8.

その日、雪菜は朝から大忙しだった。
髪を綺麗に整えて、メイクも念入りにして、ローズピンクのルージュを唇に乗せる。
クローゼットから、昨日の夜決めた服を手に取るが、
やっぱりこっちの方がいいかもと別のコーディネートが頭に浮かぶ。
昨日の夜散々悩んだはずなのに、また選び直しだ。

結局、グレージュのケーブルニットに、パステルピンクの花柄のフレアスカートにして、
その上から、ミルクブラウンのショートコートを羽織る。
ミニスカートから伸びた脚先に、太めのローヒールの黒いパンプスを履いた。

待ち合わせに遅れないように、雪菜は急いで家を出た。

「お待たせしました…!」
「全然。時間通りですよ」

皿屋敷市の駅前で、雪菜は待ち合わせ相手を見つけた。
濃紺のダッフルコートに、細身の黒のパンツを履いている。
目の前の彼の姿を見ながら、ああなぜこんなことになったのだろうと雪菜は思う。

「じゃぁ行きましょうか」

そう言って改札へ向かう蔵馬の後ろ姿に、雪菜は慌てて付いて行った。

蔵馬と雪菜は花霞駅のショッピングモールに向かおうとしていた。
新しくオープンした所で、何店舗か気になるお店が入っていた。

年末のあの日。
一緒に行こうかと蔵馬が誘ってくれたのだ。

気になっていたお店に行けるのは嬉しい。
だが、それ以上に、蔵馬と出掛けられることを喜んでいる自分に、雪菜は途惑っていた。
一緒にいられて嬉しいが、それ以上に緊張していた。

電車内は、休日ということもあってか混雑しており、
普段満員電車に乗らない雪菜は、人混みに圧倒されていた。
蔵馬は雪菜を引き寄せて、人に押しつぶされないように上手くスペースを確保して、
雪菜を守るように立っていた。
電車が揺れるたびに、雪菜が転ばないように、さりげなく支えてくれる。
その仕種のひとつひとつに、どきどきと雪菜の鼓動は高鳴った。

2回電車を乗り継いで、目的地の駅に着いた。
途中の乗り換えで、次の路線のホームへは一度地上に出なければならず、
雪菜はただ蔵馬に付いていくしかなかった。

「人混み大丈夫だった?」
「はい、なんとか…。わたしひとりじゃ絶対辿り着けなかったです」

そう言って雪菜は苦笑した。
都会はもっと複雑だと前に螢子から聞いたのを思い出し、
電車に乗るのはまだまだ勉強が必要だと雪菜は思った。

ショッピングモールの中に入り、いくつかの店に立ち寄る。
可愛い雑貨やお洒落な食器、アクセサリーやボディケア用品に雪菜は目をキラキラさせていた。

「こういうのに雪菜ちゃんが興味を持つようになったのってなんか嬉しいな」
「え? そうですか…?」
「奢侈品に興味を持つのは、心が穏やかで豊かな証拠だから」
「…!」
「人間界の生活にだいぶ慣れたみたいでよかった」

蔵馬の言葉に、雪菜は確かにそうだと思った。
人間界で暮らしはじめた頃は、慣れないことばかりで余裕もなく、
ファッションにも雑貨にもコスメにも興味などなかった。
それが、いつからだろうか。着飾ることを覚え、働いてみたいと思うようになった。
何かを自分で手に入れたいと思うようになったのだ。

「…でも、確かに、どんどん欲張りになっていくような気はします」
「そう? 欲張りにはまだ程遠いんじゃない? 何かに興味を持つのは良いことですよ」

蔵馬はハンドクリームのテスターを手に取りながら、ああ、でも、と付け足した。

「お洒落になってますます綺麗になっていくのは心配だけどね」
「!」

ふふっと笑う蔵馬に、雪菜は何も言葉を返せなくなった。
そんなこと、さらっと言わないでほしいのに。

「あ、この香り、雪菜ちゃんに似合いそう」

そう言いながら、テスターを渡される。
受け取った瞬間、手が触れて、思わずハンドクリームを取り落としそうになった。
慌てて持ち直して、手の甲に試し塗りをする。
ホワイトフローラルの澄んだ甘さがふわりと広がった。
心地よい香りに雪菜は思わずうっとりする。

「こっちのピオニーとかジャスミンもいい香りかも」
「え…? わ、ホントですね。甘くていい匂い」

迷っちゃいますね、そう言いながら、雪菜はいろいろなテスターの香りを試してみる。
どれもいい香りで、どれも欲しくなってしまう。
だが、やはり、最初に似合うと言われたあの香りが頭から離れなかった。

「このボディークリームにします…!」

手に取ったのはホワイトフローラルの香り。
この香りをまとうたびに、きっと今日のことを思い出すのだろうと雪菜は思った。



*



「あ、ここちょっと見てもいい?」

そう言って蔵馬が足を止めたのは、コーヒー豆の専門店だった。
コーヒー豆の良い香りが店内に広がっている。

「わー、コーヒーってこんなに種類があるんですね」
「ね、びっくりだよね。最近ちょっとハマっちゃって」

雪菜はあの朝淹れてくれたコーヒーの味を思い出した。
ほろ苦くも後味のスッキリした、酸味の少ないコーヒーだった。
店内には芳醇な香りが漂っている。
店員の男性が、いくつか蔵馬に豆を紹介し、試飲を勧めていた。

「コーヒー豆買うなら、豆を挽く道具がないとダメなんですよね」
「そうだね。手で挽けるやつもあるけど、ちょっと大変かな」

蔵馬の家には最近買った焙煎機がある。
だが、インスタントコーヒー派の桑原家には、そんなものはなかった。

「うちに来て飲みます?」
「え?」
「コーヒー飲みたくなったらいつでも来てください」

そう言って蔵馬が笑う。
一緒にいられる理由がひとつ増えたことに、雪菜の鼓動はどくんと高鳴った。

「新しいマグカップも必要だね」

そう言って、雑貨コーナーに目をやる。
このお店のオリジナルだろうか。
青いボトルの絵が描かれた、シンプルでお洒落なマグカップがあった。
蔵馬は色違いのマグカップを2つ手に取る。
そのままレジに持っていく姿を、雪菜はぽかんと見ていた。

蔵馬の部屋で使うために、雪菜のマグカップを買ってくれたのだ。しかもお揃いで。
どうしよう。こんなことをされれば、ますます鼓動が速くなってしまう。
面倒見が良くて優しいのは、ときに罪だと雪菜は思った。
そして、事もなげにこんなことをされている自分は、やはり妹とかそんな部類に思われていて、
彼にとっては恋愛の対象にはならないのだろうなと思った。

「ちょっと歩き疲れたね。そろそろお茶にしませんか?」
「そうですね。行ってみたいカフェがあるんですけど、そこでいいですか?」
「もちろん」

とても綺麗で、立ち振る舞いもスマートで。
世の女性が憧れるすべてを持っている。
すれ違う人々がちらりと彼に眼差しを送る。
かっこいいと呟く声が聞こえる。

相手にされていない。
それはわかっている。
保護者のように守られて、心配されている。

だけど、想いは募るばかりだ。
ただの憧れなんて嘘。頼りになるお兄さんだなんて嘘だ。
親切にされることに慣れてないから、特別に感じるだけじゃない。

気づいてしまった。
傍にいるとこんなにも嬉しくて、こんなにもどきどきする。
言葉のひとつひとつ、笑顔のひとつひとつが気になってしょうがない。

誰にでも優しくて、頼れる存在で、みんなの味方。

だけど。
わたしだけのものになってほしい。

そう思っている自分に気づいた。



*



「城戸から聞いたんだけど、南野、彼女できたの?」
「…え?」

海藤の言葉に、蔵馬は驚いた顔をする。
彼女ができたなど、身に覚えのない話だ。

蔵馬と海藤は、新年会も兼ねて久々に居酒屋で酒を酌み交わしていた。
高校を卒業してからも、海藤とはときどきこうして会う関係となっていた。
海藤のテリトリーの能力が目覚めなければ、学年トップを争う顔見知り程度のまま、
きっとこういう関係にはならなかっただろうと思うと、不思議な縁だと思った。
海藤と城戸と柳沢も定期的に会っているらしかった。

「この前、南野が女の子と歩いてるの見たって」
「女の子と…?」
「ほら…あの、幻海さんとこにいた可愛い子」
「あぁ、雪菜ちゃん?」
「そう。その子」

ああなんだ、と蔵馬は納得する。

「彼女じゃないですよ。この前一緒に出掛けたから、それかな」
「彼女じゃないの? じゃぁ、なに?」
「なにって…友達…?」

友達。
自分で言ってみて、蔵馬自身もその言葉にはしっくりこなかった。

「いや、教え子…? それも違うか。妹…的な?」
「南野にしては歯切れ悪いな」

笑う海藤に、蔵馬も苦笑する。確かに歯切れが悪すぎる。
だが、彼女の存在は、とても一言では言い表せない気がした。

「強いて言うなら、大事な子…かな」
「…ふーん。それって、好きな子ってこと?」
「え? そういうことじゃ…」
「違うのか?」
「好きかと聞かれれば、そりゃ好きですけど…そういうのじゃないというか」
「でも、君が女の子といるなんて珍しいじゃん」
「…そう?」
「まぁ、高校のときの南野しか知らないけど…女子にてんで興味なかったし」

成績は常にトップで、物腰も柔らかく、人当たりもいい。
顔がいいのは言わずもがなだ。そんな彼がモテないはずがなかった。
だが、浮いた話は一度も聞いたことがなかった。

「女が苦手なのかと思ってた」
「そんなことはないですけど」
「でもよく喋る女は苦手だろ? 言い寄ってくる女子たちをいつも煙に巻いてたじゃん」
「…まぁ、ちょっと面倒とは思ってたけど」

集団で押しかけて、好き勝手に話す女生徒たちの勢いには多少気圧されていた感はあった。
そういえば、何かと言い訳を見つけては逃れていたことを思い出す。

「雪菜さんとはよく会うの?」
「まぁ、たまにね」
「あの子はどっちかっていうとお喋りな感じじゃないもんな」
「そうですね。…ああ、そっか。だから居心地がいいのか」

必要以上に詮索はして来ないし、深追いもして来ない。
それに、家庭教師をしていたからだろうか。
沈黙になったとしても、それが苦にはならなかった。
何かを話して場を繋がないと、そんなことを気にしなくても良い関係だった。
彼女自身も、沈黙が気まずそうな素振りを見せたことはなかった。

「…居心地がいいのは、お喋りじゃないだけじゃないんじゃない?
 あの子って、なんか癒し系って感じだったし」
「まぁ、確かに、かなり癒されはしますね。浄化されるというか…」

純真で無垢で、まるで穢れを知らないようで、傍にいると心が洗われるようだった。
策略や謀とはあまりに無縁で、彼女といるとなんの駆け引きも必要ないと思えた。

「それに、あの子って、なんか天然というか…すごい色恋に疎そうだったよね。
 柳沢が鼻の下伸ばしてても気付いてなかったし」

最後の言葉に蔵馬が引っ掛かったような表情を見せたが、海藤はお構いなしに話を続けた。

「南野とお似合いだと思うけど」
「…そう?」
「あ、でも、桑原くんがあの子のこと好きなんだっけ?」
「そうですよ」
「…だから、遠慮してんの?」
「え? …そんなことはないけど」

ふーんと意味ありげな顔をする海藤に、蔵馬は苦笑を向ける。

「俺はただ…雪菜ちゃんが幸せでいてくれれば、なんでもいいんですよ」
「南野、それってさ……」
「ん? なに?」
「………いや」

あの子のことめちゃくちゃ大事にしてるじゃん。
海藤は、言いかけたその言葉を飲み込んだ。

普通の人間であれば、それ恋じゃんと突っ込むところだが、
千年も生きてきた妖怪にとっては、ただの深い愛情なのかもしれない。
浮ついた感情だと茶化すのは、なんだか違う気がした。

「なんだ、君にも春が来たのかと思ったのに残念だな。
 今度、女紹介しようか?」

海藤の言葉に、蔵馬は苦笑しながら断りを入れる。
最近この手の話が多いのは気のせいじゃないだろう。
いつまでも彼女なしだと、さすがに心配されるらしい。



*



帰宅した蔵馬は、思い出したかのように
箪笥の引き出しにしまってあった黒い巾着袋を取り出した。
中には、至高の宝石がいくつも入っている。
彼女が流した涙を、本人に返すのもなんだか変な気がして、拾い集めて大事にしまっていた。

蔵馬は氷泪石を一粒手に取って、その輝きを見つめた。

盗賊をやっていた頃、氷泪石のことは噂程度に聞いていた。
謎解きや古代の宝物を専門にしていたため、ターゲットとはしていなかったが、
実際に氷泪石を手にして、どれほど上質で価値の高いものかがよくわかる。
妖怪や人間がこの石を求めるのも無理はないだろう。
それほど美しく希少価値の高いものだった。

この涙を流した少女の姿を思い出す。
泣く姿さえ、この宝石のように儚く美しかった。


初めの頃は本当に親心のようなものだった。
成長していく彼女を見護っていたかった。
生活や勉学をサポートしたかった。

なのに、今では。
彼女を女性として心配している。

いつの間に、あんなに大人になったのだろう。
無邪気に微笑む姿は変わらないのに。
顔立ちも、振る舞いも、言動も。
知らぬ間に大人びて、幼かった面影が薄れていく。


彼女のことは、自分が心配すべきことじゃない。
どこかで一線を引こうとする自分がいる。

実の兄が彼女のことを心配している。
自分が世話を焼き続けたら、名乗り出ることを先延ばしにし続けてしまうかもしれない。
誰かが傍にいるから大丈夫、だなんて思ってしまうかもしれない。
兄の代わりなんて、いるはずがないのに。

彼女をずっと想い続ける人がいる。
彼の想いを知っている。彼からの相談にも乗っている。
だから、彼女がいちばんに頼るべきは彼なのではないか。
自分がその立場を奪おうとしていないだろうか。
上手く対処できるから、それだけの理由なら、自分じゃなくてもいいはずだ。
もっと彼が上手く立ち回れるようサポートすべきじゃないか。

なのに。
放って置けないのはなぜなのか。

人間界で生活していくと決めた彼女を助けたいと思ったから?
力になりたいと思ったから?

じゃぁ、それはいつまでなのだろう。
いつまで自分は助ける気でいるのだろう。
いつか、区切りをつけるべきなのか。
いつか、助けがいらなくなる日が来るのだろうか。

そこまで考えて、蔵馬は氷泪石を見つめながら苦笑を漏らした。

「…関係を築くって、こんなにも複雑だったっけ」

こんなに深く考える必要があっただろうか。
ただ知り合って、困っていたから助けた。
これからも、何かあれば力になる。
それでいいじゃないか。

そう思うのに。

彼女の傍にいる理由を、必死で探しているような気がした。










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