6.

どきどきと、雪菜は朝から落ち着かなかった。

今日は蔵馬が傷の具合を診察しに来る。
背中を直に見るわけだから、当然蔵馬は、傷跡が残っていないなら
もう診察しなくても大丈夫と言ったのだが、
静流が心配だからちゃんと見てやってと言ったのだった。
静流がにやにやと楽しんでいることに、雪菜はもちろん気づいていなかった。

あれから3日が過ぎた。
人間と違って妖怪は傷の治りが早いし、雪菜は治癒能力が高いため、さらに治りは早かった。
太腿の傷もほぼ治っている。

来てくれることは嬉しい。
けれど、また素肌を見られるのかと思うと、恥ずかしさでどうしようもなかった。
あのときは意識が朦朧としていたし、身体中の痛みでそれどころではなかった。
でも今日は、しっかりと覚醒しているし、蔵馬のことを意識せずにはいられない。

夕刻になって、仕事を定時で切り上げたスーツ姿の蔵馬が、桑原家を訪ねに来た。
幸い桑原はサークルの飲み会で不在だった。
もちろん、大騒ぎするからと桑原がいない日を静流は選んだわけだが。

静流は薄々と雪菜の気持ちに気づいていた。
本当は弟の応援をすべきなのだろうが、相手が完璧な王子様なのだから仕方ない。
弟には勝ち目はないと悟っていた。

「蔵馬くん、わざわざごめんね〜。雪菜ちゃん、2階にいるから見てやって」

静流がそう言うと、蔵馬はわかりましたと頷いて玄関を上がり、
そのまま雪菜の部屋へと向かった。
雪菜の部屋の前で、扉をノックする。
すると程なくして、扉が開いて雪菜が顔を出した。
ファスナーが付いた白いもこもこのルームウェアに、
ボトムは上と同じ素材のショートパンツだった。
細く白い脚が惜しげもなく晒されている。

「こんばんは」
「こんばんは。ごめんなさい、わざわざ…」

雪菜はそう言いながら、蔵馬を自室に招く。

「全然大丈夫ですよ。…もしかして、まだ痛む? 静流さんが心配してたけど」
「いえ、痛みは全然ないです…! もう治ってるとは思うんですけど…」

蔵馬は通勤鞄を床に置いて、スーツを脱いだ。
鞄の中から、持ってきた医療セットを取り出す。
シャツの腕を捲りながら、雪菜にベッドへ座るよう促した。
雪菜はこくりと頷いて、ベッドに腰掛けた。

「先に脚見ますね」

そう言って太腿に触れる。
傷がうっすらと見えるくらいで、ほぼ治っていた。
蔵馬はそれを確認し、大丈夫そうですねと言いながら、念のためと薬を傷跡に塗った。

「この塗り薬、まだ余ってますよね? 傷跡が完全に消えるまでは塗っといてください」
「はい…!」
「まぁ雪菜ちゃんの治癒能力で治した方が、傷跡すぐに消えるかもしれないですけどね」

言われて雪菜ははっと気づく。
確かにそうだ。背中は届きづらいが、太腿なら自分ですぐ治せるのに。

「…あれ? もしかして忘れてた?」
「……蔵馬さんの薬に頼りっぱなしでした」

恥ずかしそうにそう言う雪菜に、蔵馬はくすくすと笑った。
処方された薬を、素直に毎日言われたとおりに塗っていた。
傷の治りが早いことに驚きもしたくらいだ。
自分のためにわざわざ処方してくれたのが嬉しくて薬を塗っていたが、
薬草はどちらかというと内科的治療の方が効能が高く、
外科的な治療であれば治癒能力の方が効果があった。
それを完全に失念していたことに、雪菜は恥ずかしくなった。

「はい、じゃぁ、次は背中見せて?」

そう言って、蔵馬が雪菜の隣に腰掛ける。
少し軋んだベッドの音に、雪菜はどきりとして、蔵馬に背を向けた。
ファスナーを下ろし、ルームウェアを脱いで、
長い髪を肩の前に流すと、白い肌が露わになった。
治療のために、素肌の上に着ておいたのだった。

蔵馬が背中に触れる。
びくりとしそうになるのを、雪菜は辛うじて堪えた。

「ここ、痛む?」
「…いえ…!」

蔵馬は何箇所か傷の残る背中に触れ、薬草で作った湿布を貼った。

「何箇所かまだ傷が残ってますけど、経過は順調ですね」
「…ありがとうございます」
「傷の治りが早くてよかった」

そう言いながら、蔵馬は医療セットを片付け始めた。
だが、あることに気づいて手を止めた。そして困ったように笑う。

雪菜の耳が真っ赤に染まっていた。

「…ごめん、やっぱ俺じゃやだよね。ぼたんに来てもらえばよかったかな」
「嫌だなんて、そんなこと…!」

思わず振り返ろうとした雪菜の肩を、蔵馬は抑える。

「雪菜ちゃん、今振り向いちゃ駄目」
「…! …ごめんなさい」

上半身裸だったことを思い出し、雪菜は慌てて前を向いた。
恥ずかしさにさらに身体が熱くなる。

「後ろ向いてますから、とりあえず服着て?」

そう言って蔵馬が立ち上がって背を向けた。
雪菜は慌ててルームウェアを着て、ファスナーを上げる。
もう大丈夫ですと告げると、振り向いた蔵馬は苦笑を浮かべていた。

「体調は大丈夫?」
「…はい…!」
「怖い夢見たりもしてない?」
「大丈夫です」
「…本当に?」
「本当ですよ?」

念を押す蔵馬に、雪菜は苦笑しながら答えた。
雪菜はベッドから立ち上がり、蔵馬の方を向く。

「今日は本当にわざわざありがとうございました。
 …あの、折角なのでお夕飯食べて行きませんか?」
「…いいの? 迷惑じゃないかな?」
「大丈夫です。今日は和真さんもおじさまもいないので、むしろ余ってしまって」
「じゃぁ、お言葉に甘えて」
「本当ですか?」

嬉しそうにそう言って一歩踏み出した瞬間、雪菜は床に置かれた蔵馬の鞄に躓いた。

「っ…!」

バランスを崩した身体を、とっさに蔵馬が抱きとめる。
左腕を腰に回し、傾いた身体を支えた。

「ごめん、もっと端に…」

置いておくべきだったね、そう言いかけて、蔵馬の言葉が途中で途切れた。
目の前の雪菜の表情に、言葉が続かなくなった。

白い頬を真っ赤に染めて、困った顔でこちらを見上げている。
こんな彼女の反応を、表情を、予想していなかった。

雪菜は居た堪れなくなって視線を逸らす。
触れ合っている身体の距離に、抱きとめられた腕の感触に、
身体が熱を持つのを止められない。
蔵馬は俯いた雪菜の長い睫毛をしばらく見つめ、
その華奢な身体を引き寄せて、両腕のなかに収めた。

「…背中、痛くない?」
「え…!? あ、平気です…!」

耳許で聴こえた声に、雪菜の鼓動がさらに跳ねる。
もはや背中がどうこうという話ではなかった。
抱きしめられている。この状況に、頭はパニックだった。

抱きしめられたことは前にもある。
けれど、あのときは泣いていたからだ。
慰めるために抱きしめてくれた。
だが、今は状況が違う。

「…あ、あの…! わたし、本当にもう大丈夫で…だから…!」
「…うん。でも…そういう顔されたら、耐えられない」
「え…? あ、わたし、そんな変な顔してますか…!?」
「……無自覚なの…」
「…??」

蔵馬は小さく溜め息をつく。なんと無防備なのだろう。
抱き止めた、ただそれだけで、こんなにも可愛い反応をするなんて。
あの顔は反則だ。

早く恋愛について理解してほしい。
変な下心に惑わされないように、用心してほしいと思う。
異性への意識を持つことは、恋を知る過程で必要なことだ。
彼女は最近、触れると頬を染める仕草を見せるようになった。
それはつまり、男というものを意識し始めているということで。
恋愛を理解する第一歩のはずで。

だけど。
この顔がもし他の男にも向けられるのだとしたら、それはとても居た堪れない。
彼女を狙う輩が余計増えるだけだ。

少し前なら、触れてもこんな反応はしなかった。
彼女は少しずつ変わっていっている。成長している。
それを望んでいたはずなのに、どこかで変わって欲しくないと思う自分がいる。
危なっかしい彼女を、自分だけが見護っていたい。

この顔が、自分にだけ向けられたらいいのに。

彼女が困っている。
なのに、拒絶の色を見せていないのをいいことに、この腕を解けないでいる。

「……わ、わたし…本当にもう平気なんですよ…?」
「…うん」
「……あの、だから……」
「それでも、心配でたまらないんだよ」
「…!」
「あなたはいつも大丈夫としか言わないから」

例え、傷ついていたとしても、不安があったとしても、多少のことであれば、きっと言わない。
言うほどのことではないと、そんなことで心配をかけたくないと、きっと遠慮するのだろう。

「……あの日、傷だらけで疼くまるあなたの姿を見たとき、血の気が引く思いがしたんですよ」
「…!」
「あんな目に二度と遭って欲しくないし、誰にもあなたを傷つけさせたくない。
 …だから、雪菜ちゃんがいくら大丈夫って言っても、俺は全然大丈夫じゃない」
「!」
「いつだって心配で、いつだって頼ってほしいと思ってる」
「……蔵馬さん…」
「そろそろ俺の過保護に慣れて」

抱きしめられたまま、優しい声が頭上から響く。
雪菜は蔵馬の胸に顔を埋めたまま、瞳を閉じた。
このぬくもりに、いつだって安心させられてしまう。
鼓動はうるさいくらいに鳴り響くのに、居た堪れないほど身体は上気しているのに、
この時間がずっと続けばいいのにと思ってしまう。
この腕の中に、ずっといられれば。

ああ、だけど、こんなのずるい。
想いが募るばかりだ。

囚われていた過去や故郷での境遇、不慣れな人間界での生活。
それらを慮って、彼は心配してくれている。
保護の対象として、護るべきものの中に、自分も入れてくれている。
彼の母親や父親、弟のように、大事にされている。
それはとても光栄なことなのに。
なのに、それだけでは足りない。

過保護に慣れるたびに、切なさが増す。
この優しさが、恋心であってほしい。
そんな無謀な願いを抱いてしまう。

「……蔵馬さんは本当に優しいですね」
「ん? そうかな…」
「そうですよ」

この優しさに包まれると、あたたかくて、嬉しくて、苦しい。

「…もう少しだけ、このままでもいいですか」
「…! …もちろん」

いつかは、この手から離れなければならない。
いつまでも縛ってはいられない。
心配をかけなくて済むように。世話を焼かなくても済むように。
いつかは、この隣から離れなければならない時が来る。

だから、この安心感を思い出すだけで、大丈夫といえるようにならないといけない。
いつか、彼の過保護が無くなったとしても。

でも、今だけは。
どうかこの時間が永遠に続いてほしい。










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