2.

いつからだろうか。
守りたい放っておけないと思っているこの気持ちは、些かも変わりはしないのに。

月を見上げたあの夜。
初めて心に触れた雪の日。
腕のなかに閉じ込めた温もり。
卒業と告げられた夕焼け。

いつの瞬間からか、愛しさが芽生えていた。



*



微睡む目を擦り、雪菜はふと目を覚ました。
カーテンからは僅かに陽が差し込むだけで、まだ早朝のようだった。
そっと身を起こすと、部屋の隅のソファーで蔵馬が寝ているのが目に入った。
自分がソファーで寝ると言ったが、やはり蔵馬は頑なに受け入れてはくれなかった。
押し負けてベッドで寝ることになったものの、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
本来なら、自分はこの部屋にはいないはずだったのに。

なぜ、部屋に来いなどと彼は言ってしまうのだろう。
もちろん、一緒に過ごせることは嬉しく思う。
傍にいられるだけで、ふわふわと心が躍っている自分に気づく。
傍にいたいと思う。気にかけてほしいと思う。
けれど、それが彼にとって特別なことではないのだと思うと淋しくて仕方なくなる。

いっそのこと、放っておいてくれたなら。
そしたら、こんなに苦しくはなかったかもしれないのに。

ぽとりと雪菜の頬を涙が伝った。
シーツの上に氷泪石が落ちる。切なくて苦しくなる。
いつの間にかこんなにも好きになっていた。
憧れだなんてそんな言葉では足りなくなっていた。

同じ夜に同じ場所にいても、こんなにも遠くに感じてしまう。
そのことがあまりにも哀しくて淋しくて、どうしようもなく胸を締め付けられた。

大事にはされている。
けれど。
それだけでは足りないのだ。

雪菜の瞳からもう一筋涙が流れ、涙の結晶に変わる。
それがシーツを転がり、ベッドから滑り落ちた。
雪菜がはっとした瞬間、絨毯の上に落ちたそれは少しも大きな音を立てなかった。
だが、彼を起こすには十分な物音だった。

「…雪菜ちゃん?」

目を覚ました彼がこちらを見る。
さきほどよりもさらに陽が出始め、微かな光に雪菜の顔は照らされていた。
蔵馬が状況を理解するにはそれだけで十分だった。
蔵馬は驚いた顔をして、雪菜の方へと近づく。

「どうしたの…!?」

雪菜は慌てて涙を拭って、なんでもないと首を振った。

繕えない。
けれど、本当のことを言えるはずもない。

「…ごめんなさい、なんでもないんです。少し…怖い夢を…!」

そう言いかけて、雪菜の言葉が最後まで紡がれることはなかった。
蔵馬に抱きしめられて、言葉が続かなくなった。
温かい腕が雪菜を包み込む。

「…全然、大丈夫じゃないじゃないですか」

蔵馬が心配そうに言う。
その気遣う声に、雪菜は申し訳なくなった。
彼は本当に怖い夢を見て泣いていると思ってくれている。
心底心配してくれている。
恋心のせいだとはとても言えない。

蔵馬は雪菜の髪を撫でながら、ぽつりとつぶやいた。

「…もしかして俺のせい?」
「!」
「俺に会うと思い出す…? あの日のこと」
「え…?」

一瞬雪菜はなんのことだかわからなかった。
この気持ちがばれたのかと思ったが、そうではないようだった。
そして、はたと思い出す。あの日のこと。それは、川上とのことだ。
蔵馬は、自分のせいで川上とのことを思い出してしまうのではと言っているのだ。

「そんなことないです! 蔵馬さんのせいだなんて…」

雪菜が全力で否定すると、蔵馬は、そっか、ならいいんだけどと言って、微笑を返した。
その笑顔が少し寂しげだったが、抱きしめられている雪菜には見えなかった。

もし遠ざけられた理由が、川上を思い出すからだったら、少しは納得できたのに。
蔵馬はそう思いながら、腕のなかの少女を見つめた。
あっさり否定されたところを見ると、そうではないようだった。

まだ夢に見るほどの苦悶を抱えているのなら、
もう大丈夫と卒業を宣言されたことに納得がいかない。
世話を焼きすぎて疎まれているのだとしたら、
今この腕のなかに大人しく閉じ込められているはずもない。
それどころか、遠慮がちに服の裾を掴んでいる彼女から、嫌悪は感じられない気がした。

だとしたら、本当に、自分にばかり構っていないで
幸せになってほしいと言ったあの言葉が真実なのだろうか。
自分なんかに、そう思っているのだろうか。

異端児だと卑下したあのときのように。
自分など愛されるはずがない。
そう、思っているのだろうか。



*



「…あのっ…」

一向に解かれることのない腕に、雪菜は堪らず声を上げた。

「…もう大丈夫です…。だから…」
「…ああ、ごめん」

そう言って蔵馬が雪菜を解放すると、その顔は朱に染まっていた。

「!」

蔵馬は思わず目を丸くする。
耳まで赤くした雪菜は、一瞬蔵馬を見上げて、居た堪れずに視線を逸らした。
初めは抱きしめられたぬくもりに安堵した。
けれど、みるみる状況を理解しはじめ、鼓動は高鳴り頬は上気する一方だった。

蔵馬の方も、こんな反応が返ってくるとは思っておらず、雪菜をまじまじと見つめてしまった。
頬を染めて俯く彼女の反応があまりに意外で、そして、あまりに可愛いくて、
蔵馬は逆にこちらの鼓動が高鳴るのを感じた。

「…蔵馬さん」
「ん?」
「……誰にでも優しいのは罪ですよ?」

雪菜が困ったようにぽつりと零す。
その言葉に、蔵馬は苦笑まじりに返した。

「別に誰にでも優しいわけじゃないよ。
 …少なくとも、誰でも抱きしめたりはしませんよ?」
「!」

その言葉に雪菜は目を見開く。
蔵馬はただ柔らかい笑みを浮かべるだけだった。



*



「少し寄り道して帰りませんか?」
「寄り道、ですか?」
「見せたい場所があるんです」

にこりとそう笑う蔵馬に、雪菜は断る理由もなく、
人間界へ戻る前に少し寄り道をして帰ることにした。
雪菜にとって、魔界にいた期間はさほど長くはなく、
故郷からほとんど出ない生活をしていたため、
魔界のことは全くと言っていいほど知らなかった。
蔵馬に連れられて進む道すがら、見たことのない街や建物、植物に目を奪われるばかりだった。

珍しそうに辺りを見ている雪菜に、蔵馬は逸れないでねと苦笑した。

「もう少しで着きますよ」

そう言って、蔵馬は森の中の狭い小道を進んでいく。
雪菜も蔵馬のあとに付いて進んだ。
どこに連れて行ってくれるのかは、見てのお楽しみだと最後まで教えてはくれなかった。
樹々に覆われ陽の光があまり届かない暗い小道をしばらく進むと、急に開けた場所に出た。
眩しさに雪菜は一瞬目を細める。
そして、目の前の光景を視界に捉えた途端、息を飲んだ。

目の前に広がるのは、一面の花畑。
薄桃色の花々が、自ら光り輝いて咲き誇っていた。
視界いっぱいに緑と桃色の世界が広がっていた。
ときおり吹く風に、輝く花弁が空を舞い、さらに幻想的な世界を創り出していた。

「綺麗…!」

雪菜は、美しいこの空間がまるで幻かのように思えた。
この世のものとは思えない幻想的な空間。
少なくとも、こんな場所が魔界に存在するなど考えたこともなかった。

「この花は幻蝶華というんです。
 光り輝く花びらの舞う姿が、幻の蝶のように見えるというのが由来です」
「幻蝶華…こんなお花があるなんて知りませんでした」

雪菜は愛おしそうに、近くに咲く幻蝶華を撫でた。

「俺もこの場所は大統領府に通うようになるまでは知りませんでした。
 桃源郷とも呼ばれているそうですよ」
「桃源郷、ですか?」
「世俗を離れた別世界…存在するのが不思議なくらい素晴らしい場所とか、そんな意味ですね」

別世界。確かにそのとおりだと思った。
魔界だとは思えないくらい素晴らしい幻想的な世界。

「本当に…とても綺麗ですね」
「どうしても、この場所を雪菜ちゃんにも見せたかったんです」
「…わたしに、ですか?」

雪菜が思わず振り返って蔵馬を見ると、蔵馬は微笑みながら言葉を返した。

「見せたかったというか…一緒に見たかったという方が正しいかな」
「!」

風が舞い、輝く花びらが舞い上がる。
雪菜は、幻のような世界で、幻を見ているようなそんな気分だった。

「…俺に幸せになってほしいって言ってくれたでしょ?」
「…はい」
「俺にとっては、こういう場所をあなたと見ることも、幸せのひとつなんです」
「…!」
「卒業だと言われて、実はぽっかりと心に穴が空いてしまった気がして」

蔵馬はそう言って苦笑した。

「心配で気に掛けてるっていうのももちろんあるけど、それだけじゃないんですよ」
「……」
「雪菜ちゃんと過ごす時間が楽しくて…だから、もっと一緒にいたい」
「!」
「…駄目かな?」

深紅の瞳が大きく見開かれる。
驚きと途惑いが雪菜の心の中を駆け巡っていた。
嬉しい言葉に、鼓動が高鳴る。

こんな幻のような世界で、そんな言い方はずるい。
駄目だなんて言えるはずがない。

「……わたしも、一緒にいたいです」

ああ言ってしまった。
辛いから傍にいたくないと思ったはずなのに。
決意をしたはずなのに。
こんなにも簡単に揺らいでしまう。

けれど、微笑み返してくれた彼の笑顔で、そんなことはどうでもよくなってしまった。










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