3.

季節が変わり、世間では年度の節目を迎えていた。
雪菜のバイト先でも少なからず影響があり、
学生のアルバイトが、卒業や入学によって入れ替わる時期でもあった。
入れ替わりで人員が安定しないこの時期は、シフトも変動的で、
雪菜が遅番となる日も増えていた。

「雪菜ちゃん」
「静流さん! すみません、迎えに来ていただいて」
「いいのよ、カズがもう出来上がってるからね」

あんなんじゃ運転できないし、と静流は苦笑しながら付け足した。
遅番のときは、可能な限り桑原が迎えに来ていた。
だが、今日は静流が代わりに来てくれている。

「幽助くんが魔界から持ってきたお酒が強烈でね、みんなぐでぐでで」
「そうなんですか?」

雪菜は驚いた顔をしながら、静流の車の助手席に座った。
みんなお酒が強そうなイメージがあったためか意外に思えた。

「蔵馬くんも結構ほろ酔いな感じで、ちょっと珍しいかも」
「えっ! …それはちょっと見てみたいです」

今日は桑原家でちょっとした飲み会が開かれていた。
といっても、メンバーは桑原と幽助と蔵馬の3人だけだが。
蔵馬が来ることは、本人から連絡があったため、雪菜も知っていた。
遅番のシフトを入れてしまったことを恨めしく思ったが、桑原が男子会だと言っていたのを聞いて、
参加しない方が良かったのだろうとなんとなく思っていた。



*



「ただいま帰りました」

そう言ってリビングに入ると、真っ先に蔵馬と目が合った。
すぐにいつもの笑みを向けてくれる。

「雪菜ちゃん、おかえり」

少しだけ頬が上気しているように見えるが、特段いつもと変わらないように雪菜には見えた。
会社帰りにそのまま来たのだろう。
スーツ姿のままだったが、ネクタイは外され、シャツの第一ボタンも外されていた。

「雪菜さーん! おかえりなさーい!!」
「ただいまです。あ、何かおつまみいりますか?」
「いえ! そんな! お気遣いなく! 雪菜さんがいれば何もいりません!!」
「…はぁ、そう、ですか?」

桑原の言葉に、雪菜は小首を傾げた。
後ろで静流が苦笑している。

「雪菜ちゃん、こんな酔っ払いどもは放っといていいから。
 明日も早いんでしょ? ごはん食べて寝ちゃいな」
「え、明日も早いの?」

静流の言葉に反応し、蔵馬が雪菜に声を掛けた。

「そうなんです、明日は早番で…」
「そうなんだ、じゃぁうるさくしちゃ悪いですね」
「でも、早いと言ってもお店は10時からですし、9時には出勤出来れば大丈夫なので」

それに、と雪菜は付け足した。

「せっかく蔵馬さんがいらしてるので…」

雪菜の言葉に蔵馬は少し驚いた顔をして、すぐに微笑みを返してくれた。
そのやりとりを静流はにやにやと見守っていた。

「とりあえず私はお風呂入って寝るから。あんまり騒ぎ過ぎないでよね。
 あ、蔵馬くん、寝るとき2階の父さんの部屋使って良いから」

それだけ言い残して、静流はリビングから出て行った。
静流も明日は美容院の仕事があり、雪菜より朝が早かった。
おそらく桑原と幽助はリビングでそのまま寝るだろうと踏んで、
出張でしばらく不在の桑原父の部屋を蔵馬に勧めたのだった。

去っていく静流におやすみなさいと声を掛け、雪菜は蔵馬に向き直った。

「ほろ酔いな感じって聞きましたけど、そんな感じしないですね」
「そう? 結構頭回ってないかも」

そう言って蔵馬は苦笑した。
幽助のお酒はかなり度数の強いもので、酔いが回るのも早かった。
おかげで幽助と桑原は既にご機嫌状態だ。

「雪菜ちゃんがいるから、必死で理性を保ってるんですよ」
「!」

蔵馬が微笑を浮かべる。
酒のせいだからなのか、いつもより艶っぽく見えて、雪菜はなぜだかどきりとした。

「あ、そういえば、幽助たちとさっき話してたんですけど、
 桜が咲いたら、幻海師範の道場で花見をしようって話になって」
「お花見ですか?」
「うん、雪菜ちゃんもぜひ」
「はい! 行きたいです」

幻海の敷地には、たくさんの桜の木が植えられていた。
山地のおかげで開花は少し遅かったが、毎年桜の季節になると、見事な花々を見ることができた。
しかも私有地のため、人混みを気にする必要もない。

「そろそろ色んな花が咲き出す頃だし、今度一緒にどこか行こっか?」
「!」
「薔薇はまだだけど、チューリップとかガーベラとかならそろそろかな」

事もなげに言った蔵馬の言葉に、雪菜は少なからず動揺していた。
魔界で見た幻蝶華の煌めきが頭をよぎる。
綺麗なものを一緒に見たいと言ってくれたあの言葉を改めて反芻する。
だが、そんな期待はしてはいけないと、雪菜は思い直したように言葉を返した。

「そうですね、お花の勉強には最適な時期ですね」
「…違うよ、雪菜ちゃん」
「?」
「デートのお誘いですよ?」
「!」

雪菜は目を見開く。
だが、蔵馬はいつもと変わらない様子に見えた。

「…あの、やっぱり酔ってますか…?」
「まさか」
「でも…」
「そんなに信用ないですか?」
「そういうわけじゃ…」

不服そうな顔をした蔵馬に、雪菜は珍しいものを見た気がして、まじまじとその顔を凝視する。
拗ねたようなそんな顔、今まで見たことがない。

「…じゃぁ、また誘いますから」
「!」
「考えといて」

そう言って、蔵馬は幽助と桑原の輪の中へ戻って行った。
残された雪菜は、ただその後ろ姿を呆然と見ていた。

どきどきと、あとから鼓動が速くなる。
酔っていたのだと思う。

けれど。
誘ってくれたのは本心のような気がしていた。



*



鼓動が高鳴るせいなのか、浅い眠りを繰り返していた雪菜は、完全に目が醒めてしまった。
諦めて起き上がって時計を見る。時刻は2時に差し掛かったところだった。

桑原たちはきっとリビングで眠ってしまったのだろうと、様子を見に雪菜は1階に降りた。
案の定、リビングの床で寝ている桑原と幽助を見つけて、毛布を持ってきてふたりに掛ける。
転がった酒瓶やおつまみの袋を簡単に片付けた。
ふたりは完全に酔い潰れているのか、起きる気配は全くなかった。

リビングに蔵馬の姿はなく、桑原父の部屋で寝ているのだろうと思い、雪菜は再び2階に戻った。
桑原父の部屋に向かうと、その扉は空いていた。
いくら春が訪れたと言っても、まだ夜は底冷えがする。
寒いのはそこまで得意ではないと以前蔵馬が言っていたのを雪菜は思い出した。

部屋をそっと覗いてみると、蔵馬がベッドで横になっている姿が見えた。
布団も被らず、そのまま寝入ってしまった様子に、雪菜は堪らず部屋へ入った。
さすがにスーツとシャツは脱いでおり、上は白のアンダーウェア姿で、
下は桑原に借りたのかスウェットのパンツを履いている。
翡翠の瞳は閉じられたままだった。

起こさないように。
そう思いながら、布団を掛けようと手を伸ばしたそのとき。
蔵馬が小さく身じろきした。

「…? …あれ、雪菜ちゃん…?」
「ごめんなさい、起こして。あの、お布団を…」

言いかけた言葉は最後まで続くことはなく、気づけば腕を引かれていた。

「!」

抗う術などなく、ベッドの上へと引き寄せられる。
そのまま蔵馬の腕の中に閉じ込められた。

「く、蔵馬さん…!?」
「……」

焦る雪菜をよそに、蔵馬は再び眠りにつこうとしていた。

「あの、わたし、お布団をかけに来ただけで…!」
「…布団…? ああ…」

そう言って、蔵馬は少し身を起こして布団を手にし、自分と雪菜に被せた。
そして再び雪菜を抱きしめて眠りについた。

「蔵馬さん…!」
「……」
「あの…!」
「……」

完全に沈黙した蔵馬に、雪菜はなす術がなかった。
腕を振りほどいてベッドから出ることならできるだろう。
けれど、それができないでいる自分がいた。

蔵馬の髪の香りと、アルコールの匂い。
わずか10センチにも満たない距離に、端正な顔がある。
この状況に、どきどきと鼓動がうるさく鳴り続けている。

けれど、こんなにも緊張するというのに、なぜか安心感は消えなかった。
こんな風に腕に閉じ込められても、彼が何かをしてくる気はしなかった。
否、たとえ何か起きても、自分はそれを受け入れる気さえしていた。
酔っていたからだとしても、この温もりが愛しいと雪菜は思った。

叶わない想いを抱いたまま、傍にいるのは辛い。
だから、離れようと思ったのに。
彼の方から一緒にいたいなんて言われてしまっては、
断るすべなど存在しない。拒めるはずがない。
辛くても、傍にいることを選んでしまう。

例え妹のように思われているのだとしても、
きっと彼に今いちばん近い女性は自分だけだ。
自分だけが、彼の特別を享受している。

だから、どうか。
この関係が永遠に続けばいいのに。

蔵馬に抱きしめられて、どきどきして眠れない。
そう思っていたが、雪菜の瞳は次第に微睡みはじめた。
バイトで疲れていたこともあるが、なにより、ぬくもりと安心感が、
雪菜を眠りへと誘って行ったのだった。



*



カーテンから陽の光が差し込む。
どこからか鳥のさえずりが聞こえた気がして、蔵馬は目を覚ました。
昨日の酒のせいで、頭が痛かった。アルコールの匂いが全身に染みついている気がする。
携帯を探そうと体勢を変えようとして、ふと柔らかい感触に気づいた。
そして、青ざめた。

「…!?」

蔵馬の腕を枕に眠る、雪菜の姿。
白いもこもこのルームウェアを身にまとい、あどけない表情で隣で寝ている。

蔵馬は必死で昨夜の記憶を辿った。
この少女をベッドに連れ込んだなどと、そんな記憶が出てこないことを祈りながら。

そして、はたと思い出す。
部屋に訪れた彼女の手を引いて、そのまま寝たのだと。
最悪だ。無自覚になんてことを。

夢だと思っていた。
夢に現れた彼女を、もう離すまいと腕を掴んで閉じ込めた。
それが、現実だったなんて。

蔵馬の心情を知ってか知らずか、隣にいた雪菜が目を覚ました。
しばらくぼうっとしていたが、近くに蔵馬の顔があることに気づき、すぐに覚醒した。

「あ…おはよう、ございます…」
「おはよう。…ごめんね?」
「いえ…!」

雪菜は恥ずかしくなって身を起こした。
蔵馬も身を起こし、申し訳ない顔をした。

「振りほどいて逃げてくれてよかったのに」
「そんなこと…」
「酒臭いし最悪だよね、ほんと」

いえ、と雪菜は首を振る。
実際のところ、蔵馬から酒臭いと思うほどのアルコールの匂いは感じていなかった。
むしろ髪からだろうか、いい香りの方が印象に残っている。

「ごめん、今日もバイトだよね? ちゃんと眠れた?」

蔵馬の問いに、雪菜は少し考えて、困ったような微笑を浮かべた。

「…ごめん、そうだよね」
「いえ、違うんです…! 初めは緊張してたんですけど…
 蔵馬さんといると安心するから、気づいたら寝ちゃってました」
「…!」
「どきどきしてたんですけど、不思議です」

雪菜はそう言って少し照れたように笑った。

「…まだ安心してくれるならよかった。危うくミイラ取りがミイラになるところでした」
「え…?」
「いえ、こちらの話です」

蔵馬はそう言いながら苦笑する。
雪菜は意味がわからず小首を傾げた。

「時間は大丈夫?」
「え? …あ、そろそろ準備しないと!」

雪菜が慌ててベッドから出て行く。
お味噌汁作っておきますから飲んでくださいね、そう言い残して。
その後ろ姿に蔵馬は声を掛けた。

「デートの話、ちゃんと考えといてね」
「!」

雪菜は驚いて振り返り、静かにこくりと頷いた。










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