7.

化粧室でメイクを直し終えて、雪菜は鏡の自分の顔をまじまじと見つめた。
先程、自分はどんな顔をしていたのだろうか。
ざわざわとするこの気持ちが、顔に出てなければ良いが。

「…なんで…」

こんなに苦しいの。

蔵馬がモテるだろうことは昔からわかっていたし、女性を紹介されることなんてよくあるはずだ。
彼が素敵な人を見つけて幸せになってくれれば、それは喜ぶべきことだ。

だけど。
麗子といるのを見たときと、同じような感情が甦る。
紹介なんてして欲しくない。魔界で女性といるなんて聞きたくない。

「…兄がいたら、こんな気持ちになるのかな…」

自分だけを見ていて欲しいなんて、そんな勝手なことを思ってしまう。
いつだって優しく面倒を見てくれるから。いろんなことを丁寧に教えてくれるから。
初めて、あんなふうに抱きしめて、慰めてくれたから。
だから、こんなにも彼を特別だと思ってしまうのだ。

自分は誰かと関わることに免疫がなさすぎる。
ただ優しくされただけで、特別扱いされているような錯覚に陥ってしまう。
誰に対しても同じ優しさなのに。彼にとってはなんてことないのに。

雪菜は小さく溜息をついた。
こんなふうに思うほど、彼に傾倒している自分にほとほと呆れる。
雛鳥のようにか弱く、如何に自分が孤独だったのかを思い知らされた気がした。



*



雪菜が化粧室から個室へ向かう廊下を歩いていると、
個室の引き戸の前に蔵馬が立っているのが見えた。
彼がこちらに気づいて微笑を向ける。

「蔵馬さん、どうしたんですか?」
「いや、出てくときの様子がちょっと気になって」
「…!」
「心配しすぎたかな?」

ああ、どうして。
そんな些細な揺らめきさえ見抜かれてしまうのか。
でも、きっと彼は、あの日のことを心配している。

「わたし、変な顔してました?」
「変っていうか…なんか気になった程度なんだけど」
「大丈夫ですよ。わたし結構強いんですよ?」
「それは知ってるけど…強いかと大丈夫かは別ですよ」
「…!」

あの日のことは、今でも思い出すと怖い。
傷つけられることには慣れている。
それには耐えられるし、心は痛みに鈍感になっている。
けれど、あの日の怖さは、痛みとはまた違う。
得体の知れない大きな影が侵食してくるような恐怖。
拘束する腕の力が、熱い吐息が、残って消えない。
そして、不甲斐ない自分が情けなくて、責め立てたくなる。

「…ほら、やっぱり大丈夫じゃない」

気遣うその表情に、雪菜ははっとする。
何もかも見抜かれて、心配されている。
制御できるはずなのに。
その深い瞳に見つめられると繕えなくなる。

「でも…蔵馬さんがいてくれたから、思っていたより重症じゃないんですよ」
「本当に?」
「護られてる気がするから…わたしは大丈夫って思えるんです」

あの腕が。ぬくもりが。
知らなかった安心感をくれる。

「気がするじゃなくて、護ってるんですよ」
「!」
「ちゃんと護るから。だから、頼ってくれないと護れない」

深紅の瞳は、驚きと途惑いの色を帯びていた。
そんなことを簡単に言わないで欲しい。また傾倒する度合いが深くなってしまう。
どこか嬉しくて、けれど、慣れない感覚がもどかしくて歯痒い。

「…だめです、蔵馬さん。わたし何事にも免疫がないんです。そんなの…」

あったかすぎて、火傷してしまう。
雪菜の言葉に、蔵馬はふっと笑った。
その優しい笑顔に吸い込まれてしまいそうな気がした。

「無理やりにでも慣れてもらわないと。荒療治もたまにはいいかなと思って」

蔵馬の微笑みに、雪菜は返す言葉が見つからなかった。

ずるい。
その優しさは、きっとわたしを惑わせる。



*



「いやー食った食った」
「どれもうまかったな!さすが雪村のチョイスだぜ」
「大学の先輩に教えてもらったのよ。予約空いててよかった」

居酒屋をあとにして、駅へと向かう道すがら、雪菜は隣を歩く蔵馬の姿をちらりと見た。
黒いロングコートに深緑のマフラーをしている。口許からときおり白い息が零れていた。

隣にいてくれるだけで、こんなにも安心する。
彼の懐は、いったいどれだけ深いのだろう。
いったい何人をこうやって護る気でいるのだろう。
いつか大事なときに身動きが取れなくなる。そう言ったはずなのに。
自分など、そこそこ重い部類に入るのではないかという気がして、
雪菜は我ながら内心で苦笑した。

きっと今だけだ。甘えられるのは今だけ。
いつか、彼を解放しなければ。

「で、これからどうするよ?」
「折角だし、うちで二次会でもすっか?」

うちなら酒飲めるし、と言った幽助の言葉を、蔵馬と静流は聞こえないフリをした。

「蔵馬も来れるか?」
「大丈夫ですよ」
「桑原が来るなら雪菜ちゃんも来るよな?」

幽助に問われて、雪菜はこくりと頷く。
螢子は当然来るものとカウントしているようで、幽助は静流にも確認する。

「私は明日も仕事だからパス。蔵馬くん、雪菜ちゃんのことお願いね」
「もちろんです」
「ちょ、姉貴! なんで蔵馬に頼むんだよ」
「だってアンタよりしっかりしてるし」
「そ…! そりゃそうだけど…」
「雪菜ちゃん、カズがハメ外しすぎないように見張っておいてね」
「え…? は、はい。わかりました…!」
「…雪菜さんまで…」

しゅんとする桑原に、幽助がくくっと笑う。
雪菜はなぜ桑原が凹んだのかが理解できないようだった。
桑原が彼女には格好良い姿を見せたいと思っていることは、
いつまで経っても届きそうになかった。



*



コンビニで酒とつまみを買い込んで、一行は幽助のマンションへと向かった。
温子は出掛けているらしく、部屋には冷たい空気が流れていた。

凍えた身体を暖めようと、皆リビングの真ん中に鎮座しているこたつへと暖を求めた。
長方形のテーブルの各一辺に男性陣が座り、残りの一辺に螢子と雪菜が並んで座った。
スイッチを入れてすぐには暖まらないものの、
布団の温もりだけでも先程までの外気の寒さと比べれば十分ましだった。
もちろん、寒さが平気な雪菜だけは、このありがたみを理解できてはいなかったが。

コンビニで買った酒とジュースを片手に再び乾杯し、忘年会の二次会はゆるりと始まった。
テレビからは流行りのお笑い芸人のネタが聴こえてくる。
幽助と桑原がテレビを見ながら、どの芸人が面白いかと議論を始めていた。

「そうだ、雪菜ちゃんこれ読んだ?」

そう言って螢子が雪菜に手渡したのは、若い女性向けのファッション誌の最新号だった。

「まだです…!」
「雪菜ちゃんの好きそうなコーデが載ってるなって思ってたのよね」
「見てもいいですか?」
「どーぞどーぞ」

目をキラキラさせて雑誌のページを捲る雪菜を見て、蔵馬は少なからず驚いた顔をした。
あまりにも今どきの女の子の姿を見た気がして、なんだか新鮮だった。

「そういえば、花霞駅に新しくショッピングモール出来たじゃない?
 あそこ結構話題のお店が集まってたよ」
「そこ、バイト先の先輩からも聞きました! 螢子さんはもう行かれたんですか?」
「うん。先週大学の友達と行ったんだけど、楽しかったよ〜。服もコスメもなんでも揃うし」
「そうなんですね…! 行ってみたいんですけど、結構遠いですよね?」
「遠いっていうか、乗り継ぎがちょっと面倒かな。でも行く価値ありよ」
「わー、絶対行きたいです…!」

先月花霞駅前に出来たショッピングモールは、この辺りで一番大きな商業施設だった。
流行りのショップが揃っており、若者に人気のニュースポットになっている。

「ショッピングモールって、最近よく話題になってるとこ?」
「そうです! 結構なんでも揃いますよ」

蔵馬の問いに、螢子が頷く。
確か会社の人たちも話していたな、と蔵馬はぼんやり思い出した。

「花霞駅ってことは、地上に出て乗り換えないといけないんですよね、確か」
「そうなんですよね。私も初めて行ったときは迷いました」
「あれどうにかしてほしいよね」

ダンジョンのようになっている都会の駅よりはまだマシとはいえ、
スムーズに乗り換え出来ないのは些か面倒だった。
そんな乗り換えを、電車初心者の雪菜がひとりで出来るとは到底思えなかった。

「雪菜ちゃん、今度一緒に行く?」
「え…?」
「俺も行ってみたいとは思ってたんだよね」
「…いいんですか?」
「もちろん」
「雪菜ちゃん、よかったね。蔵馬さんとだったら絶対安心だし」

螢子の言葉に、雪菜はこくりと頷く。
ひとりで行くのは不安だし、静流かバイト先の先輩に
一緒に行ってもらおうかと考えていた矢先だった。
まさか、蔵馬が一緒に行ってくれるとは。

「蔵馬さんってホント優しいですよねー。どっかの誰かとは大違い」
「はは、そうかな?」
「そうですよ。どこ探してもいないですよ。蔵馬さんみたいな完璧な人」
「大袈裟だなぁ。そんなことないですよ」
「格好良くて親切で、しかも謙虚。それで彼女いないなんて不思議。
 ね? 雪菜ちゃんもそう思うでしょ?」
「え…? あ…そうですね」

螢子の言葉に、雪菜は曖昧な笑顔を返す。

「蔵馬さんくらいになると、やっぱり理想は高いんですか? どんな人がタイプなんですか?」
「どんなって…あんまり考えたことないな」
「えー! じゃぁ、どういう子にグッとくるとかないんですか?」
「…ありきたりですけど、好きになった子がタイプかな」

蔵馬は螢子の追求に苦笑しながら、それに、と付け加えた。

「今は心配事があって、それで手一杯なんで」
「そうなんですか? そんな人の心配ばかりしてると幸せ逃しますよ?」

話を横で聞きながら、雪菜の鼓動はどくりと鳴った。
心配事とは自分のことだろうか。自意識過剰だろうか。

だが、もし、自分のことなのだとしたら。
心配されているのは嬉しい。
自分のことだけを考えてくれているようで、独占しているような感覚に浮き足立つ。

けれど、同時に申し訳ない思いでいっぱいになる。
頼ってしまったばっかりに、彼は自分を放っておけないでいる。



*



今夜はオールだと意気込んだものの、結局深夜になると皆微睡み出していた。
こたつに入ったまま突っ伏していたり、
絨毯の上に毛布にくるまって寝転んでいたりと、雑魚寝状態だ。
蔵馬は皆が眠りについたのを見計らって、点けっ放しになっていたテレビを消した。
電気も消して、豆電球の灯りだけにする。

蔵馬もさすがに睡魔に襲われて、そろそろ寝るかと思いながら、
ふと壁際で眠る雪菜を見つめた。
彼女は今日バイトだったこともあり、早々に眠たげな顔をしていた。
一足先に眠りについた雪菜を、温子の部屋に運ぶべきか悩んだが、
結局雑魚寝をさせてしまっている。

ちゃんと眠れているのか。魘されていないか。
傍で見ておきたかった。大丈夫なのだと確認したかった。

毛布を被って眠る雪菜の髪が、カーテンの隙間から差し込む月明かりに照らされて、
銀色を帯びているように見えた。
長い睫毛は伏せられ、うっすら照らされた白い頬に影を作っている。
ふと雪菜が小さくみじろぎしたかと思うと、深紅の瞳が開いた。

「…蔵馬さん…?」
「…ごめん、起こしちゃった?」
「いえ…あ、みなさんは…?」
「みんな寝ましたよ。俺もちょうど寝ようと思ってたとこ」

そう言って蔵馬は、眠たげに目を擦る雪菜の傍へ行く。
隣に寝転がって、螢子に渡されていた毛布を被った。

「寒くて暖を求めちゃったらごめんね」
「…え…!」
「おやすみ」
「…お、おやすみなさい」

隣で眠りについた蔵馬の姿に、雪菜はしばらく呆然としていたが、
程なくして再び睡魔に襲われて、微睡む瞳を閉じた。

雪菜の規則正しい寝息が聞こえてきて、蔵馬はそっと目を開けた。
穏やかな眠りにつく彼女を見つめる。
どうかこのままずっと、穏やかなときが続きますように。
蔵馬はそう願わずにはいられなかった。


彼女が心配で堪らない。
義理でも同情でもない。親切心なんかじゃない。

ただ、この手で護りたいのだ。










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