5.

「ごめんなさい、会社に変な電話して…」
「いや、構わないよ」

未だに蔵馬の腕の中に閉じ込められたまま、雪菜は申し訳なさそうな顔をする。

「困ったら助けに来てくれるって言葉を思い出して……そしたら、名刺を探してました」
「名刺が役に立ってほんとに良かった」
「和真さんたちには、心配を掛けたくなくて…。
 …あ、あの、別に蔵馬さんには心配を掛けてもいいと思ってるわけではないんですけど…!」

焦る雪菜に、蔵馬はふふっと笑う。

「いいですよ、俺には心配かけても。頼りにしてほしいって言ったでしょ?」
「蔵馬さん…」

いつかの雷鳴轟く大雨の日。
お互いが力になると、あのとき交わした約束は、今でもずっと続いている。
繋がれた絆は褪せることなく、そこに存在していた。

「…あ…!」
「え?」
「門限…!」

桑原の名を口にして、雪菜は桑原家の門限のことを思い出した。
雪菜が慌てたように時計を見る。時刻は既に23時に差し掛かろうとしていた。
蔵馬は抱きしめていた腕を解きながら、門限なんて久々に聞いたなと思った。

「静流さんには俺から連絡しておきましたよ」
「…え?」
「とりあえず、花屋に行ったら具合悪そうにしてたから看病してるってことになってます」
「そう、ですか…」

蔵馬の言葉に、雪菜はほっとしたような顔をした。
本当のことを知られたくなかった。心配をかけたくはなかった。
そんな雪菜の様子を見透かしたかのように、蔵馬は諭すように言った。

「本当のことを話した方がいいですよ」
「…!」
「嘘は少ない方が良い。…これからも一緒に暮らしていくなら尚更」
「…でも…」
「ちゃんと心配してもらって、ちゃんと叱られておいで」

不安そうな顔をする雪菜に、蔵馬は大丈夫と勇気づけるように微笑みかけた。

「あ、そうだ」
「?」
「携帯、持ってたんだね。連絡先、交換していい?」

そう言って、蔵馬はテーブルに置いていた携帯を手にした。
雪菜も自分のバッグから携帯を取り出す。
バイトを始めたのをきっかけに、桑原家が買ってくれたものだった。

これまでは、雪菜と連絡を取りたければ、桑原家の家電に掛けるか、
桑原か静流を通せばよかった。それで困ったことはなかった。
だが、こんなことがあるようでは不安だ。
何かあったとき、すぐに直接連絡が取れるようにしたい。

蔵馬と連絡先を交換したあと、雪菜は溜まっている着信とメールを確認した。
見てみると、桑原と静流から連絡が来ていた。
体調を気遣う内容に、なんだか申し訳なくなる。
何も返さないわけにはいかないが、本当のことを今伝える勇気もなくて、
ふたりには、ただ「大丈夫」とだけ返すことにした。

桑原や静流に連絡すれば、心配して飛んで来てくれただろうとは思う。
けれど、あのとき頭に浮かんだのは、蔵馬の姿だった。
冷静かつ穏便に上手く対処してくれると思ったからだろうか。
彼に任せれば大丈夫という安心感を、感じてしまうからだろうか。

「ごめんなさい」
「え…?」
「いろんな方に頼りにされて、大変ですよね…」
「…そうでもないですよ?」

蔵馬は笑いながら言った。

「今は、抱えてるものは少ないですから」

あの頃は、魔界の行く末や戦友、かつての仲間、新しい家族、学校…といろいろあった。
今はただの社会人で、抱えてるのは仕事くらいだ。
あとは、時折魔界での雑務があるくらい。

だから、今なら。
あのとき抱えきれなかった彼女のことを、この手で護ることができる気がした。



*



「明日もバイトあるの?」
「いえ、明日はお休みなんです」
「そっか」
「蔵馬さんは明日もお仕事ですよね…ごめんなさい」
「いや、明日は午前中休み取ったから大丈夫ですよ」

しゅんとする雪菜に、蔵馬は笑みを返す。

「まだあそこで働きたいよね?」
「…! …はい。でも…」

あんなことがあって、川上と前と同じように接することができる気がしなかった。
蔵馬のおかげで彼の記憶は無くなっているとはいえ、
雪菜の方は当然ながら忘れることなどできない。

「じゃぁ、あの人には自主的に辞めてもらいましょう」
「え?」

にこりと、事もなげにそんなことを言ってのける蔵馬に、雪菜は驚いた顔をした。

「そんなこと…」
「知り合いに頼めば簡単です」

暗示が得意な知り合いがいるんで、と蔵馬は言った。
雪菜は疑問符が浮かんだが、なんだか深く聞いてはいけない気がして、
それ以上は言及しなかった。

川上から記憶を消して、罪をなかったことにする必要なんてないかもしれない。
罰を与えるべきなのかもしれないし、実際与えてやりたかった。
だが、それよりも、雪菜の生活から川上の存在を追い出したかった。関わりを断ちたかった。
だから、こうするのが一番いいと思った。

「そろそろ寝ましょうか」
「そうですね」
「ベッド使ってください」

そう言って、蔵馬は寝室の方を指差した。

「そんな! だめですよ、わたしソファーで大丈夫です!」
「それこそ駄目ですよ。女の子をそんなところで寝かせられません」
「でも…!」

雪菜は引き下がろうとしたが、蔵馬が受け入れるはずもなく、大人しく従うしかなかった。

寝室に入り、ベッドに横になる。するとすぐに睡魔が襲ってきた。
布団の心地良い感触と、ベッドサイドに置いてあるアロマディフューザーの優しい香りに包まれて、
雪菜はほどなくして眠りに落ちた。



*



明け方。蔵馬は人気のない路地で、ある人物を待っていた。

「来ていただいて、ありがとうございます」
「…なんなんだ、急に呼び出しやがって」

悪態を吐く様子に、蔵馬は苦笑する。
文句を言いながらも、妹のためにならどこからでも駆けつける。
そういう性格であることを蔵馬は知っていた。
だから、雪菜の名前を出しただけで、飛影がすぐに来てくれることはわかっていた。

「ちょっと暗示を掛けてもらいたい人がいまして」
「…それが雪菜となんの関係がある」

理由によっちゃ殺すぞと、急に呼び出された飛影の機嫌は悪かった。

「雪菜ちゃんに危害を加えようとした、と言ったら納得してくれます?」
「!」
「大丈夫です、未遂です」
「…暗示だけでいいのか」
「もう今日の記憶は消してありますし、バイトを自主的に辞めてくれればそれでいいです」

殺さないでくださいよ、と蔵馬は念押しする。
彼ならやりかねないが、雪菜のために踏みとどまってくれるだろうと思った。

「…雪菜は」
「今俺の部屋で寝てます」

さらりとそう言う蔵馬に、飛影の顔が引き攣る。

「おい待て、なんでそういうことになる。あの潰れ顔の家じゃないのか」
「いろいろありまして」
「貴様…」

この狐が何かするとは思っていない。
だが、雪菜が蔵馬の家にいるというのは解せなかった。
そもそも潰れ顔の家で暮らしているというのも、まだ納得していなかったが。

そう思いながらも、蔵馬が面倒を見てくれれば、雪菜は大丈夫だろうとも思えた。
悔しいが、そんな安心感がこの男にはある。

「…ふん、まぁいい。さっさとそいつのところに連れて行け」

一刻も早く、雪菜への脅威を取り除いておきたかった。



*



カーテンの隙間から陽の光が差し込む。
コーヒーの芳ばしい香りがして、雪菜は目を覚ました。
見慣れない部屋に、しばらく思考が止まる。
そして、蔵馬の部屋に泊まっていることを思い出した。

「おはようございます」

リビングに行くと、蔵馬がコーヒーを飲みながら新聞を読んでいた。
雪菜に気づいて、蔵馬もおはようと挨拶を返す。
ああこの芳ばしい香りだと雪菜は思った。

「いい香りですね」
「ああ、これ? いい豆をもらったんですよ」

淹れますね、と蔵馬はマグカップを取り出した。
その間に雪菜は洗面台を借りて、顔を洗う。
これくらいしかなくてごめん、と言って蔵馬が貸してくれた保湿液を肌に浸した。
下地は持っていなかったが、とりあえずファンデーションだけ軽くつけて、髪を整える。
服はそのまま借りて帰ることにした。

リビングに戻ると、淹れたてのコーヒーとクロワッサンが用意してあった。
朝のニュースを見ながら、ふたりで一緒に朝食を食べる。
なんだか不思議な光景だと雪菜は思った。
よく漫画やドラマで見るような、恋人同士の朝の風景みたいだ。

「おいしい…」
「でしょ?」

コーヒーのいい香りが口内に広がる。
もうすぐ静流が迎えに来ることになっていた。
静流には本当のことを話そうと思う。

あともう少しで、この時間も終わる。
独り占めしていられる時間はあと少しだ。
彼はみんなの味方。
だから、わたしだけのものじゃない。

そこで、雪菜はふとあることに気づいた。
そうだ、昨日からまだ言っていない言葉がある。

「蔵馬さん」
「ん?」

怖くて心細くて不甲斐なくて。
そんな自分を救ってくれた。助け出してくれた。
あたたかさと安心感で満たしてくれた。

「ありがとうございました」

そう言って微笑んだ雪菜に、どういたしまして、と蔵馬もまた笑みを返した。



*



「ごめん、桑原さん、土曜日シフト入れない?」
「大丈夫ですよ」
「ほんと? ありがとう〜。川上くんが急に辞めちゃったから困ってて」

川上の名前に、雪菜はぴくりと反応する。
だが、気づかないふりをした。

「就活と卒論で大変なのはわかるけどね〜」

困ったわ〜と牧瀬が言った。
バイトリーダーである彼女は、シフトの組み直しに追われている。
雪菜は内心で申し訳ない気持ちになった。

あのあと川上はすぐにバイトを辞めた。
雪菜がシフトに入っていない日にバイト先に来て、店長に辞めると告げたらしい。

それ以来、雪菜が川上と会うことはなかった。



*



「ただいまかえりました」
「おかえり、雪菜ちゃん」

雪菜がバイトから家に帰ると、静流が出迎えてくれた。
今日は美容技術の講習会があり、帰りが早かったようだった。

あの日の話は、結局静流にしかしていない。
それ以来、どういうことを気を付けなさいとか、男の見極め方はどうとかを、
滔々と教えてくれた。

「今日は変なのいなかった?」
「大丈夫ですよ、ちゃんと気をつけてます」
「客に言い寄られても上手くかわさなきゃダメよ」

心配する静流に、はい、と雪菜は苦笑しながら答えた。

「蔵馬さんにも同じようなこと言われてます」

連絡先を交換して以来、蔵馬と定期的に連絡を取るようになっていた。
やり取りの節々で、彼が心配しているのが伝わってきた。

「蔵馬くんも心配性だしね」

静流も思わず笑った。

「ところで、蔵馬くんとはどうなの?」
「え?」
「付き合ってるの?」
「まさか!」

静流の言葉に雪菜は笑いながら言った。

「わたしなんて相手にされないですよ」
「そんなことないと思うけど」
「だって、きっと蔵馬さんからしたらすごく歳下だろうし、子どもにしか見えないと思います」
「ふーん…じゃぁ雪菜ちゃんからしたらどう?」
「え…?」

静流の問いかけに、雪菜の言葉が詰まる。

優しくて面倒見が良くて、聡明で、格好良くて、とても完璧な人。
不安を一瞬で吹き飛ばしてくれるような、とても安心できる人。
好きかと聞かれれば、確かにそうだ。
けれど、それは恋とかの類ではないと雪菜は思っていた。

「憧れ…でしょうか」
「そうなの?」
「歳上の頼りになるお兄さん、みたいな感じだと思います」

静流さんの男版みたいな感じですよと言うと、そういう立ち位置ねと
静流は納得したように笑った。










46