6.

怖い記憶が残ると思っていた。
あのときの感覚と息遣いが、トラウマのように残るのではと。

けれど。
腕に包まれて感じたぬくもりと優しさの方が、強く印象に残っていた。
まるで恐怖を掻き消す魔法みたいだと思った。



*



煌めくツリーやポインセチアの赤で彩られていたクリスマスが過ぎ、
街並みは年の瀬へと向かって姿を変えていた。

蔵馬は冷えた指先に息を吹きかけて、両手を擦り合わせたが、
少しも温まる気がしなくて、諦めたようにロングコートのポケットに手を突っ込んだ。
街の喧騒の中を歩きながら、視線を空に向ける。
夜空に煌々と輝く星の美しさとは裏腹に、空気はあまりに冷たく、
蔵馬は自らが吐き出した白い息を見つめた。

冷やりとした空気に、ふとある少女の姿が浮かぶ。
哀しげに伏せられた瞳、腕におさめた低体温の華奢な身体。
あのとき願ったのは、彼女が少しでも安心できるように、ただそれだけだった。

目的地に着いて、腕時計を確認する。
待ち合わせの時刻より些か早いが、まあいいかと思いながら、
蔵馬は小洒落た雑居ビルへと足を踏み入れた。
居酒屋と呼ぶには洒落ていて、かと言ってバーと呼ぶにはカジュアルな佇まいの雰囲気だった。
受付で予約の名前を告げると、奥の個室へ通された。
座敷の掘りごたつの一番奥に、机に頬杖をついて、携帯を弄っている女性の姿があった。
彼女は気付いてこちらに微笑を向ける。
蔵馬は声を掛けながら、向かい側に座った。

「こんばんは。早いですね」
「職場から直接来たら早く着いちゃって。螢子ちゃんと幽助くんももうすぐ来るって」

カズと雪菜ちゃんもそのうち来るでしょ、と言いながら、
静流はメールを返し終えたのか、携帯を閉じた。

忘年会をしようと言ったのは、確か螢子だった。
このお洒落な居酒屋も、螢子のチョイスだ。
いつもは幽助か桑原の家で飲むのが定番となっていたせいか、
外で集まるのはなんだか新鮮だった。

「この間はありがとね。ホントに助かったわ」
「いえいえ。その後、様子はどうですか?」

主語のない静流の言葉に、蔵馬はすぐに内容を察して言葉を返した。
この間とは、もちろん雪菜のことだった。

「平気そうにはしてるけど…あの子隠すのが上手いから、
 ちょっと無理してるのかもしれないけどね。
 でも、想像してた最悪の事態にはなってないみたい」

最悪の事態。それは雪菜の心の傷が再び開いてしまうことを指していた。
トラウマを抱えて、怯える日々を過ごしてしまうのでは。それを静流と蔵馬は心配していた。
だが、幸い雪菜にその様子はなく、バイトにもいつもどおりに出掛け、
普段どおりに過ごせているように見えていた。

「蔵馬くんのおかげね」
「力になれたなら、良かったですけど」
「抱きしめたんでしょ?」
「…! 筒抜けですか…」

にやにや笑う静流に、蔵馬は気まずそうな顔をする。
まさかそんなことまで報告されていたとは。
蔵馬の思考を察したのか、静流は付け足すように言った。

「男の部屋に泊まったんだから、一応なにもなかったか聞いたのよ」
「誓っていかがわしいことはしてませんよ」

苦笑する蔵馬に、静流はそんな心配してないけどと笑う。

「あの子、なんて言ったと思う?」
「?」
「抱きしめられるのが安心するなんて知らなかった、だって」
「…!」
「…あの子の境遇をつい忘れそうになるけど、
 そういうぬくもりとかも知らずに育ったのよね、きっと」
「…そうですね」

育ての親がいるとは言っていた。
けれど、そう話す彼女はどこか寂しげに見えた。
推測でしかないが、もし、彼女が愛されて育って、
そこに居場所があったのであれば、今も故郷にいただろう。
滅ぼしてほしいなどと思いはしないだろう。

「雪菜ちゃんには、そういう当たり前のことをちゃんと知って、
 護られることを覚えてほしいですね。…だからこそ、彼女の純粋さを利用するようなヤツには
 二度と引っかからないようにしないと」
「ホントね。思い出したらイライラしてきた。アイツ…ぶっ飛ばしてやりたいわ」

川上のことを思い出して、静流は不機嫌そうな顔をした。
送り迎えをした数回しか彼の顔は見ていないが、人の良さそうな雰囲気をしていたのは覚えている。
雪菜も仲の良い先輩として懐いているようだったから、特段クギを刺すようなことはしなかったが、
今ではそれを後悔していた。

交友の輪は広げてほしい。
けれど、そのせいで変な輩には引っ掛かって欲しくない。
その線引きが難しかった。

「蔵馬くんに助けを求めたってことは、余程信頼してるみたいだけど…
 蔵馬くんとしてはどうなの?」
「どう、とは…?」
「雪菜ちゃんのこと、どう思ってるの?」

問われて蔵馬は暫く沈黙する。
どうと聞かれても、なんとも表現しがたかった。

「護ってあげたいとは思ってますよ。これ以上傷つかないように、見守っていたいというか。
 …本当は俺の役目じゃないんでしょうけど、誰かさんがうまくやってくれそうにないので」

蔵馬はある人物を思い浮かべては苦笑する。
静流もそれが誰かは理解していた。

戦友の妹。
兄は捻くれ者で、自分を相応しくないと思っている。
だから、傍にはいられないのだと。
それではあまりに彼女が可哀想だ。
だから、彼の代わりに気にかけておこうと、ただそう思っていたが、
関われば関わるほど、それ以上の存在になっていた。

「カテキョも甲斐甲斐しくやってくれてたしね。
 ホントは雪菜ちゃんのこと可愛くて仕方ないんじゃないの?」

にやにや笑う静流に、蔵馬は観念したように笑う。

「当然じゃないですか。可愛くて心配で仕方ないですよ」

蔵馬は目を細めて微笑を浮かべた。
静流はその表情を見て意外に思った。

彼の笑顔はいつも綺麗だ。
けれど、誰にでも親切で丁寧に接している反面、どこか淡白だと思っていた。
当然、身内への深い情を持っているのは知っている。
だが、それ以外には深入りはしない。
いつも冷静に、物事を俯瞰的に見ている。
何かを頼まれれば、柔らかい物腰で面倒見良く対応してくれる。
けれどそこに、何か特別なものはないように見えていた。
涼やかな顔からは何も読み取れはしなかった。

だから、雪菜へ勉強を教えていたのも、桑原に頼まれたからというだけの親切心だと思っていた。
だが、今のその微笑は、なんとも言えない歯痒い感情が見え隠れしているように静流には見えた。

心配なのは、保護者として?

静流はそう問い掛けようとして、しかし、言葉を飲み込んだ。
それを聞いたとして、彼はもちろんそうだと返すだけだろうとそんな気がした。
勘繰ってみたところで、千年近く生きている彼の本心を暴けるとは思えなかった。

「うちのお姫様をこれからもよろしくね」
「それは光栄ですが…桑原くんの役目では?」
「カズは根性の塊だから。ナイトであってキングではないのよ」

静流の言葉に釈然としなくて、蔵馬は首を傾げたが、
個室に近づいてくる足音が聞こえて、それ以上は追求しなかった。



*



「雪菜さん、店こっちみたいっスね」

桑原に先導されて、雪菜は居酒屋へと足を踏み入れた。
駅からの道は地図を見てだいたい覚えて来たつもりだったが、
実際に降り立つと、駅の出口からしてもう方向がわからなくなった。
高層ビルが立ち並び、絶えることのない人混みで溢れかえっている
都会の街並みに圧倒されるばかりだ。
いつまで経っても、皿屋敷市とバイト先以外に生活圏が広がる気がしなかった。

忘年会をする。
そう螢子から聞いたとき、蔵馬も来るのかと思わず訊いてしまった。
口にした瞬間、来てほしいと思っている自分に気づいた。

あれから、蔵馬とは頻繁にではないものの連絡を取っている。
丁寧な文面から、彼の優しさが滲み出ていた。
メールひとつで、護られている安心感を得られるような気がして、なんだか不思議だった。

誰かに気遣われている。
まだ慣れないその行為が、嬉しくもあり、歯痒いような途惑いもあった。
桑原家で暮らすようになって、ともに生きる喜びや、心配されること、護られることを覚えたが、
蔵馬からの気遣いは、また違う感覚のような気がしていた。

店内に入り、奥の個室へと通される。
掘りごたつのあるその座敷には、既に自分たち以外のメンバーは揃っていた。
奥に静流がいて、その隣の螢子がこちらを見て手を振っている。
静流の向かいに蔵馬、その隣が幽助だった。
こちらを振り向いて微笑みかける蔵馬の姿に、雪菜も小さく会釈を返した。

「ごめんなさい、遅くなって…」
「全然。みんなが来るの早かっただけよ」

雪菜はコートをハンガーに掛けて、螢子の隣に座った。
桑原は幽助の隣に腰掛け、なにやら早速バカ騒ぎを始めている。

「みんな揃ったことだし、乾杯といこうか。
 …といっても未成年多いからウーロン茶ね。蔵馬くんもそれでいい?」
「構いませんよ」

静流が店員を呼び、飲み物を注文する。
螢子が予約していたコース料理の開始も併せて伝えた。

程なくして運ばれて来たウーロン茶を片手に、宴は幕を開けた。



*



蔵馬は斜向かいにいる雪菜に視線を向ける。
料理を口にしながら、螢子と楽しそうに話している。その様子に、蔵馬は安堵した。
メールでやり取りしてはいるが、大丈夫と答える彼女が本当に大丈夫なのかは、
やはり直に会ってみないとわからなかった。

まだ直接言葉は交わせていないが、雪菜の表情や顔色を見ていると、
先ほど静流と話したとおり、最悪の事態にはなってなさそうだった。

ふと彼女がこちらを向いて、目が合った。
蔵馬の視線に、雪菜は不思議そうな顔をする。
しまった。まじまじと見過ぎたか。
蔵馬はそう思いながらも、にこりと笑って誤魔化すことにした。
雪菜の疑問符がさらに増えた気がしたが、気づかないフリをして、
話しかけてきた幽助の方に視線を向けた。

「蔵馬ってさ、合コンとか行くの?」
「…なんですか、急に」
「いや、社会人ってそういうの多そうだと思って」
「…何回か付き合いで行ったことはありますけど、これといって何も」
「何も? んなこと言ってお持ち帰りとかしてんじゃねぇーの?」
「心外ですね。してませんよ」
「大体さ、蔵馬って女に興味あんの? なんかこれまで浮いた話聞いたことねぇーよな」

そう言って加わってきたのは桑原だった。
結局この間の黒髪のお姉サマは違ったんだもんなーと思い出したように付け足す。

「…俺の話はいいじゃないですか」
「実は私も気になってたんですよ」
「螢子ちゃんまで…」
「こんなに格好いいんだから、絶対モテますよね。彼女いないんですか?」
「いないですよ」
「じゃぁ、つくる気ないですか?」
「え…?」
「大学の友達で、すっごく美人な子がいるんですけど、
 いっつもダメ男に引っかかっちゃうみたいで。最近も浮気された上にフラれちゃって…。
 蔵馬さんみたいな包容力のある人の方が絶対合うと思うんですよね」

そう言いながら、螢子は携帯の写真を蔵馬に見せた。

「性格は保証しますよ。おしとやかでいい子です」
「お、可愛いじゃん」
「しかも巨乳」

外野の声に、螢子はうるさいわねと一蹴する。
当の蔵馬は困った笑顔を浮かべていた。

「ありがたい話ですけど、今はそういうのは…」
「会ってみるだけでも駄目ですか?」
「うーん…すみません」
「そうですか…残念。もし気が変わったら言ってくださいね。
 …あ、もしかして人間の女性には興味がないとか?」
「いや、そういうわけでもないですけど…」
「そもそも蔵馬ってどんな子が好みなわけ?」
「…そんなの知りたいですか?」

桑原の問いに、蔵馬は呆れたような顔をする。
だが、問い掛けた本人は真剣そのものだ。

「そりゃ、俺だって日頃世話になってるし、タイプに近い子いたら紹介してやりてェーじゃん」
「…いいですよ、別に」
「なんでだよ。オメェだってそろそろ幸せになれよ」
「そのセリフ、そっくりそのままお返しします」
「…うっ。それは…また別の話だろ…」

意地の悪い笑みを向ける蔵馬に、桑原はしどろもどろになった。

「オメェらわかってねぇーな。蔵馬には魔界に女がいっぱいいるんだって」
「あ、なんだ、やっぱりそういうこと」
「魔界で会うたびに違う女といんだよ、こいつ」
「かー! やっぱモテる男は違ぇーな」
「やっぱやることはやってるんですね」
「そりゃ男だしな」
「で、一体何人いんだよ?」
「…ご想像にお任せします」

反論するのも面倒になって、半ばヤケになりながら蔵馬は笑った。
話の成り行きを黙って見守っていた静流は、ふと視線を隣に移して、
想像通りの反応をしている姿に苦笑する。

「蔵馬くん…間に受けてる子がいるから」
「…え?」

蔵馬がふと静流の視線の先を追うと、雪菜がなんとも言えない表情で呆然としていた。
どうやら魔界に女がいるというのを信じたらしい。しかも何人も。

「…ごめん、雪菜ちゃん。今の冗談」
「え…? あ、そうなんですか…? でも、蔵馬さんきっとモテるから、本当なのかと…」
「そんなことないよ。俺に女っ気がないのは雪菜ちゃんも知ってるでしょ」

苦笑する蔵馬に、なんだ冗談かと雪菜は安堵したように笑った。










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