9.

淹れたてのコーヒーを飲みに、手土産のお菓子を持って、雪菜は蔵馬の家に行った。
お揃いのマグカップに、豊潤な香りのほろ苦い液体が注がれ、
砂糖とミルクが混ざり合って溶けていく。

この想いも溶けて消えてしまえばいいのにと、雪菜はぼんやりと思った。

「いい香りがするね」
「そうですね」
「この間のボディクリーム?」
「…え? …あ、コーヒーのことかと…」

顔を赤くした雪菜に、蔵馬はふふっと笑う。

「コーヒーには慣れたけど、この香りは新鮮」
「…!」
「甘くて優しい香り」
「……蔵馬さんが選んでくれたんですよ」
「…そうだったね。ぴったりですね」

そう言って笑う蔵馬に、雪菜の鼓動はどくんと高鳴った。

「またどこか行きたいところがあったら言って?」
「え…?」
「俺でよければお供しますよ」
「…! …ありがとうございます」

でも、と雪菜は視線を手元に向けて、マグカップの縁をなぞった。

「…そんなんじゃ、いつまで経っても独り立ちできないです」
「いいんじゃないかな、別に。頼れることは頼っても」
「…そうでしょうか」
「それに、何かあったら困るし」

蔵馬の言葉に、雪菜は苦笑する。

「わたし、まだ危なっかしいですか?」
「危なっかしいっていうか…放っておけないっていうか…」
「…蔵馬さんにとって、今でもわたしは妹みたいな存在ですか?」

いつしか言われた、妹がいたらこんな感じなのかなという言葉。
あのときは、心配して気に掛けてくれることを、純粋にうれしいと思った。
兄のような先生のような頼りになる存在ができて、心強いと思った。
けれど。

「…そうだね。大事な存在かな」

今は、その肯定の言葉が、とても残酷に聞こえてくる。
洞察力は鋭いはずなのに、この気持ちに気付いてくれる様子は一向になかった。
応えられないから、あえて気づいていないふりをしているのだろうか。



*



新しいコーヒー豆をもらったからと誘われて会いに行ったり、
久々に勉強を見てほしいと教えてもらったり、
気になる店が隣街にあるからと付き添ってもらったり、
何かと理由を探して時間をともに過ごした。
苦しいだけだと分かっていたのに。

「蔵馬さん、この制度がよくわからないんですけど…」
「あぁ、これは…」

蔵馬の部屋で、お揃いのマグカップを並べながら、教材を前に雪菜が問うと、
蔵馬はすらすらと図を描きながら説明をはじめた。

雪菜にとって社会の仕組みはまだ分からないことが多かった。
法律に触れないための最低限の知識は得ているが、
国や自治体の仕組みはまだまだ理解できないことがたくさんある。
ここで暮らしていくために、教えてほしいという純粋な思いもある。
けれど、それだけじゃないことは雪菜自身もわかっていた。

下心。
それを身をもって知る日が来るなんて。

彼はきっと気づいていない。そんな不純な想いを抱いているなんて。
どこかに感じる罪悪感と、純粋なままだと思っていてほしいと思う気持ちと、
けれど気づいてほしいとも思う矛盾が、苦しいほどに胸を締め付ける。
気づかれたら、がっかりされるのだろうか。
彼を慕って近寄る女性のうちのひとり、そんな位置づけになってしまうのだろうか。

男性にしては華奢だけれど、骨張った綺麗な指。
明瞭な説明を紡ぎ出す優しい声。
安心感を与えてくれる柔和な瞳。
そのすべてが、自分だけに向けられるものであればいいのに。
このままずっと傍にいられたらいいのに。

だけど、それは叶わない。

「…ていうことなんだけど、わかる?」
「やっと理解できました…! やっぱり蔵馬さんの説明はどの参考書よりわかりやすいですね」
「そう? 雪菜ちゃん飲み込みが早いから教えがいがありますよ。
 そのうち桑原くんを超すんじゃないかな」

そう言って笑いながら、蔵馬はコーヒーを一口飲んだ。芳ばしい香りが微かに広がる。
雪菜も倣うようにマグカップを手に取った。
砂糖とミルクでまろやかになっているとはいえ、ほろ苦い後味が口内を満たしていく。

男は狼。
簡単について行ってはいけない。
部屋になんて行っちゃ駄目。
静流と蔵馬から教えられたことだ。

今ここに、蔵馬とふたりきりで過ごしている。
それは当然、蔵馬が用心しなければならない相手ではないから。
この状況に何も問題はないと思われているからだ。
つまり、それは、蔵馬と自分の間に何かが起こるなど微塵も思われていないわけで。
彼が、なんとも思っていないということで。

妹のまま、生徒のまま、進めない。

「また家庭教師再開します?」
「え…! そんな、申し訳ないです…!」
「今じゃ雪菜ちゃんの方が忙しいかな」
「そんなことはないですけど…。
 でも、よくよく考えればあの頃は毎日のように教えていただいて、
 贅沢なことしてもらってましたよね…」
「贅沢なんて全然。世話焼きで勝手にやってたことですから」

それに時間もあったし、と蔵馬は笑った。

「…今は、いろんなお付き合いとかあるんじゃないですか?」
「うーん、まぁ、平日に飲みに行ったりはするけど、休日は暇だしね」
「その…女性との出会いとかないんですか?」
「ないですよ、まったく」

さらりと答える蔵馬に、そんなバカなと雪菜は思う。
会社でだって、街中でだって、魔界でだって、女性の視線はあるはずだ。
それに気づいていないのか、もはや眼中にないのか。

「基本インドアなんで、本読んで過ごすことが多いし。
 だから、雪菜ちゃんと色んなところに行けるのは新鮮で楽しいんですよ」
「…!」
「でも、雪菜ちゃんをこんな風に独り占めしてたら、いろんな人に怒られそうだな」
「…そんなこと、ないですよ」

そんな言葉、冗談でも言わないでほしいのに。
ふふっと笑うその顔が、堪らなく好きなのに。

想いが、止められない。

彼女がいるかもしれない。そう知って、心がざわついた。
心細く思ったとき、彼に来てほしいと思った。
いつも冷静な彼の取り乱したような叱責、抱きしめられたぬくもりに、
こんなに安心できるものはないと思った。
独り占めしたいと思ってしまった。

なんと無謀な恋なのだろう。
彼は、誰からも慕われ頼りにされる、眉目秀麗、頭脳明晰な完璧な人。

だから、勘違いをしてはいけない。
優しさは、みんなに対して同じであって、決して特別なんかではないことを。

「コーヒー、お代わりいる?」
「…いただきます」

マグカップを渡す瞬間、微かに触れた手にどきりとする。
見上げると柔らかな翡翠の瞳がこちらを見ていた。

好きなのに、好きという勇気はない。
けれど、今のように頻繁に会ったりするのはつらい。
元に戻れたら。そう思ってしまう。
少しだけ距離があって、少しだけ気にしてくれるような、そんな関係。

そしたら、この想いは封印できる気がした。



*



帰り道。蔵馬は雪菜を家まで送った。
数駅離れているのに、彼はいつも、律儀にも家の前まで送ってくれる。

桑原家の近所の土手は、帰宅途中の学生がちらほら見えるだけで、人影はまばらだった。
近くを流れる河が夕陽に照らされ、水面が輝いて見えた。

雪菜は隣を歩く蔵馬をちらりと見上げて、意を決したように口を開いた。

「…蔵馬さん」
「ん?」
「わたし…蔵馬さんを卒業しようと思います」
「え、なに? 卒業って」

卒業という言葉に、蔵馬は笑いながら訊き返す。
雪菜も笑顔のまま、言葉を続けた。

「じゃないとわたし、いつまでも蔵馬さんに頼り続けてしまいそうですから」

いつまでもこのままでは、不毛な想いを抱き続けてしまう。
たとえ叶わなくてもいいから、傍にいられればいいとも考えた。
けれど、それでは彼がいつまで経っても自分の世話を焼いてしまうかもしれない。
彼には、相応しい人と幸せになってほしい。

「人間界に来てから、蔵馬さんにはたくさんのことを教えてもらいました。
 この世界の常識や、勉強、人と生きていくこと…。本当に感謝しています」
「…そんな、お礼を言われることじゃ…」
「それに、たくさん助けていただきました」

体調を崩したときも、胸の内を吐露したときも、襲われそうになったときも。
いつだって、傍にいてくれた。力になってくれた。

いつの間にか、その存在が、
心の中に浸透していくかのように、安心できる場所になっていた。

「だけど、もう、大丈夫ですよ。バカなことはしないですから」

雪菜がそう微笑むと、蔵馬は驚いたような顔をしたまま黙って話を聞いていた。

「…わたし、蔵馬さんにも幸せになってほしいんです」
「?」
「だから、いつまでも妹にかまけてちゃだめですよ?」
「!」
「蔵馬さんはとても頼りになるから、これからもきっと
 いろんな方に頼りにされちゃうと思いますけど…わたしはもう平気です」

それに、と雪菜は苦笑する。

「蔵馬さんは面倒見が良くて優しいから、このままだときっと甘え過ぎちゃう気がして…。
 ……離れられなくなってしまいそうな気がするんです」

この優しさが当たり前に傍にあると錯覚してしまいそうになる。
ずっと続くなんてこと、ありはしないのに。

「たくさん心配してくれてありがとうございます。でも、もう大丈夫です」
「……」
「和真さんや静流さんもいますし…人間界に来たばかりの頃の不安ももうないです。
 だから…」


あなたの力はもういらない。

蔵馬はそう言われているような気がしていた。
彼女がひとりで立てるのだというなら、それは良いことのはずだ。
心配いらないというのなら、それは喜ばしいことのはず。

なのに。
ざわざわとするこの気持ちはなんなのか。

傍で見守っていきたいと思っていた。
この少女が、また傷付いたりしないように。
二度と虐げられることがないように。笑顔が壊れたりしないように。
護りたいと思っていた。

彼女のことを想う人がいる。見護っている実の兄がいる。
彼らがいれば、彼女は大丈夫だ。心配はいらない。
だから、そこに自分が割って入るのは、少し出過ぎたことだったのかもしれない。
少し、近づきすぎたのかもしれない。

「…ちょっと過保護にしすぎたかな」

そう言って蔵馬が苦笑した。
その言葉に、雪菜も微笑みを返した。

「でも」
「…?」
「淋しくなるな」
「…!」
「過保護がまた必要になったら、いつでもコーヒー飲みに来てください」

蔵馬の言葉に、雪菜ははいと笑って応えた。



*



心配なのは変わらない。気に掛けたいと思う気持ちも変わらない。
けれど、世話を焼きすぎだと言われれば、確かにそうだと思う。
過剰に構い過ぎではないかとも思う。

笑顔の裏に見えた、無理をして耐える姿が、震えた華奢な身体が、ずっと気に掛かっていた。
月明かりの下の横顔が、零れた涙が、はにかむ笑顔が忘れられなかった。

心配していた少女が、この数年で生活にも慣れて、心の傷も癒えて、
もう心配いらないというのなら、本当にもう大丈夫なのだろう。
過剰な世話焼きは、もういらないということなのだろう。

これまで、勉強や生活のことをいろいろと教えてきた。
この卒業が、一区切りということなのだ。

そう納得することにした。


それから、蔵馬と雪菜がふたりだけで会うことはなくなった。
会うとすれば、幽助たちと集まって、飲んだり遊んだりしたときだった。
気まずくなったわけではなかった。
会えば普通に会話をするし、蔵馬はいつだって雪菜を気に掛けていた。

完全に元通り、ただそれだけだった。










8第3章