないと、駄目じゃないですか」

そんなことを言われても、雪菜には抗う術はなかった。
というより、抗う必要はないと思った。

「もう二度とこんなことにはならないようにしてくださいよ」
「…はい」
「ほんとに…心配したんですから」
「…ごめんなさい…」
「名刺、渡しといてよかった…」
「…?」
「迎えに行けてよかった」
「!」

蔵馬の言葉に、雪菜の瞳から大粒の涙が零れる。

「蔵馬さんはずるいです…」
「…ん…?」
「ぜんぜん狼なんかじゃない…」

雪菜は蔵馬の胸に顔を埋めた。

「ぜんぜん怖くないです」

あたたかくて、優しくて。
こんなにも安心できる場所が、怖いはずなんかない。










35